2017年12月15日号
次回1月15日更新予定

artscapeレビュー

2017年10月01日号のレビュー/プレビュー

田中みゆき「音で観るダンスのワークインプログレス」上演&トーク

会期:2017/09/16

KAAT 神奈川芸術劇場 大スタジオ[神奈川県]

キュレーターの田中みゆきは今年2月にもKAATで、康本雅子とともに、見えない人たちがコンタクトインプロヴィゼーション(体を接触させた状態で二人ひと組になって行なう即興のダンス)を踊る公演「視覚障害×ダンス×テクノロジー”dialogue without vision”」を行なって注目を集めたばかりだ。今回、田中は見えない人と見える人とがともにダンスを鑑賞するために「音声ガイド」付きの上演を試みるというプロジェクトを企画した。イベント当日は、三回のワークショップと数回の研究会での顛末を紹介するトークがあり、その後、観客全員が音声ガイドを耳に当てながら、捩子ぴじんのダンスを鑑賞した。上演は二回。一回目は照明の下で、二回目は完全暗転の中。音声ガイドは三種類。ひとつは捩子ぴじんが台本を書きARICAの安藤朋子が朗読したもの。ひとつは研究会メンバーによる「観客の視点(を起点にしたダンサーの動きについてのできるだけ客観的な説明)」をベースにしたもの。もうひとつは能楽師の安田登が独自の解釈と抑揚で作成したもの。田中によれば、音声ガイドの決定版が作りたいというよりも、音声ガイドを作ることで「ダンス」を考えるための隠れている視点を発見することに主眼があるとのこと。一回目の上演では、見える人である筆者は音声ガイドが余計なもの(冗語的)に思えた。それが二回目では、視覚の要素がない分、音声ガイドが心地よく、楽しく聞こえてきた。視覚の要素がなくても、床の軋みや衣擦れの音は聞こる。その音とガイドの音とが重なる。上演後、観客から、見えないと架空の捩子ぴじんを踊らせることができて面白かったという趣旨の感想があがった。なるほど、ダンサーの姿は見えなくてもダンスは成立するのだ。もう一つ興味深かったのは、三つの音声チャンネルをちょこちょこ変えて、ザッピングしながら鑑賞した人が多かったことだ。ぼくたちは与えられたメディアを自主的に、自分が一番楽しい形で使うことに慣れている。舞台上演の鑑賞形式というものは、ほとんどオプションがない。音声ガイド機器が与えられることで、あえてそれを使わないことも含め、鑑賞の自由が広がるわけだ。そもそも、音声ガイドをダンス上演に導入するということは、ダンスと言葉との関係を研究することとなる。「ダンスは映像に残らない」と同じくらい「ダンスは言葉にできない」とはよく言われることだ。しかし、言葉でダンスにどこまで迫れるのか、どんな言葉ならば、ダンスを忠実に言葉にできたと言えるのか。ぼくたちは「できない」という言葉に甘えずに、そうした探究を日々続けるべきだろう。見えない人とダンスを観るという奇想天外な提案は、ダンス創作の盲点を告げ知らせてくれるものだった。

関連レビュー

康本雅子『視覚障害XダンスXテクノロジー“dialogue without vision”』|木村覚:artscapeレビュー

2017/09/16(土)(木村覚)

シンポジウム「ダンス動画、SNSでどうバズってるの?」

会期:2017/09/18

KAAT 神奈川芸術劇場 大スタジオ[神奈川県]

筆者が司会進行を務めたイベントなので、手前味噌ではあるのだが、今後の舞台芸術を考える上で重要な議論があったことは事実であり、ここに筆者の見解を述べておきたい。ゲストは二人、ダンス動画を含む動画制作を請け負うCrevo株式会社の工藤駿氏、ストリートダンスを用いたCMやPVの制作や大学のダンスサークルのイベントなどを手がけている株式会社Vintom代表取締役の愛甲準氏。芸術とは異なる分野、とくにマーケティングや広告という分野で活躍している二人を招いた本イベントは、KAATが主催ということを鑑みれば「異例」とも言える場となった。二人に共通している見解はこうだ。ダンス動画には「参加(真似る)型」と「見て楽しむ型」があり、後者よりも前者の方が注目され(バズられ)やすく、流通しやすいということ。なるほど「ダンス動画」の世界を思い返せば当然の傾向とも言えるのだが、しかし、ダンスをこの二つに分ける思考は、舞台芸術の分野からすれば、とても新鮮に映る。舞台芸術が推し進めているのは、ほとんどが「見て楽しむ」ダンスである。作家性が高く、エリートダンサーでなければ踊れない「見て楽しむ」型のダンスは、技巧や芸術性は高いかもしれないが、ダンスを「参加(真似る)」対象と捉え愛好する多くの人々にとっては、魅力に乏しいというわけだ。舞台芸術の世界は、こうした人々を無視し、芸術性こそ正義とでも言いそうなスタンスを崩さずに来た。結果として、ダンスの分野は、創作者も観客も増えず、痩せ細るばかりとなっている。しかし、これと同じような悩みは、ストリート系のダンスの世界も抱えているのだと愛甲氏は述べる。確かに踊りたい人口は増え、ストリートダンスへ向けた世間の注目は増している、とはいえ、その動向を牽引するはずのプロ的なダンサーへの注目やリスペクトは十分に高まっていないというのだ。「プロ的」と書いたが、実際はダンスを職業とするのは難しく、ほとんどはダンス講師など副業を持ち、専業とは言い難い。いかにすれば「参加型」のダンス愛好者が「見て楽しむ型」にも興味を持ってくれるのか、その結果としてダンサーという職業が社会に定着するのか。愛甲氏は、どんなやり方でも構わないので、まずダンサーが絶対的な人気を獲得すること、その人気を通して、高度なダンスについての関心を高めていく、といった戦略を話してくれた。工藤氏からは、すでに「人気の何か」との類比や、言葉を用いたわかりやすい解説など、ダンスの見方を与える努力がもっと必要なのではないかとの意見が出た。どちらもとても基本的だが、怠りがちな視点である。いずれにしても、観客の創造という視点からダンスを創作したり制作したりするという努力が求められる、ということなのだろう。耳の痛い話だし、人気のためにダンスの質を変えたくないなど、創作や制作の側から反発も起きるだろう。とはいえ、助成金や税金を当てにしない彼らのシビアな視点から、舞台芸術の盲点を検証してもらうこのような企画は、継続的に行なわれるべきである。「参加(真似る)型」のダンス愛好者を巻き込む方法を発明したとき、「みそっかす」状態の(コンテンポラリー)ダンスは社会の一部になれるのかもしれないのだから。

2017/09/18(月)(木村覚)

奥能登国際芸術祭2017 その1

会期:2017/09/03~2017/10/22

珠洲市全域[石川県]

石川県能登半島の先端に位置する珠洲市を舞台に催された初めての芸術祭。国内外のアーティスト40組が、市内の随所に作品を展示した。「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」(2000~)をはじめ、「瀬戸内国際芸術祭」(2010~)、そして「北アルプス国際芸術祭」(2017~)に続く、北川フラムによる芸術祭のひとつだが、開催規模も土地の風土もそれぞれ異なるとはいえ、これらのなかでもひときわ鮮烈に輝く芸術祭だと思う。
何よりも決定的な魅力が、清涼感あふれる土地である。山は、越後妻有と違って、なだらかな稜線を描き、海は、瀬戸内とは対照的に、荒々しくも力強い波が打ち寄せる。ちょうど台風18号が通過した直後だったせいかもしれないが、大気が恐ろしいほど澄んでいるのもこの上なく心地がよい。東京から飛行機を使えば1時間だが、北陸新幹線経由では4時間あまり。文字どおり「最果て」というフレーズが似つかわしい土地だが、そこまで足を伸ばす価値は十分にある。
美術作品は、そのような土地の風景と有機的に関係するかたちで展示されている。美しい風景をフレーミングしたり、その土地の記憶を掘り起こしたり、越後妻有や瀬戸内で繰り返されてきた作品の様態とさほど変わらない点は否めない。けれども本展の作品は、その土地の特性を十分に活かすかたちで関係づけられていた。
塩田千春は空間を赤い糸で編み込んだインスタレーションを発表したが、その基底には砂を積んだ砂取舟を設置した。海岸線にはいまも塩田が続いており、砂取舟はそのために実際に使われていたものだという。自らの作風を維持しながら、土地の特性を巧みに取り入れたのである。またトビアス・レーベルガーは廃線の線路上にカラフルでミニマルなインスタレーションをつくった。設えられた双眼鏡を覗くと、はるか先の旧蛸島駅のそばに組み立てられたネオンサインが望めるという仕掛けである。造形として見ればミニマリズム以外の何物でもないが、その土地と有機的に関係するという点では、サイトスペシフィック・アート以外の何物でもない。ミニマリズムの可能性をいま一歩押し広げた傑作である。
ほかにも、サザエの貝殻で外壁を埋めるとともに、内装をサザエのように湾曲させた村岡かずこや、漂着物で再構成した鳥居を海岸に立ち上げることで、ほとんど無意味だった空間にいかがわしい神聖性を付与した深澤孝史など、土地との有機的な関係性を切り結んだ優れた作品は多い。あるいは、地元住民を巻き込みながら巨大UFOを召喚しようとする映像作品を制作したオンゴーイング・コレクティブの小鷹拓郎も見逃せない。越後妻有や瀬戸内、北アルプスなどの先行する芸術祭と比べると、廃線の線路や駅舎、海岸、銭湯、バス停など、作品を制作ないしは設置するうえで、きわめて恵まれた条件がそろっていることは事実である。だが、そのようなアドバンテージを差し引いたとしても、今回の芸術祭はこの土地で作品を見る経験に大きな意味があることを実感できる、非常に優れた芸術祭である。

2017/09/18(月)(福住廉)

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奥能登国際芸術祭2017 その2

会期:2017/09/03~2017/10/22

珠洲市全域[石川県]

そうしたなか、この芸術祭でひときわ異彩を放っていたのは、鴻池朋子である。鴻池が注目したのは、海と陸の境界線である海岸線。山の幸と海の幸、あるいは近海で入り乱れる寒流と暖流など、境界線ないしは境界領域は、今回の芸術祭のキーワードである。その海岸線に沿って走る山道を汗をかきながら十数分歩くと、切り立った断崖絶壁と荒波が打ち寄せる岩礁にそれぞれ立体造形作品が現れる。それらは、人間と動植物が融合したような異形の造形物。全体が白く着色されているせいか、大自然のなかで見ると、さほど大きな違和感があるわけではないが、よくよく見ると人間の脚がはっきりと確認できるので、少し焦る。たとえ車で移動したとしても、身体性を強く意識させられる作品である。
鴻池の作品が優れているのは、それが自然の風景を美しく見せるための装置ではないからだ。美しい自然をより美しく見せるためのフレームに徹したような作品は、この芸術祭に限らず、近年非常に数多い。だが、鑑賞者に険しい登山道を登り下りさせるという過酷な条件を突きつけているように、鴻池は自然を美しく見せることにおそらく関心を寄せていないのだろうし、そもそも自然を美と直結させる見方を拒否しているのではないか。自然のただなかで暮らした経験のある者であれば誰もが知るように、人間にとって自然は美しいこともあるが、同時に厳しくもあり、場合によっては醜悪ですらある。海と陸の境界線上で、人間と動植物が溶け合ったようなオブジェが体現していたのは、そのような二面性ないしは両義性ではなかったか。
自然に恵まれた環境で催される芸術祭は、自然の美しさや地元住民のやさしさを喧伝する場合が多い。それらが限られた文化的資源のなかで対外的なイメージ戦略を打ち立てるうえで、非常に有効な言説であることは事実だとしても、同時に、それらが「つくられたイメージ」であることもまた否定できない。鴻池の作品は芸術祭の内部で芸術祭を批判する、きわめてクリティカルな意味があり、それを内側に含み込めたこの芸術祭はそれだけの深さと奥行きを持ちえているという点で高く評価したい。

2017/09/19(火)(福住廉)

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プレビュー:藤倉翼作品展「NEON-SIGN」

会期:2017/10/13~2017/10/31

vou[京都府]

都市の歓楽街を彩るネオンサイン。それは20世紀の消費文化を代表するシンボルのひとつだが、近年は新技術の普及やネオン管職人の減少により、その姿を消しつつある。北海道・札幌を拠点に活動する写真家、藤倉翼は、一時代を築いたネオンサインへのオマージュとして、写真を元にした半立体作品を制作した。それはネオンサインを真正面から撮影し、LEDを仕込んだ特注額に額装したもの。LEDはコンピューターのプログラムで不規則に明滅し、リアルなミニチュアのような作品が出来上がる。ネオンサインをモチーフにした作品を聞くと、消費社会を批評したポップアートが思い浮かぶ。しかし藤倉はそうした皮肉っぽい視点ではなく、ネオンサイン=近代の工芸品としてリスペクトを捧げているのだ。作品のなかには道頓堀のグリコなど、関西人にとっても思い入れの深いモチーフもある。実物を見たら衝動買いしてしまうかもしれない(もちろん値段次第だけど)。


©藤倉翼

2017/09/20(水)(小吹隆文)

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