artscapeレビュー

写真に関するレビュー/プレビュー

韓超(ハン・チャオ)「私の惨めな小宇宙への狂詩曲」

会期:2010/11/05~2010/11/21

ZEN FOTO GALLERY[東京都]

韓超(ハン・チャオ)とはじめて会ったのは、2010年4月に中国・北京郊外で開催された「草場地春の写真祭」の関連企画として開催されたポートフォリオ・レビューの会場だった。この時は、北京在住の写真家を中心に10人余りの作品を見たのだが、そのなかで最も強い輝きを放っていたのが彼の写真だった。ポートフォリオ・レビューには、ZEN FOTO GALLERYのオーナーのマーク・ピアソンもレビュアーとして参加しており、彼もやはり韓超の仕事に目をつけていたようだ。その縁で、25歳というまだ若い彼の最初の個展を東京で開催することになったのは、とても素晴らしいことだと思う。
韓超のテーマは、ゲイである彼のプライベート・ライフである。もちろん、この種の写真は欧米諸国でも日本でもたくさんあって、とりたてて珍しいものではない。とはいえ、まだ差別や蔑視の感情が強い中国で、ゲイとしてカミングアウトして生きていくのは相当な困難がともなうはずだ。そんな社会との軋轢、厳しい人間関係が、彼の写真に強い緊張感や不安感をともなって写り込んでいる。だが基調となっているのは、そのようなネガティブな感情ではなく、むしろ「愛と写真」の力を信じて、自分と男友達、そして家族などの姿をしっかりと記憶に刻みつけておこうとする彼の強い意志だ。それが彼の写真に、触れれば火傷しそうな熱と、どこか冷ややかな距離感とを同時にもたらしている。ポートレートもいいが、部屋のインテリアや花などをさりげなく撮影したスナップにも実感がこもっていて、じっと見入ってしまうような力がある。
写真家としての才能に恵まれた彼が、それをこのまま順調に伸ばしていくことができるといいのだが。

2010/11/08(月)(飯沢耕太郎)

高橋尚子「景色は私に吸いつくか」

会期:2010/11/01~2010/11/07

PLACE M[東京都]

高橋尚子(1984年生まれ)の個展会場の挨拶文に、なかなか面白いことが書いてあった。彼女は学生の頃に、冬の牧場で働いていたことがあった。子牛に大きな哺乳瓶で体温まで温めたミルクを与える役目だ。ところが、生まれたての子牛はそれをなかなか餌だと認識できない。
「その人工的な乳頭に、子牛が吸いついてくれるまでの数分間のやり取りのなかに、どこか普遍的な関係性の法則が見てとれる気がした。カメラを手にして、そこに景色があるとき、この時の感覚が、再び想い起こされたのだった。」
なるほど、と思う。たしかに被写体を前にしてシャッターを押す時の駆け引き、やり取りは、子牛に人工的な乳頭を吸わせる時の感覚とよく似ているのではないだろうか。そこには「普遍的な関係性の法則」があるような気がする。高橋のスナップ写真にも、彼女の認識力の高さがよく表われている。スナップショットの撮影には単なる運動神経だけではなく、ここでシャッターを切るという確信が必要になる。高橋にはそのスナップシューターとしての資質がある。その結果として、彼女の写真はほのかなユーモアと悪意がじわじわと滲み出る、実に味わい深いものになっている。
どことなく、画面の全体にミルク色のねっとりとした霧がかかっているようにも見えるのだが、気のせいだろうか。

2010/11/04(木)(飯沢耕太郎)

比嘉豊光「骨からの戦世(いくさゆ) 65年目の沖縄戦」

会期:2010/10/29~2010/11/05

明治大学駿河台キャンパス アカデミーコモン1F展示スペース[東京都]

沖縄の写真家、比嘉豊光は1997年から琉球弧を記録する会を組織し、古老たちが沖縄言葉で語る第二次大戦中の記憶を映像、写真などで記録する「島クトゥバで語る戦世」などの作品を発表し続けてきた。今回の「骨からの戦世 65年目の沖縄戦」もその延長上にある仕事である。2010年8月に沖縄の佐喜眞美術館で開催された展示を見ることができなかったのが心残りだったのだが、ありがたいことに東京展が実現することになった。
50余点の写真は沖縄本島の浦添市前田と那覇市真嘉比、西原から出土した日本兵の遺骨を、多くはクローズアップで撮影している。「65年目の沖縄戦」というサブタイトルに万感の思いが込められており、見る者はいやおうなしに沖縄全域が戦場と化した「戦世」の凄惨な状況を思わずにはいられない。だが、比嘉はあらかじめ意味づけされた枠組みを写真から注意深く排除し、ただそこにある「骨」を静かに差し出すだけだ。泥や塵がこびりついた骨たちは、丁寧に水で洗われ、不思議に優雅なフォルムと質感の物体となってそこにある。見続けているうちに、それらが何事かを語りかけてくるような気がしてくる。まずは、しばしその声に耳を傾けるベきなのだろう。
同時に上映されていた映像作品「骨からの戦世──脳が出た」では、頭骨の汚れを洗い流しているうちに、その中から半ばミイラ化した脳漿が出てくる。ここでも何らドラマチックな演出なしに、その事実が淡々と報告されるだけなのだが、激しく揺さぶられるものを感じた。ありえないことだが、頭骨の中の脳が65年という時間を生き続け、今なお何かを「考えて」いるのではないかという思いにとらわれてしまう。比嘉豊光の写真や映像作品を見ていると、見ているはずの自分が逆にその中から見つめ返されていることに気がつく。今度の展示でも、骨やミイラ化した脳漿がこちらをじっと見ているように感じるのだ。

2010/11/02(火)(飯沢耕太郎)

異色の芸術家兄弟 橋本平八と北園克衛

会期:2010/10/23~2010/12/12

世田谷美術館[東京都]

北園克衛に彫刻家の兄がいたことを、寡聞にしてまったく知らなかった。その橋本平八(1897~1935年)は、三重県度会郡四郷村(現伊勢市朝熊町)の出身。日本美術院展を中心に、素朴だが深みのある木彫、ブロンズ彫刻を発表して注目を集めるが、1935年に38歳という若さで亡くなった。5歳年下の北園克衛(1902~78年)は、本名橋本健吉。日本を代表するモダニズム詩人であるとともに、絵画、デザイン、実験映画など多彩なジャンルで活動し、写真作品も発表している。特に戦後『VOU』誌上で展開された「プラスティック・ポエム」と称される造形的な写真シリーズは、あまり例を見ないユニークな作品群といえるだろう。今回の展覧会は、この「芸術家兄弟」の仕事をカップリングしたもので、まったく異質でありながら、どこか通いあうところもある二人の作品世界を興味深く見直すことができた。
その二人の作品の共通性として「単純化」ということをあげられるだろう。橋本平八の彫刻は、形を大きく みとり、余分な装飾性を排することで、アニミズム的とでもいえるような魔術性を湛えている。北園克衛の「プラスティック・ポエム」も、使われている素材は石、針金、丸められた紙といったシンプルなもので、それらを白バックに配置することで、リズミカルで謎めいた視覚的世界を構築する。二人とも東洋的な「間」や省略の美学に深く魅せられるところがあったようだ。日本におけるモダニズム的な作品の系譜と、南画や俳句などとの関係は、もう少しきちんと論じられてもよいだろう。二人の作品は、その格好の作例となるのではないだろうか。
今回の展覧会、特に北園克衛の遺作・資料の大部分は、アメリカ・ハーバード大学エドゥイン・O・ライシャワー日本研究所研究員のジョン・ソルトのコレクションによるものである。ソルトは名古屋の前衛写真家、山本悍右の研究家でもある。彼の積極的な紹介活動によって、北園や山本の作品は欧米でも再評価が進んできている。日本の1930~60年代のモダニズムの歴史的な意義を、グローバルな視点から捉え直す時期に来ているということだろう。

2010/10/31(日)(飯沢耕太郎)

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萩原朔実 写真展

会期:2010/10/15~2010/10/26

アートスペース煌翔[東京都]

萩原朔実の発想の秘密を解きあかす興味深い展示だった。展示作品は二部構成で、第一部は大学の研修で滞在したオーストラリアで撮影された「樹」のシリーズ。なぜか吸い寄せられるように撮り始めたということだが、樹肌が赤く露呈したり、山火事で黒焦げになったりした樹木たちは妙に生々しく肉感的だ。その動物的とでもいうべき生命力は、日本のおとなしい樹とはまったく異質なもので、萩原の、何か珍しいものが目の前にあらわれた時にぱっと飛びついていく鋭敏な生理感覚や反射神経がよくあらわれている。
もうひとつは「観覧車」のシリーズである。たまたまブリスベンの美術館に展示を見に行った時に、建造中の巨大観覧車に出会い、これまた反射的にシャッターを切ったのだという。「インスタレーションの作品」を思わせる移動式の観覧車は、オーストラリア各地にあらわれては消えていく。その「夢のような」たたずまいにすっかり魅せられてしまった萩原は、日本に帰国後も各地の観覧車を撮り続けている。おそらく天性のコレクターの資質を備えた彼のことだから、この次には世界中の観覧車を撮影する行脚が始まるのではないだろうか。
美学者の谷川渥がこのシリーズを見て「差異と反覆だね」と評したのだという。言い得て妙というべきだろう。萩原の作品には、いつでもこの微妙に異なったイメージがくり返されるという「差異と反覆」の魔術が組み込まれている。「観覧車」のシリーズは、最初は正面から円形のフォルムを強調して撮影していたのだが、最終的には真横から垂直に屹立するように撮る構図が選択された。それはこの角度から見た観覧車が、目眩を生じさせるような「差異と反覆」の効果を一番強く発揮できるからだろう。

2010/10/26(火)(飯沢耕太郎)