artscapeレビュー
京芸 transmit program 2020
2020年07月15日号
会期:2020/04/04~2020/07/26
京都市立芸術大学ギャラリー@KCUA[京都府]
京都市立芸術大学卒業・大学院修了3年以内の若手作家を紹介するシリーズ、「京芸 transmit program」。今年度の4名は、「身体性」と「美術史への参照」の二軸で構成されている。
西久松友花は、兜や陣羽織、花魁のかんざし、銅鐸などの祭具、しめ縄や民俗的な神具といった土着的な「装飾」「意匠」を抽出して組み合わせた陶のオブジェを制作している。鮮やかな赤、金銀彩やスワロフスキークリスタルが施され、祝祭的な「ハレ」の雰囲気をまとうなかに、性(生殖)や死に対する祈りと畏怖の感情が顔をのぞかせる。
「身体性」と「美術史への参照」の交差する地点にいるのが、菊池和晃だ。菊池はこれまで、筋肉やメンタルの強さを鍛える「トレーニングマシン」兼「描画装置」を自作し、自身の肉体を酷使する行為によって、ポロックや篠原有司男、李禹煥を思わせる「抽象絵画」を制作するパフォーマンスを行なってきた。過去作品《アクション》では、パンチングマシンに両脇を挟まれ、絵具の付いたボクシンググローブに殴られ、飛沫を血のように浴びながら、自らもボクシンググローブで殴り返す/キャンバスに描画していく。篠原有司男の「ボクシング・ペインティング」を思わせる制作方法によって、ポロック風のドリッピング絵画が出来上がる。また、《Muscle》では、スクワットを繰り返すことで、反対側にハケの付いた装置がシーソーのように上下運動し、李禹煥ばりのモノクロームのミニマルな絵画を大量生産する。美術史的規範としての絵画を、泥臭い身体の酷使によってナンセンスに脱構築する試みだと言えるが、「筋トレ」すなわちマッチョな肉体改造への願望は、美術史における男性中心主義やマッチョイズムを文字通り再生産してしまう危うさも秘めている。出品作《円を描く》は、歯車を組み合わせた装置のハンドルを6250回、手動で回すことで、吉原治良を思わせる「黒地に白い円」を描くものだ。今作ではマッチョさは後退し、制作行為を機械的な「労働」に還元するシニカルさのなかに、徒労に近い肉体労働としての制作行為を浮かび上がらせる。
一方、パフォーマンスとその儀式性によって「生と死」に言及するのが、小嶋晶と宮木亜菜。小嶋は、自身の母親の心臓が弱り、洞結節からの電気信号が心房心室にうまく伝わらず、意識を失うほどの徐脈になったため、心臓が元通り動くよう、「生を実感できない」というダンサーに「母親の心筋になる」ことを依頼した。パフォーマンスの記録映像では、電気コードを握りしめて洞結節からの電気刺激を受け取り、小嶋の母親の心臓と疑似的につながった男性ダンサーが、規則的な電子音と光の明滅のなか、激しくのたうち回る。それは他者の痛みを疑似的に引き受ける祈祷的行為であると同時に、ダンサー自身が踊りの根源としての生の充溢に到達しようとするもがき苦しみでもある。
また、宮木亜菜は、展示会場にベッド、マットレス、布団、カーペット、ハンガーラックを組み合わせて設置し、「睡眠」のパフォーマンスを毎週行なった。展示された記録写真を見ると、パフォーマンスのたびにベッドや寝具の配置が大胆に変えられていく。布団で覆われた顔の見えない頭部や布団から突き出した両脚の写真は「遺体」を思わせ、眠りと死の連続性を想起させるが、「眠り」と覚醒のたびにインスタレーションは日々の新陳代謝のように生成変化し、床を這ったり垂れ下がる布団は巨大な内臓のようだ。
生産物としての「作品」の裏側にある肉体の酷使、「死」を通して生の充溢に触れ、生と死の(不)連続性を行き来すること。そのような本展の流れの中で再び西久松の作品を振り返ると、身体や衣服の表面を彩る装飾的モチーフが散りばめられた陶製のオブジェたちは、「不在の身体」として佇み始める。
2020/06/25(木)(高嶋慈)