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artscapeレビュー

ライアン・ガンダー ─この翼は飛ぶためのものではない

2017年05月15日号

会期:2017/04/29~2017/07/02

国立国際美術館[大阪府]

ライアン・ガンダーの重要作と新作約60点を紹介する個展。壁にキャプションはなく、ハンドアウトの会場図に記されたナンバリングを頼りに、「作品」を探す「鑑賞行為」は、畢竟、「作品」と「作品でないもの」の境界、美術館という制度的空間、「見ること」をめぐる思考へと向かうことになる。ただし、「美術」という制度へのメタな言及を「作品」として成立させるガンダーの手つきは、ユーモアやウィットに富み、思わずクスリとさせられてしまうものだ。
例えば、仮設壁の下の隅に、偶然足をぶつけて開けてしまったような「穴」には、丸めた紙くずが無造作に突っ込んである。チラシのメインビジュアルは、壁に取り付けられた眉毛と目玉がキョロキョロと動き、色んな表情をしてみせる愛らしい作品だが、通常は観客に「見つめられる」存在が「見つめ返す」という反転をはらむ。せわしなく動く眉毛と目玉は、私たち観客自身の「眼の運動」、つまり視覚的な刺激を求める欲望を模倣するかのようだ。また、何もない展示室の床や壁に、おびただしい黒い矢が突き刺さった作品もある。矢は均等に散らばるのではなく、床や壁のある箇所に向かって緩やかに密集している。展示空間に物理的な作品を置くのではなく、それを「見る」観客の視線を「矢」に置き換えて可視化したと考えられる。一方、《アンパーサンド》では、壁の一部がフレームよろしく正方形に切り取られ、台に乗ったさまざまな物品がベルトコンベアーで運ばれ、目の前を通過していく。それらは電化製品や衣服、日用雑貨が多いが、落書きされたマネキンの一部など、不可解なオブジェも混じる。陳列される物品の一つひとつには、「解説文」を付した冊子が用意される。明らかに「美術館」の擬態であるが、ここでは、観客が自分の足で歩く代わりに、「作品」の方が向こうからやってきてくれる。私たちは、用意されたソファに身を沈め、TVを眺めるようにそれらを消費すればよいのだ。
このように、「美術」という制度への自己言及性とゲーム性がガンダー作品の特質だが、この点で興味深いのは、ガンダー自身が手がけたコレクション展「ライアン・ガンダーによる所蔵作品展──かつてない素晴らしい物語」である。時代、メディアや技法、テーマが異なる作品どうしが、形態的類似性や記号的な連関性に基づき、「ペア」として半ば強引に並置され、接続されている。例えば、「円」というキーワードで、吉原治良の絵画とイサム・ノグチの彫刻。「夫婦(カップル)」というキーワードで、バゼリッツの逆さまの肖像画とシーガルの石膏像。「星空」というキーワードで、キーファーの巨大な絵画と星座のイメージを小さな箱にコラージュしたコーネルのオブジェ。「椅子」というキーワードで、倉俣史朗とミロスワフ・バウカ。「後ろ向きの裸婦」というキーワードで、パスキンとリキテンスタイン……。ここで行なわれているのは、作品が属す文脈からの切断と再接続であり、その交換可能性と組み合わせの恣意性は、美術史という「物語」とそれを制度的に支える美術館というシステムを、ゲーム的な遊戯性の中へと散逸させてしまう。
ただし、ここで留意したいのは、ガンダーが自作を(しかも特権的に2作品も)配置している点である。そして2作品とも、見た目の類似性ではなく、「コンテクスト」への位置づけへと回帰する欲望が透けて見えることだ。自作の一つは泉太郎の作品とペアで設置され、ユーモアや軽やかさといった「同時代的感性」を匂わせる(ガンダーも泉も1976年生まれ)。もう1作は、ローゼンクイストのポップアート絵画と並置され、深読みを誘う。このようにガンダーの手つきは両義的だ。一方では、美術史という「物語」や美術館というシステムをゲームの遊戯性の中へ解体しつつ、「物語」の構成要素として自作を登録し、コンテクストへの回帰を密かに欲望するからだ。その意味でこれは、「コレクション展」というフォーマットを利用した、もうひとつの「作品」と言えるだろう。

2017/04/30(日)(高嶋慈)

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