2017年07月15日号
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artscapeレビュー

テレポーティング・ランドスケープ

2017年05月15日号

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会期:2017/03/11~2017/05/21

アートギャラリーミヤウチ[広島県]

「テレポーティング・ランドスケープ(瞬間移動する風景)」をテーマに、若手4名を紹介するグループ展。本評では、小田原のどかと小宮太郎の作品を取り上げ、両者の作品の関係性から抽出される問題について述べる。
小田原のどかは、2017年4月15日号のレビューでも取り上げた《↓》を出品。赤く光るネオン管でできた巨大な矢羽根の形をしたこの彫刻作品は、長崎市松山町に1946~48年まで存在した、爆心地を指し示す「矢羽根型記念標柱」を、原寸サイズで「再現」したものである。約5mの高さの矢羽根は、建物の2階と3階を貫くように設置され、点滅を繰り返しながら、空間を赤い光で充満させる。本作の不穏さと批評性の要は、「再現」にあたって小田原が加えた2点の改変にある。オリジナルに表記されていた「原子爆弾中心地」という文言の消去と、都市の繁栄と消費(それは電力の安定供給に支えられている)を象徴するネオン管の使用。さらに、モニュメントや建築の一部としてつくられた彫像が、台座すなわち特定の場所との紐帯を失ってノマド化し、ホワイトキューブ内に移行することで「彫刻」としての自律性を保証される、という近代彫刻史を射程に入れるならば、《↓》が指し示すのは、記憶の忘却と同時に将来的な書き込みを待ち受ける空白、設置場所の代替可能性、つまり「爆心地」の潜在的な遍在性である。


小田原のどか《↓》

一方、小宮太郎の《垂直で水平な風景(を撮る)》は、展示会場の一角の「窓」を実寸大で複製した模型をつくり、それを現実の風景の中に置き、模型の窓越しに見える景色を撮影した作品。「フェイクの窓」によって切り取られる「実在する風景」は、ギャラリー空間が瞬間移動したかのような錯覚をもたらす。それは虚実の境を曖昧化させ、「フレーム」という問題を示唆する。
加えて今作では、「撮影場所」の選定がもうひとつのポイントとなる。撮影場所は、京都、小倉、新潟、呉であり、これらの都市は原爆投下の候補地であった。これらの風景が、小田原の《↓》と並置されるとき、「ここ」(広島県内のギャラリー)が「ありえたかもしれない爆心地」へと転送される──そうした物語を読み取ることが可能だ。
だが、小宮作品との併置はむしろ、小田原の《↓》がはらむ「ポスト・フクシマ」の射程を狭めてしまうのではないか。小田原の作品の積極的な意義は、歴史を「ありえたかもしれない複数の過去」へと遡るだけではなく、むしろ時間軸を積極的に撹拌する点にある。「原子爆弾中心地」の文言が消され、ネオン管の光に彩られた空白は、何者かによる消去と忘却であると同時に、未来における書き込みを待ち受ける余白でもある(そしてその書き込みは既に一度は実行されたが、未だ不可視のままである)。《↓》のネオン管の光は、「今ここ」を享楽的に照らすだけでなく、戦後70年という忘却の時間をもたっぷりと含み込んで発光しているのだ。


会場風景 左より:小田原のどか《↓》、小宮太郎《垂直で水平な風景(を撮る)》

ここで露わになったのは、過去への想起、歴史の偶有性、原爆とその表象、戦後日本社会と「ポスト・フクシマ」といった問題に加えて、「キュレーション」の問題でもある。AとBという二項の関係性から立ち上がる文脈を、より深めて提示できるか、あるいは作品が本質的に内包する射程を狭めてしまうかは、キュレーションの技術にかかっている。その点で、同時開催されたオトリス・グループの《The Radiant》(福島第一原発事故の報道、インタビュー、チェルノブイリ原発事故の記録映像などのモンタージュで構成される映像作品)は、外部から枠組みを補強していたと言える。

関連レビュー

小田原のどか個展「STATUMANIA 彫像建立癖」|高嶋慈:artscapeレビュー

2017/04/29(土)(高嶋慈)

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