artscapeレビュー

井上裕加里「線が引かれたあと」

2019年09月15日号

会期:2019/07/27~2019/08/04

KUNST ARZT[京都府]

東アジアの近現代史、出身地の広島への原爆投下、それらをめぐる歴史認識のズレや境界線の存在について作品化してきた井上裕加里。本展は、「線」すなわち第二次世界大戦後に引き直された「国境線」によって分断された日韓の女性たちに焦点を当てた2つの作品をメインに構成されている。

《marginal woman─境界人─》では、戦時中に故郷を離れ、70年以上を異国の地で暮らす女性たちが、自らの半生や故郷への想いを詩や歌に託して語る。被写体となったのは、戦前に朝鮮人男性と結婚して朝鮮半島へ渡った日本人女性たちが暮らす「慶州ナザレ園」と、在日コリアンの高齢者が入所する京都の福祉施設「故郷の家」の入所者である。2面の映像の片面に映る海は、日本(舞鶴)から見た視点と韓国(釜山)から見た視点をオーバーラップさせたものだ。また、韓国にある日本人共同墓地や防空壕のショットも挿入される。



会場風景


一方、《幾度も滅せられる人々》は、戦時中に広島で被爆した在韓被爆者のポートレートに感光塗料を塗り、太陽光に当てることで黒く変色させていく作品。「太陽の光による感光」は「原爆の熱線」をパラレルに想起させ、黒い染みが滴ったように変色していく過程は「黒い雨」を連想させるなど、肉体への物理的暴力を示唆する。また、ポートレートが黒く塗りつぶされていく様は、韓国国内では差別から「沈黙」を余儀なくされ、終戦後の日本国籍消失とともに日本政府に被爆者として認定されず、救済措置から排除され、不可視化された事態をメタフォリカルに示す。



会場風景


日本から朝鮮半島へ、反対に朝鮮半島から日本へ。2作品は、その対称性とともに、植民地支配と地続きの女性たちの生、(とりわけ結婚や出産といった契機により)女性が受けた苦痛に焦点を当てている。だが両者のあいだには、「国境」「国籍」「民族」といった「線」だけでなく、「ドキュメンタリー」と「作家の介入的表現」をめぐるせめぎ合いが噴出しているのではないか。被写体の女性たちの声や関連風景を淡々と捉える《marginal woman─境界人─》に対して、《幾度も滅せられる人々》は、より作家の介入度が高い。後者は、「太陽光による感光でポートレートが黒く変色していく」仕掛けにより、物理的/政治的暴力が多重化された事態へと連想させる働きを持つが、「表象の操作により、同じ暴力をメタフォリカルに反復してしまう」というジレンマに陥ってもいる。(可視化されにくい)暴力への想起と、「暴力への言及それ自体が暴力を反復してしまう」パラドキシカルな構造への批判的想像力を同時に持つこと。今要請されているのは、そうした困難だが必須の態度である。



会場風景


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