artscapeレビュー
mizutama「"Tsumaru - tokoro" the concluding exhibition of "tokoro"」
2015年04月15日号
会期:2015/03/14~2015/04/20
アートスペースジューソー/#13[大阪府]
築60年の2階建木造アパートである新・福寿荘の建物内で、一年間、毎月2日間だけ、計12回にわたって開催された展覧会の集大成。私はこれまでの展示を見ていないが、年間展示で使われた素材や作品は段ボールに詰めこまれ、新たに制作された作品とともに展示/提示されていた。
気になる段ボールの中身は、一部しか見ることができず、しかも無造作に詰め込まれ、キャプションもないため、雑多なガラクタ類にしか見えない。というのは、mizutamaのつくる作品は、日常的な既成品を素材に、特別な技術も用いず、作為と無作為のあいだでたよりなく行き来するようなものだからだ。例えば、固形物と液体に分離されたマヨネーズ。第三者が何かを思い出すまでに口走った、脈絡を欠いた断片的な言葉の羅列。トーストをコピー機にかけて、「○枚切り」の数だけカラーコピーを取り、「エディション」として提示したもの。窓の外では、バケツの底に薄く張られた水の上に、表面張力で浮かんだプラスティック容器が、風に揺られて水面をスーッと滑っていた。「コンセプト」「ステートメント」の類はなく、作品同士の関連性も不明瞭で、ぶっきらぼうに投げ出されている。ただ、その水面に浮かんだ容器がスーッと生き物のように動いた瞬間には、何か心を動かされた。
日常的な素材の使用、スタイルの非統一性、技術の放棄、作家名と相まっての匿名性。とりわけ匿名性ということで私が想起したのは、昨年末に京都芸術センターで開催された「Stolen Names」展だった。この展覧会の挑発性は、「作品に関わるおよそすべての情報(あるいは手がかり)が盗まれた状態にある」として、作品名も作者名も非公表にし、ただ作品だけが提示された状態を提示したところにある。「盗んだ」のは誰か。なぜ「盗んだ」のか。一部が黒く塗りつぶされ伏字になった文章、紛争地帯の兵士と迷彩服のファッションモデルの写真を重ね合わせた作品、顔も名前もお互いに出さずに伏せたまま、Ustreamでしゃべり合うプロジェクト。もちろんここには、思想弾圧、言論統制への同時代的な危機感と抵抗の意志があるだろう。だが、そうした政治的な態度表明とは別に、「展覧会を見に来た観客に対して、私たちは情報を提供しているのではありません」という意志も感じ取れる。言語的情報は、視覚物としての作品を補い支える存在であるが、あえてそれらを一切取り払うことで、「情報の摂取がいかに普段の鑑賞体験に組み込まれているか」「それがいかに無意識化しているか」「見る導線が予めつくられてはいないか」といった問いを逆説的に浮かび上がらせる。賛否両論あるだろうが、この展覧会が投げかける問いには、一考の価値があるだろう。
2015/04/05(日)(高嶋慈)