2019年01月15日号
次回2月1日更新予定

artscapeレビュー

建築に関するレビュー/プレビュー

太陽の塔リニューアル記念 街の中の岡本太郎 パブリックアートの世界

会期:2018/07/14 ~2018/09/24

川崎市岡本太郎美術館[神奈川県]

この春、東大の食堂を飾っていた宇佐見圭司の壁画がいつのまにか処分されていたことがわかり、問題になったが、それで思い出したのが旧都庁舎にあった岡本太郎によるレリーフの連作だ。丹下健三設計の旧都庁舎の壁にはめ込まれていたこれらの陶板レリーフは、91年の都庁の新宿移転に伴い解体されたからだ。このとき残そうと思えば残せたはずだが、いくら第三者が努力しても、工事の責任者にその気がなければ残すのは難しい。美術評論家の瀬木慎一氏が保存する会を立ち上げたものの、経費は何億円かかるとか1カ月以内に撤去しろとか難題を吹っかけられ、あきらめざるをえなかったという。

太郎の手がけたパブリック・アートは140点以上といわれるが、はたしてそのうちどのくらい残り、どのくらい解体してしまっただろう。そんな興味もあって見に行った。同展で紹介されているパブリック・アートは、テンポラリーなショーや記念メダルなどを除いて69件(墓碑、壁画、緞帳、建築も含む)。そのうち現存するのは41件で、移転したり再生したもの12件、解体されたもの16件となっている。とくに50年代のものは大半が現存せず、70年代以降のものは大半が残っている。これはパブリック・アートが土地や建物に付随するため、64年の東京オリンピック以前のものは再開発ブームで取り壊されたに違いない。

解体された代表例が旧都庁舎の壁画だとすれば、残っている代表例は、1970年の万博のときに建てられた《太陽の塔》だろう。こんな実用性もないヘンチクリンな塔は真っ先に壊されるだろうと思ったら、ほかのパビリオンがすべて解体されるなか最後まで残ってしまった。移転・再生した代表例が《明日の神話》だ。長さ30メートルにおよぶ巨大な壁画は、メキシコのホテルのために現地で描かれたもので、その後ホテルが倒産して壁画も行方不明になったが、太郎の死後、養女の敏子の尽力により発見され、制作から約40年を経て渋谷駅の通路に安住の地を見つけた次第。ちなみに太郎自身はつくってしまえば後はどうなろうとあまり気にしなかったようだ。

ところで、パブリック・アートという言葉が日本に定着するのは90年代のこと。それまでは野外彫刻とか環境造形とか呼ばれていたが、太郎の作品はそのどれとも異なっていた。というのも、パブリック・アートも野外彫刻も環境造形も、耐久性があって危険性がなく、その場にマッチした造形が好まれたため、どれもこれも丸くてトゲがなく、最大公約数的な形態と色彩の作品が多かった。それに対して太郎だけは、あえて嫌われるようなトゲトゲの造形と極彩色をウリにしていたからだ。正直いって太郎のパブリック・アートが身近にあってもあまりうれしくないけど、しかし毒にも薬にもならないどうでもいいような作品より、はるかに存在意義はあるだろうと思う。

2018/07/13(村田真)

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ゴードン・マッタ=クラーク展

会期:2018/06/19~2018/09/17

東京国立近代美術館[東京都]

ゴードン・マッタ=クラークについては、切断系のいくつかの作品と、レストランを営む「フード」の活動は知っていたが、本展はほかに知らないプロジェクトがいろいろと紹介しており、ついに日本で彼の全貌に触れることができる貴重な内容だった。住居・空間・都市の空間と使い方に対するぎりぎりの挑戦は、建築では超えることが難しい一線を軽々と超えており、きわめて刺激的である。実際、彼は空き家に侵入して床や壁を切断したり、倉庫を改造したことによって、逮捕状が出たり、損害賠償請求が検討されている。美術館の依頼による仕事や許可を得たプロジェクトにしても、建築の場合、手すりなしで、人間が落下可能な穴をつくることは不可能である。とはいえ、リチャード・ウィルソン、川俣正、西野達、Chim↑Pom、L PACK、アトリエ・ワンの都市観察などを想起すれば、マッタ=クラークは現代アートのさまざまな活動を先駆けていたことがわかる。

彼は建築を学び、その教育を嫌い、父のロベルト・マッタと同じく、アートの道に進んだ。展覧会場の窓を破壊し、ときにはピーター・アイゼンマンを激怒させたこともある。が、やはりマッタ=クラークの作品はとても建築的だと感じさせる。円、球、円錐などのモチーフを組み合わせた切断の幾何学が美しいからだ。特に倉庫に切り込みを入れた「日の終わり」は、暗闇のなかに光を導き入れ、建築の破壊というよりも、空間の誕生を感じさせる。原広司の有孔体理論のように、閉ざされた箱に穴を開けること。その結果、光が差し込む(=開口の誕生)のは、建築の原初的な行為そのものではないだろうか。「日の終わり」は倉庫を聖なる教会に変容させたかのようだ。また内部の床や壁の切断も、垂直や水平方向に新しい空間の連続を生成している。彼の手法は、非建築的な行為と解釈されることが多いけれど、壊されゆく建築の内部に新しい建築をつくっているのだ。

早稲田大学建築学科小林恵吾研究室が製作した「サーカス」のダンボール模型(左)、美術館の前庭に展示された《ごみの壁》(右)


《スプリッティング:四つの角》


手前は「リアリティ・プロパティーズ:フェイク・エステイツ」、会場デザインは小林恵吾


《クロックシャワー》(写真右手)


「オフィス・バロック」(写真左手)と「市場」カテゴリの展示エリア(写真右手)


2018/07/07(土)(五十嵐太郎)

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サポーズ・デザイン・オフィスの社食堂、「堺町ビルプロジェクト」

[東京都]

代々木上原の谷尻誠、吉田愛が率いるサポーズ・デザイン・オフィスの社食堂にて、ランチを食べる。土曜の昼だったが、かなり賑わっていた。半地下の空間であり、事務所のエリアとの間に間仕切りはなく、食堂から働いている様子がまる見えだった。仙台の卸町の倉庫を転用した阿部仁史のアトリエも、レクチャーの開催時、横でスタッフが仕事をしていたが、社食堂は天井が低い分、もっと近接した感じである。もともとはスタッフもうまくて健康的な料理を食べられるようにと谷尻さんが始めたプロジェクトらしい。飯田善彦の事務所も大量の蔵書があることを活かし、1階をブック・カフェとして開放していたが、これらは《CASACO》が住宅を開くように、事務所を開くタイプの試みと言えよう。

広島市において、サポーズ・デザイン・オフィスによる「堺町ビルプロジェクト」を見学した。場所は川を隔てて、《広島平和記念公園》のすぐ近くである。自社運営(!)のホテル《THE PLACE》を建設する前に、敷地にある解体予定の古いアパートを活用し、10組のクリエイターの表現スペースとして開放するプロジェクトだ。したがって、期間限定である。劇団が活用する部屋は上演中のため、室内を見ることができなかったが、401号室の竹村文宏の「絵画を構築する」、402号室のCarlosによる「解体を構築する場R」、ほかに2A号室のmasmによる絵画と空間インスタレーションなどが印象に残った。いずれもホワイトキューブではなく、さらに現状復帰も要請されない条件を生かし、建築空間と深いつながりをもつアートを展開している。ただし、ゴードン・マッタ=クラークのような壁や床を切りとるほど、ラディカルな介入ではない。それでも、「解体を構築する場R」は、畳や押し入れなど、日本のアパートならではの部位をうまく読み替えていた。サポーズ・デザイン・オフィスは、モノのデザインだけではなく、コトを起こすことに長けている。

サポーズ・デザイン・オフィスの社食堂


サポーズ・デザイン・オフィスの左がオフィス。右が厨房


「堺町ビルプロジェクト」入り口


竹村文宏「絵画を構築する」


Carlos「解体を構築する場R」


masm「Gallery ‘ROOM-A’」


2018/06/23(土)(五十嵐太郎)

ゴードン・マッタ=クラーク展

会期:2018/06/19~2018/09/17

東京国立近代美術館[東京都]

ゴードン・マッタ=クラークというと、パリの建物を円錐形にくり抜いた《円錐の交差》が知られている。ちょうどポンピドゥー・センターが建設中だったときで、再開発で取り壊される前の建物を使ったのだ。ほかにも、建物を真っ二つに切断した《スプリッティング》、ゴミを固めて壁をつくる《ごみの壁》、当時流行り始めたグラフィティを撮影して着色した《グラフィティ・フォトグリフス》、食を通じて交流を目指す《フード》など、すでに70年代に先駆的な活動を展開。その後のサイト・スペシフィックなインスタレーションやストリート・アートやコミュニティ・アートやソーシャリー・エンゲイジド・アートなどに道を開いたといっても過言ではない。意識したかしないかに関わらず、川俣正もPHスタジオも殿敷侃も中村政人もChim↑Pomもその影響圏内にあるのだ。

でもそのわりに知られてないのは、彼の作品がモノとして残らないこと、そして、78年にわずか35歳で病死したからだ。亡くなる前に、自分は有名じゃないから作品はすべて処分してくれと遺言したらしいが、遺族は処分しなかった。もし処分していたらその後の美術の流れは変わっていたかもしれないし、こんな極東の国立美術館で紹介されることなどありえなかっただろう。とはいえ、残されたものはスケッチや記録写真、ビデオ映像、使用した建築の断片などで、いかにも作品然としたものはほとんどない。今回の回顧展では、仮設壁を立てたり鉄パイプを組んだりフェンスを張ったりしたなかに、こうした記録や作品の断片をいかにも雑然とした感じで並べていた。まるで「工事中」で、マッタ=クラークにはまったくふさわしい。

そもそも都市を舞台にした活動を美術館で見せることを、マッタ=クラークは望んだだろうか。望んでいなかったから遺品を処分してくれと頼んだのではないか。そこは矛盾しているが、矛盾を抱えていたほうが展覧会としては刺激的になる。だいたい都市と美術の関係なんて矛盾しているし、それ以前に美術館の存在自体、矛盾の固まりではなかったか。みたいな、自爆的な展覧会。

2018/06/18(村田真)

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白井晟一の「原爆堂」展──新たな対話にむけて

会期:2018/06/05~2018/06/30

Gallery5610[東京都]

311の原発事故を経て、新しい意味を獲得したことから、「白井晟一の『原爆堂』展」が、表参道のGallery5610で開催された。丹下健三の《広島平和記念資料館》(1955)とほぼ同時期に、白井が構想した原爆に対する建築からのもうひとつのアンサーである。誰かに依頼されたわけではない、半世紀以上も前のアンビルドのプロジェクトだが、もともと時流を意識せず、時代を超越したデザインのため、いま見ても古びれていない。目玉のひとつは、岡崎乾二郎の監修によって武蔵野美術大学の展示の際に制作された模型が出品されていること。これはすぐに壊れそうないわゆる建築系の白模型ではなく、重厚感をもち、モノ自体がアート的な迫力を獲得していた。また今回のために新規に制作された竹中工務店によるCGのムービーは、入口から地下にもぐり、螺旋階段を昇って、展示室に至るシークエンスを表現している。特にテクスチャーにこだわった仕上がりで、白井の実作を参考にしたせいかもしれないが、《松濤美術館》を想起させる。会場では、ほかにスケッチ、図面、年表、筆者を含む石内都や宮本佳明らへのインタビュー映像などが展示された。じっくりと図面を見ると、地下に2箇所、男女共用のトイレも設計されており、左側はおそらく事務方、右側は来館者用のようで、リアルに設計されていたことがうかがえる。

6月24日のトークイベントでは、白井の原爆堂が獲得した普遍的な意味について、原発/原爆問題に取り組む医師の稲葉俊郎と対談を行なう。稲葉さんからは科学史を振り返り、死と医療、墓とシンボルなどについて語り、筆者からはコミュニティ以外にもあるはずの建築の力に触れた。それにしても「原爆堂」というのは、すごい名前である。大阪万博でさえ、展示で原爆を入れようとしたら、アメリカへの忖度から政府が変更させたというから、公共施設としては、絶対に成立しなかったネーミングだろう。



2018/06/13(水)(五十嵐太郎)

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