artscapeレビュー

大﨑のぶゆき ─Display of surface─ 「不可視/可視/未可視」

2015年05月15日号

会期:2015/03/31~2015/04/11

galerie 16[京都府]

大﨑のぶゆきが2004年から続けている「Display of surface」シリーズと、制作プロセスの記録映像によるインスタレーション。展示されたキャンバスはいずれも、一見すると白の単色で塗られただけで、何も描かれていないように見える。だが作家によれば、実際には、ワセリンを指に付け、下地の上に手探りで描いているという。今回はカフカの小説『城』の登場人物が描かれているというが、それらは「不可視」の存在に留まっている。
では、指での描画、つまりキャンバスとの身体的接触の痕跡を「可視」化することは、どのようにして可能なのか。手がかりは、傍らに置かれた『城』の文庫本。持ち主が表紙に触れたことが、銀色に浮かび上がった指紋の痕跡によって示される。「Display of surface」シリーズにおける、潜在的な画像をはらんだ表面もまた、犯罪現場での鑑識捜査に用いられる指紋の検出方法を使えば瞬時に像が現われるのであり、あるいは酸化作用などの経年変化によって、何十年か後には自ずと像が顕在化するという。つまり、「不可視」は正確には「未可視」の状態にあるのだ。自然作用による像の顕在化までにかかる時間に耐えうるように、油絵の技法研究者の協力を得て、「表面が剥落せず、100年間もつ絵画」を制作するプロセスが映像で示される。
このように「Display of surface」シリーズでは、可視的なビジュアルイメージではなく、身体との物理的接触によって「表面」で起こる出来事(の痕跡)として、「絵画」は唯物論的に了解されている。その接触の痕跡が未可視にとどまる状態は、むしろ「ネガ」に近く、経年変化によって像が可視化されていくプロセスは、時間が極端に引き延ばされた「現像」と言えるだろう。その「現像」プロセスに、個人の生を超える時間的スパンを持ち込み、それに耐えうる下地を開発する大﨑の手つきは、両義的である。一方では、絵画という制度の「延命」を図りつつも、無造作に壁に立てかけられたキャンバスたちは、ただの白い板というモノにしか見えないからだ。
ポートレートや星座などの描画が水に溶け出し、おぞましさと美しさが同居する崩壊の過程を映し出した映像作品においても同様に、コントロールを手放した「時間的作用」が変容を駆動させる。本シリーズ作とは、イメージの消滅/顕現という点では逆向きのベクトルをなすが、絵具の層の堆積とは異なる「時間の相」と絵画の関係を考えることが、大﨑作品の基層のひとつにあると言えるだろう。

2015/04/11(土)(高嶋慈)

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