2018年07月01日号
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artscapeレビュー

2010年09月01日号のレビュー/プレビュー

スウィンギン・ロンドン 50’-60’

会期:2010/07/10~2010/09/12

埼玉県立近代美術館[埼玉県]

50年代から60年代にかけてのイギリスで花開いた都市文化を検証する展覧会。べスパ、ミニスカート、トランジスタラジオなど、新しいファッションや工業製品を若者たちがこぞって消費する文化が定着したのがこの時代だが、展覧会の全体はほとんど商品の陳列に終始しており、消費文化を支えた若者たちの欲望の次元を掘り出すまでには至っていないようだった。古びたモノの数々は、当時の若者たちのノスタルジーを誘うことはあるのかもしれないが、それらが彼らの心理にどのように働きかけ、消費行動に導き、結果としてどのようなライフスタイルを生み出したのか、展示にはほとんど反映されていなかった。モノとしての作品を見せる(だけの)旧来の美術館の作法が、ここでも繰り返されていたわけだ。しかし、欲望のオブジェがさまざまな社会的関係と分かちがたく結ばれている以上、それらを展覧会というかたちで「検証」するやり方については、もう少し(自己)批判的に再考されるべきではないだろうか。モノを見せてよしとする美術の王道が通用する時代はとっくの昔に終わっているし、「検証」にはもっとたくさんのアプローチがある。たとえば、この時代の若者たちによって再編成されたモノと欲望の関係については、1979年のイギリス映画『さらば青春の光』(原題はQuadrophenia、つまり四重人格)が丁寧に描き出している。展覧会に満足できなかった人には、この映画を見ることをおすすめしたい。

2010/07/20(火)(福住廉)

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すみだ川アートプロジェクト「遠藤一郎:隅田川いまみらい郷土資料館」

会期:2010/06/25~2010/07/25

すみだリバーサイドホール・ギャラリー[東京都]

「すみだ川アートプロジェクト」とは、東京の下町を貫く隅田川を、たんなる自然環境としてではなく文化資源としてとらえなおそうとするアートプロジェクト。昨年からはじまり、今後80年間を見通した長期的かつ継続的なプロジェクトとして構想されているという。今回は未来美術家・遠藤一郎を中心としたグループが、隅田川の河口から源流の甲武信岳まで173kmの川沿いを調査した結果、河原に廃棄されたゴミを再構成したオブジェや河の水であぶり出した絵、流域で暮らす人びとへのインタビュー映像などを発表した。長大な旅の過程を体感させるには十分な内容といえるが、その一方でなんとも言えないもどかしさを覚えたのも事実だ。つまり、プロジェクトの内容も発表された作品も、いずれも想定範囲内のことばかりであり、こちらの虚を突くような突き抜けたアクションは見られなかった。正直にいえば、昨年のWahによる「すみだ川のおもしろい」のほうが、非常識きわまるアイディアを徹底して追究するバカバカしさにおいて、端的におもしろかった。そもそも隅田川とは荒川から分岐して東京湾に注ぐ河川であるから、正確にいえば、甲武信岳は荒川の水源である。それを承知のうえで隅田川の全長を173kmとするのであれば、その(よい意味での)「図々しさ」をもっと突き詰め、膨らませることができたのではないだろうか。大昔に甲武信岳の水源まで登攀したことのある身としては、山登りや探検、フィールドワークを方法としたアートに好感をもつのは事実だとしても、それだけではそうしたアウトドアの魅力には到底かなわいないと言わざるをえない。

2010/07/21(水)(福住廉)

『ぼくのエリ 200歳の少女』

会期:2010/07/10

銀座テアトルシネマ[東京都]

2008年製作のスウェーデン映画。トーマス・アルフレッドソン監督作品。北欧のか弱い少年がヴァンパイアの少女に恋する物語。いかにも少女マンガで描かれそうな凡庸な設定で、じっさい金髪碧眼のナイーヴな少年と内側の野性をもてあます少女が織り成す物語の展開には、どこかで見たかのような既視感を覚えてならない。けれども、この映画の見どころは、物語を支える背景にある。しんしんと降り続ける雪と、北欧モダニズムによる集合住宅。そこで暮らしているのは、離婚して父が不在の家族であり、夜な夜な酒場に通うダメオヤジたち。象徴的に描かれた北欧型の福祉国家の内実が、たいへん興味深い。慎重に守らなければたちまち挫けてしまう少年が福祉国家を体現しているとすれば、文字どおり人並みはずれた生命力を誇る少女は福祉国家を相対化するためのメタファーである。そうすると、この映画は少年の自立の物語というより、むしろ「ゆりかごから墓場まで」を金科玉条とする福祉国家を内側から突き抜ける、脱出と革命の物語のようにも見える。その逃走の先に何が待っているのかはわからないし、ひょっとしたら何もないのかもしれない。けれども、がんじがらめの社会から抜け出す欲望をおしとどめることはできない。そこに、共感できる同時代性がある。

2010/07/21(水)(福住廉)

極小航海時代

会期:2010/06/19~2010/08/01

女子美アートミュージアム[神奈川県]

ペドロ・コスタをはじめ、ジョアン・タバラ、マリア・ルジターノ、ミゲール・パルマなど、ポルトガルの現代アートを紹介する展覧会。光を遮断した広い空間で、それぞれの映像作品が発表された。もっとも優れていたのは、ジョアン・タバラ。《ささやきの井戸》(2002)は、水の中に投げ込まれるコインを水底からの視点で撮影した映像で、来場者も頭上の映像を見上げるかたちで鑑賞する。鈍い音とともに次々と舞い降りてくるコインの動きは、見飽きることがないほど、美しい。とはいえ、一枚一枚のコインにはそれぞれの祈りが込められていることに想いをめぐらすと、見ず知らずの他人の希望をすべて受け入れなければならないかのような重苦しさも覚える。ここには、有無を言わさず一方的に届けられてしまう、あるいは望みもしないのに勝手に関係を結ばれてしまう、現在のコミュニケーションのありようがユーモラスに描き出されていた。もうひとつの作品《輪》(2007)も、シニカルなユーモアに富んでいる。夕暮れの草原でサークル状に連なった大人たちが順番に焚き火で暖をとる映像だが、炎に両手をかざすことができるのはひとりだけで、それ以外の人びとは寒風のなか順番を大人しく待っている。たしかに、これは公平で合理的な民主社会がはらむ不合理な一面を逆説的に表現しているのかもしれない。ただ、その点とは別に、行列をなしているのが成人ばかりだったことから、彼らは子どもの豊かな想像力が奪われた囚人のように見えてならなかった。囚われた奴隷のように画一化された行動に服従している彼らの顔を見ると、やはり一様に表情が乏しい。子どもの野性をもってすれば、たとえばかつてビクトル・エリセが《ミツバチのささやき》(1973)でひじょうに印象的に描き出したように、焚き火の炎の上を嬉々として飛び越えることだって可能なはずだ。未成熟に開き直ることほどみっともないことはないとはいえ、成熟とはなんと退屈なことだろうか。

2010/07/22(木)(福住廉)

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川端嘉人 展

会期:2010/07/17~2010/08/07

CAS[大阪府]

展示室のドアを開けたとたん、頭のなかに「?」が点灯する。何もないのだ。しかし、いつもとは雰囲気が違う。改めて凝視すると、コンクリートブロックの壁が画廊壁面に沿うように作られていることが分かった。壁だと思い込んでいたものが美術作品だと了解した途端、急にミニマリズム彫刻に見えてくる。われながら現金なものだ。ざらりとした素材の質感やブロックのグリッドの連続が美しい。でも、休廊と勘違いして帰ってしまった観客も数名いたのだとか。その気持ちも分からないではない。

2010/07/23(金)(小吹隆文)

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