artscapeレビュー

福住廉のレビュー/プレビュー

人造乙女美術館

会期:2016/04/26~2016/05/22

ヴァニラ画廊[東京都]


ラブドールの展覧会。同画廊は、この分野の最大手であるオリエント工業が制作したラブドールの展覧会を4回催してきたが、今回は美術史家の山下裕二を監修に迎え、日本画とラブドールのコラボレーションを実現させた。日本画家の池永康晟による《如雨露》に描かれた女性をモチーフにした作品をはじめ、7体のラブドールが展示された。
注目したのは、やはり立体造形の技術的な完成度。頭と首を接合するうなじに不必要な線が入っていたり、着物がいかにも安っぽかったり、いくつかの難点が見受けられたにせよ、それでも人体の忠実な再現性という点では、いまやラブドールの右に出る造形はないのではないか。そのことをもっとも実感するのが、肌の質感である。これまでの展覧会と同様に、すべてではないにせよ、来場者は展示されたラブドールを部分的に触ることができた。
その質感を正確に形容することは難しい。むろん人肌そのものとは言えないが、だからといって機械的な無機物というわけでもない。ただ、その独特の質感は、ラブドールを性的な愛玩具という機能を超越する何ものかにさせているように思えてならない。今日のラブドールは、ある種の立体造形として正当に評価されるべきではないか。
しかしラブドールへの偏見は根強い。同展で来場者に配布されたパンフレットに掲載されたオリエント工業の造形師やメイクアップアーティストへのインタビューには、ラブドールがそのような日陰者的な扱いを受けていたことが記されているし、何より彼らの顔写真で顔が伏せられていることからも、その穿った見方が依然として持続していることを如実に物語っている。
ただ立体造形としてのラブドールの評価を妨げているのは、社会的な視線だけではない。ラブドールの造形そのものの内側にも、その要因は折り畳まれている。例えば、顔面や身体のプロポーションの面で、少なくともオリエント工業のラブドールには、ある一定の偏りがあることは否定できない。ロリータフェイスと豊満なボディの組み合わせは、ラブドールに求められる機能を満たすうえでの必要条件なのかもしれないが、これが定型的なイメージをもたらしていることもまた事実だ。顔の印象を大きく左右するメイクにしても、どういうわけかみな同じようなメイクに見える。ようするに、ラブラドールにはほとんど多様性が認められないのである。
人間の生活や身体と密着した造形。近代美術が見失ってしまった造形のありようを、ラブドールが実現していることは疑いない。その可能性を育むには、ラブドールの定型を打ち砕く、造形的な挑戦が必要ではなかろうか。

2016/05/13(金)(福住廉)

生誕140年 吉田博展

会期:2016/04/09~2016/05/22

千葉市美術館[千葉県]

原田直次郎の敵対性が岡倉天心とアーネスト・フェノロサに照準を合わせていたとすれば、吉田博のそれは明確に黒田清輝に向けられていた。吉田博が黒田清輝を殴りつけたという逸話がまことしやかに語り継がれているのも、ことの真偽はともかく、そのような双方の敵対関係を如実に物語っている。あの中庸というよりむしろ凡庸な油彩画とは裏腹に、いやだからこそと言うべきか、東京美術学校西洋画科の教授にして帝国美術院の院長、さらには貴族院議員などを歴任した絶大な権力者に一撃を喰らわせるほど骨のある画家となれば、いやがおうにも期待が高まるではないか。
本展は、明治から大正、昭和にかけて一貫して風景を描いてきた吉田博の画業の全容を、およそ270点の作品や資料によって解き明かしたもの。小山正太郎が主宰した京都の画塾「不同舎」で洋画を学び、上京した後自費で渡米して水彩画の展覧会を成功させ、帰国後は凋落していた明治美術会を改組して「太平洋画会」を結成、さらに二度も欧米に渡り、晩年は木版画に転じたが、この長い画業のあいだ一貫して山岳や田園の風景を描き続けた。
例えば《東照宮、日光》(1899)。縦1メートルにも及ぶ大きな画面に日光東照宮の陽明門を描いた初期の水彩画だが、堅実な構図と緻密で克明な線描、だからといって描き込みすぎない抑揚のある筆致など、絶妙な均衡が保たれた傑作である。吉田博の不同舎時代を知る洋画家の三宅克己は「当時一般の水彩画と云えば、鉛筆画の淡彩と云った極めてあつさりしたものであつたが、吉田画伯の水彩画は、濃淡の色調も油絵式に絵に深みあり、運筆の妙技などに余り多く重きを置かず、只管明暗の表現に努めたものであつた」(田中淳「吉田博・吉田ふじをの水彩画(1)」『現代の眼』No.466、1993.9、p.6)と評価している。
そのような高い水準の水彩画を踏まえて、なお強く思い知らされたのは、吉田博が画題と画材の関係性を非常に強く意識していたのではないかという点である。彼がアメリカでいち早く成功を収めた水彩画で言えば、日本の農村を主題にした《朝霧》(1901-03)や《霧の農家》(1903)は湿潤な空気感を、同じく農村の雪景色を主題にした《篭坂》(1894-99)や《雪かき》(1902)は清冽な空気感を、それぞれ巧みに描き分けている。一転して《フロリダの熱帯植物園》(1906)や《ポンシデレオン旅館の中庭》(1906)では、同じく水彩画で熱帯特有の明るく乾いた空気感を再現しているから、吉田博は水溶性の画材の特性を最大限に活かしながら風土の多様性を描いてみせたのである。
では油彩画ではどうか。彼は盛んに日本アルプスに足を運んでいたが、野営を繰り返しながら描いた山岳画の大半は油彩画であった。それは急峻な山岳の稜線や険しい岩壁を描くには、おそらく水彩画より油彩画のほうが有効であると考えたからではなかったか。粘り気のあるメディウムによって描き出されているからこそ、見る者の脳裏にそのダイナミックなイメージが深く焼きつけられるのである。
画題にふさわしい画材を活用すること。あるいは画材に適した画題を選び取ること。吉田博の真髄は、おそらくこの点にある。だが木版画に関しては、その真髄が十分に発揮されなかったように思われる。それが従来の木版画には望めなかった繊細な光線や微妙な色彩のグラデーションを取り込んでいることは疑いない。けれども、細かい線によって分割された色面の世界が、国内外の景勝地の風土と照応しているようには到底思えない。画題と画材を有機的に統合するというより、むしろ特定の画材にさまざまな画題を無理やり押し込めたような強引さを感じざるをえないのである。
吉田博が木版画に挑戦したのは、1923年、3回目の渡米の際、現地の市場で幕末の粗悪な浮世絵が高値で取引されている現状を目の当たりにしたことに由来しているという。「外国人に見せても恥ずかしくない、新しい時代にふさわしい日本人ならではの新しい木版画を自らの手で作らねばならない、と強く思うようになったのである」(安永幸一「近代風景画の巨匠 吉田博─その生涯と芸術」『生誕140年吉田博』展図録、p.13)。幕末の浮世絵が粗悪かどうかはともかく、吉田博の視線が「日本人ならではの新しい木版画」に注がれたことは興味深い。なぜなら、ここには黒田清輝や原田直次郎が格闘した、西洋的な近代化と土着的な日本の相克という構造的な問題が根ざしているからだ。吉田博は近代日本にふさわしい近代版画を、おそらく黒田清輝や原田直次郎以上に、欧米の視線を肌で感じ取りながら、希求していた(なにしろ吉田博が初めて渡米した際、デトロイト美術館で催した展覧会での売上は、当時の小学校教諭のほぼ13年分に相当したという。このように海外での成功を独力で勝ち取ったという自負があったからこそ、吉田博は国家による厚遇を得ながら美術の制度化の過程に自らを投じていた黒田に憤激していたのだろう)。
さて吉田博の独自性は、その近代版画の活路を、例えば恩地孝四郎のように抽象性をもとにした創作版画ではなく、あくまでも線描に基づいた具象性に見出した点である。明瞭な線によって対象の輪郭をとらえ、色彩の微妙なグラデーションによって彩ること。吉田博の木版画は、現在の視点から見ると、その平面性も手伝って、アニメーションのセル画のように見えなくもない。だが、重要なのは吉田博が日本という土着的な世界で近代の版画を志したとき、手がかりとしたのが「線」だったという事実である。振り返ってみれば、水彩画はもちろん、色面を重視する油彩画にしても、輪郭線を強調していることが多い。どれだけ欧米で見聞を広めたとしても、つまりどれだけ新たな風景を目撃したとしても、そしてどれだけ油彩画や水彩画といった西洋絵画の技術を身につけたとしても、吉田博は線だけは決して手放さなかった。あるいは、手放すことができなかったとも言えなくもないが、いずれにせよ肝心なのは、吉田博は線によって「近代」に対峙したのである。
原田直次郎は近代日本の活路を土着日本と近代西洋の縫合に見出した。これに対して吉田博はそれを土着日本のなかに通底する線に求めた。それは、一見するとある種のアナクロニズムではあるが、そのアナクロニズムを貫いた水彩画や木版画が欧米で高く評価されたことを念頭に置けば、それをたんなる時代錯誤の方法論として切って捨てることはできなくなるはずだ。言ってみれば、吉田博は、近代化という不可逆的な歴史の流れに巻き込まれながらも、絵画や版画を手がけるときは、つねに後ろを向いていたのだ。その、一見すると退行的な身ぶりにこそ、ことのほか重要な意味がある。

2016/04/22(金)(福住廉)

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近代洋画・もうひとつの正統 原田直次郎展

会期:2016/04/08~2016/05/15

神奈川県立近代美術館 葉山[神奈川県]

最近、日本近代美術の原点を回顧する企画展が相次いでいる。東京国立博物館の「黒田清輝」展をはじめ、千葉市美術館では「吉田博」展、そしてこの「原田直次郎」展。吉田博はやや世代が若いとはいえ──原田直次郎(1863-1899)、黒田清輝(1866-1924)、吉田博(1876-1950)──、いずれも明治から大正にかけて日本社会のなかに近代美術を定位させることに精力を注いだ画家である。
原田直次郎は夭逝の画家である。わずか36歳で亡くなったため、現存する作品も決して多くない。本展は、高橋由一の画塾「天絵学舎」への入門から、ドイツ・ミュンヘンへの留学を経て、帰国後に結成した明治美術会、そして直次郎の代表作《騎龍観音》(1890)まで、短いが濃厚な画業の全容を、直次郎以外の周辺作家による作品も含めた、およそ200点の作品や資料によって紹介したもの。ドイツ留学時代から親交を深めてきた森鴎外が、直次郎没後に東京美術学校で1日限りで催した回顧展以来(1909年11月28日)、じつに107年ぶりの回顧展だという。
明治の近代美術を理解するうえで重要な参照軸となるのが、美術家や美術団体をめぐる敵対関係である。よく知られているように、黒田清輝はパリのラファエル・コランのもとで学び、帰国後の1896年に白馬会を結成、同年、東京美術学校に新設された西洋画科の教授に着任した。黒田に代表される「新派」が日本近代美術の正統として制度化されたのに対し、原田直次郎が創立にかかわった明治美術会は「旧派」とされた。本展のサブタイトルである「もうひとつの正統」には、そのような緊張関係が暗示されている。
しかし原田直次郎にとっての敵対性は、黒田清輝より、むしろ岡倉天心やアーネスト・フェノロサに向けられていたようだ。なぜなら、1887年、直次郎が帰国した当時の日本は、急速に押し進められた欧化主義の反動から国粋主義の気運が広がり、西洋絵画は冷遇されていたからだ。事実、その1887年、天心やフェノロサは東京美術学校の開校にあたって西洋画科を設置しなかった。ドイツで学んだ西洋絵画を日本で展開しようとしたとき、直次郎はこのような逆境に直面したのである。
とはいえ、その逆境とは天心やフェノロサとの制度的な正統性をめぐる権力闘争に由来しているだけではない。それは、近代をめぐる日本と西洋との本質的かつ構造的な問題に根ざしていた。
「一八八七(明治二十)年十一月十九日、上野の華族会館で開かれた龍池会例会において、原田は講話を行った。その内容を文字に起こした『絵画改良論』によれば、原田はフェノロサや岡倉天心が唱えるような、西洋絵画の長所を日本の伝統絵画へ取り入れて折衷するという考えを、真っ向から批判している。西洋絵画を本格的に学んだ原田にとって、フェノロサと天心の主張は浅はかに感じられただろう」(吉岡知子「原田直次郎 その三十六年をたどる」『原田直次郎 西洋画は益々奨励すべし』青幻舎、p.14)。
西洋美術の長所だけを日本美術に取り入れる折衷主義。これが、岡倉天心がプロデュースした「日本画」を指していることは間違いない。こうして直次郎は天心=フェノロサ的な折衷主義を切り捨て、返す刀で西洋絵画の真髄を突くのである。ドイツ留学時代に描かれた《靴屋の親爺》(1886)は、深い陰影表現による劇的な効果を誇っている点で、その真髄を視覚化してみせた傑作と言えるだろう。
ところが、どれほど西洋美術の技術や規範を内面化したとしても、それを日本の社会のなかに定着させるには、まったく別の問題が生じる。近代化の渦中にある土着的な「日本」で、いかにして近代的な「美術」を普及するのか。それにふさわしい絵画とはどんなものか。どのような絵画であれば、日本人としてのアイデンティティを担保しうるのか。原田直次郎が直面した逆境とは、まさしくこの根深いがゆえに本質的な問題だった。例えば黒田清輝は、この問題に対するひとつの回答として、西洋絵画で言われる「コンポジション」の形式を踏襲しながら、日本人モデルの肉体を理想的に描いた裸体画《智・感・情》(1897)を世に問うた。一方、原田直次郎が彼なりの回答としたのが《騎龍観音》(1890)である。
龍の上で屹立する観音像。それを西洋絵画の技術によって描いたこの大作は、1890年、第三回内国勧業博覧会に出品された。それが直次郎にとっての「回答」であると考えられるのは、博覧会に先立つ1888年、直次郎はドイツ留学中に私淑していたガブリエル・フォン・マックスに宛てた手紙で、「真に日本の様式の絵画」を描くことを切望する心情を吐露しているからだ。《靴屋の親爺》が画題の面でも技法の面でも西洋美術の規範に沿っていたのとは対照的に、《騎龍観音》は西洋絵画の技法を活かしながら日本の土着的な画題を採用したのである。言い換えれば、そのような「折衷」に近代社会にふさわしい「真に日本の様式の絵画」を見出したわけだ。あれほど天心=フェノロサ的な折衷主義を批判していたことを思えば、《騎龍観音》に見られる西洋と東洋の接合は皮肉としか言いようがない。
だが、よくよく考えて見れば、近代を自発的に産んだわけでもない日本で、近代の産物である西洋美術を志すという矛盾を抱えた近代洋画の画家たちは、いかなる画風が正統であれ、おのずとそのような異種混合的な接合を余儀なくされていたのではなかったか。前近代に立ち返るという退路を絶たれ、いやがおうにも近代を受け入れざるをえなくなったとき、折衷や接合が隘路であることを知りつつも、目前の道を歩んでいくほかない。《騎龍観音》の、あの一見すると大味で、ある種のキッチュな佇まいは、近代美術ないしは近代洋画が内側に抱える、そのような哀しさの現われなのだろう。

2016/04/17(日)(福住廉)

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双六でたどる戦中・戦後

会期:2016/03/19~2016/05/08

昭和館[東京都]

双六から戦中と戦後の歴史を振り返った企画展。双六は江戸時代には正月を楽しむ遊びとして親しまれていたが、明治以後、印刷技術の発達に伴い雑誌の付録として定番化すると、庶民の暮らしの隅々にまで浸透した。ある一定の定型をもとにしながらさまざまな意匠を凝らす遊戯。そこには同時代の社会情勢や時事的な風俗、政治的なイデオロギーなどが、ふんだんに取り込まれているため、双六の表象には社会や歴史のダイナミズムが如実に表わされていることになる。この展覧会は、昭和館が所蔵する130点の双六によって、戦中から戦後にかけての歴史的変遷を振り返ったものだ。
注目したのは、やはり戦中の双六である。戦後の双六が人気キャラクターによって未来社会や科学技術の発展を謳う、いかにも平和主義的なイデオロギーが反映されているのに対し、戦中のそれは露骨に軍国主義的なイデオロギーによって貫かれているからだ。前者に安穏としていられる時代はもはや過ぎ去り、後者へと足を踏み入れかねないキナ臭さを感じる昨今、戦中の表象文化から学ぶことは多いはずだ。
例えば本展の最後に展示されていた《双六式国史早わかり》(1931)は、178個のコマを螺旋状に組み立てた大きな双六で、円の中心のフリダシから右回りに外縁を進んでいく構成。中心の出発点に天照大神が描かれているように、双六の時間性と国史のそれを重ねながら体験することが求められている。だが恐ろしいのは、そのゴール。そこにはただ一言、「国民の覚悟」と書かれているのだ。1931年と言えば満州事変を契機に日本の軍部が暴走し始めた時代であるから、早くも庶民の大衆文化にまで軍国主義的なイデオロギーが行き届いていたことがわかる。
だが、軍国主義的なイデオロギーとは必ずしも強権的な暴力性によって庶民に強制されるわけではない。そのことを如実に物語っていたのが、横山隆一による《翼賛一家》である。1940年、大政翼賛会宣伝部の監修により朝日新聞社から発行されたこの双六は、大和家という一家のキャラクターの人生の軌跡をなぞったもの。国民学校を卒業したのち、八百屋や本屋、大工、サラリーマンといったさまざまな職能を経ながら、勤労奉仕、防空演習、国民服、回覧板、産業報国、枢軸一体、日満支一体といった戦時体制へと突き進んでいく。その先にあるのは「忠霊塔」であり「富士山万歳」であるから、当時の国民は戦争で死ぬこと、すなわち「英霊」となることが期待されていたわけだ。つまり庶民にとって親しみのある漫画的表象が、このような恐るべき既定路線を自然に受容させる、ある種の「イデオロギー装置」(ルイ・アルチュセール)として機能しているのである。
双六のもっとも大きな特徴は、それが直線的な時間性によって成立している点にある。どれほど進路が曲がりくねっていたとしても、あるいはどれほどそれを行きつ戻りつしたとしても、出発点と到達点を結ぶ時間の流れはあらかじめ決められている。逆に言えば、未知の時間に逸脱する可能性は最初から封印されているのだ。双六が、このような運命論的な受容性を日本人の国民性に畳み込んできたことは想像に難くない。だが戦前回帰の気配が漂い始めた昨今、私たちが想像力を差し向けなければならないのは、直線的な時間性を撹乱し、新たな時間の流れを切り開くことである。既存の価値観を根底から覆すことのできる現代アートのアクチュアリティーは、おそらくここにある。

2016/04/14(木)(福住廉)

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細密工芸の華 根付と提げ物

会期:2016/04/02~2016/07/03

たばこと塩の博物館[東京都]

根付とは、印籠や煙草入れ、巾着を帯から提げるための留め具。おもに木や象牙を材料にしながら動物や神獣、霊獣、植物、妖怪などを主題に造形された。提げ物の先端に取りつけるため、大きすぎず小さすぎず、手のひらに収まるサイズのものが多い。とりわけ江戸時代の文化文政(1804-1830)の頃に全盛を迎えたが、その後は和装や提げ物の衰退に伴い徐々に庶民の日常生活から姿を消していった。
本展は、約370点の根付を中心に、印籠や煙草入れなどの提げ物、関連資料などを一挙に展示したもの。同館がかつて企画した「小林礫斎 手のひらの中の美~技を極めた繊巧美術~」展(2010-2011)ほどの衝撃は見受けられなかったにせよ、それでも繊細で巧みな技術と、それによって醸し出されるある種の情緒、あるいは初見の人を驚かせる機知など、いわゆる明治工芸に通底する特質を存分に堪能できる展観である。
おびただしい数の根付を通覧して気づかされるのは、その周縁性。根付は現在では美術品ないしは工芸品として評価されているが、本来的には実用品である。いや、より正確に言えば、実用性と装飾性を同時に兼ね備えた両義的な特質こそ、根付本来の価値と言えよう。おそらく、そうした両義性が美術でもなく工芸でもなく、しかし美術にも工芸にもなりうるような、微妙な立ち位置に根付を追いやったのだろう。根付とは、言ってみれば、ジャンルとジャンルの狭間にあって、双方をつなぎ合わせる「のりしろ」なのだ。
しかし、だからといって、根付は二次的で副次的な造形物にすぎないわけではない。そのように見させてしまうとすれば、それは「絵画」や「彫刻」といった近代的なジャンルの内側に視線があるからにほかならない。だが本展の会場を埋め尽くした大量の根付は、そうした近代的色眼鏡による偏った見方を一掃してしまう。印籠に蒔絵や螺鈿など漆芸の技術がふんだんに取り込まれているように、根付はある種の総合芸術であることが理解できるからだ。それは制作の行程が長いばかりか、材料も技法も多岐にわたっており、その豊かな多様性が素材や技法によって細かく分類される近代的な美術工芸の論理には馴染まないのである。
思えば、近代日本は西洋に由来する「美術」を盛んに輸入した一方、江戸に由来する明治工芸を気前よく輸出してしまった。「美術」を手に入れた代わりに、私たちはいったい何を失ったのか。根付の醍醐味が「手に持って愛でることで(根付が)優品に育っていく。愛でる側は幸福感や癒しを得て愛着が湧いてくる」(駒田牧子『根付 NETSUKE』角川ソフィア文庫、2015、p.64)ことにあるとすれば、今後の私たちが取り戻すべきなのは、そのような造形と人とのあいだの親密な距離感ではなかろうか。

2016/04/03(日)(福住廉)

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