artscapeレビュー
高嶋慈のレビュー/プレビュー
オサム・ジェームス・中川「Eclipse:蝕/廻:Kai」
会期:2019/04/13~2019/05/20
ギャラリー素形[京都府]
KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭 2019のアソシエイテッド・プログラムとして、ニューヨークで生まれ日本で育ち、2国のアイデンティティを踏まえて活動する写真家オサム・ジェームス・中川の個展が開催された。展示内容は、1990年代の初期作品をベースに、トランプ政権後のアメリカ社会の変容を意識して新たに制作した「Eclipse:蝕」と、自身の両親の死や老い、妻の妊娠、娘の誕生といった家族を通して生命と死を考える「廻:Kai」の2つのシリーズから成る。社会批評と極私的なプライベートという2つの対極的な軸から成る構成だが、両者に通底するのは、「写真イメージ」への自己言及性だ。
「Eclipse: 蝕」では、無人の荒涼とした風景のなかに、朽ちかけた巨大なスクリーンが壁のように建つ。これらは、野外の駐車場にスクリーンを設置し、車に乗ったまま映画を鑑賞できる「ドライブ・イン・シアター」の残骸である。1930年代にアメリカで始まった、車社会を象徴する娯楽であり、1950年代末~1960年代初頭に最盛期を迎えた。中川は、ハリウッド映画や大企業の広告が、「アメリカン・ドリーム」という虚構の神話を大衆に浸透させる一方で、宗教や人種的対立、移民労働、経済格差などの不都合な問題を隠蔽している構造への批判から、90年代に「ドライブ・イン・シアター」と「ビルボード」のシリーズを制作した。本展でも紹介されたこれらの作品では、荒れ果てた風景のなかに建つ巨大スクリーンに、KKK(白人至上主義者)のデモや移民労働者のイメージが合成され、「隠蔽された社会的真実が当の隠蔽装置それ自体を用いて上映・広告されるが、誰も見る者はいない」という強烈な皮肉を放つ。
一方、トランプ政権成立後に制作された「Eclipse:蝕」では、スクリーンには何も投影されず、ただ空白のみが提示される。よく見ると、スクリーンの背後の鬱蒼とした木立や手前に生い茂る植物、散乱したゴミの一部はネガポジ反転され、視界が奇妙に歪む。暗く沈んだ空も時間の把握を狂わせ、「日蝕」のように夜なのか昼なのか、現実なのか虚構なのか判然としない空間が立ち現われる。同一画面におけるネガとポジの入り組んだ混在は、ポジ(ハリウッド映画やメディアが喧伝する多幸的な未来)とネガ(それらが破綻したディストピアの荒廃)が同居する社会の像とメタフォリカルに重なり合う。こうした「Eclipse:蝕」には、90年代の過去作品のネガをデジタルに起こしたものと、新たに撮影されたものとが混在する。それは、アメリカ社会のかつての繁栄と現在の荒廃、自作の過去と現在といった時間の層を何重にもはらみ込みつつ、入れ子状になったスクリーンの空白は、未来の展望の不在、視覚イメージの飽和、不気味な沈黙の圧力、そしてイメージが消去された検閲的状況さえ匂わせる。
一方、もうひとつのシリーズ「廻:Kai」では、遺影のようなポートレートが暗示する父親の死や不在、老いていく母親の身体、妊娠した妻、娘の誕生と成長といった自身を取り巻く家族の生と死が、象徴的なイメージとともに紡がれる。ナチュラルな木枠と黒枠のフレームが二対になった構成は、生命/老いや死のイメージを対置させるが、氷漬けにされた写真、その解けかけた様子が示唆する記憶の凍結と解凍、ガラスに反映したカメラを構える自己像、無邪気にカメラで遊ぶ娘を挟んで両脇に落ちる自身と妻の影、スクリーンや皮膜を思わせる存在の挿入など、「写真」への自己言及的な眼差しに満ちていた。
2019/05/12(日)(高嶋慈)
KG+ 國分蘭「In The Pool」、平野淳子、叶野千晶「Shower room」
会期:2019/04/12~2019/05/12
五条坂京焼登り窯[京都府]
KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭 2019の同時開催イベント、KG+の会場のなかでも、例年、異彩を放つ五条坂京焼登り窯。五条坂など京都の東山山麓の一帯は、昭和30年代まで、数十基の窯が稼働する製陶業の一大産地として栄えた。多くの登り窯が操業を停止し、窯も失われた現在、操業当時の姿を留める貴重な歴史遺産であり、巨大な登り窯と作業場、煉瓦づくりの煙突が残されている。普段は一般非公開だが、KG+などアートイベントの会場として活用されている。今年は特に、場所の記憶に繊細な眼差しを向け、写真資料を用いて、あるいは歴史の潜在性と可視化するメディアである写真との拮抗関係を探る3人の女性写真家(國分蘭、平野淳子、叶野千晶)が、問題意識の共通性と差異という点でも目を引いた。
國分蘭は、出身地である北海道の留萌(るもい)が、かつてニシン漁で栄えた歴史に着目。ニシン漁は雇用を生み出し、「ニシン御殿」を建てるほど財を築く人もおり、一大産業として栄えたが、昭和30年代を境に漁獲量は激減した。だが現在、孵化させた稚魚をプールで飼育し、海へ放流する取り組みが行なわれている。また、産卵期のニシンが浜に戻ってくるようになり、オスが放出した精子で沖合が白く染まる「群来(くき)」という現象が再び見られるようになった。まだ雪を被った浜辺の彼方の海面が、薄いエメラルドグリーンのような色を帯びて輝く、神秘的な光景だ。プールで泳ぐ稚魚の群れは、人工的な設備や管理下に置かれながら、人間の介入を凌駕するほど生命力にあふれ美しい。
また、秀逸だったのが、登り窯の特異な空間性を活かした、資料写真の展示方法だ。ニシン漁で栄えた往時の記録写真は、洞窟か小さなトンネルのように開いた窯の入り口や窪みのなかに置かれ、鑑賞者は手持ちライトで照らさないと、よく見えない。「(そこにあるにもかかわらず)見る者が働きかけないと気づかない、よく見えない」という能動的・身体的関与を通して、文字通り「過去に光を当てる」営みは、歴史資料それ自体との向き合い方についても示唆的だった。
また、平野淳子は、2020年の東京オリンピックに向けて解体と建設工事が進む国立競技場の変容を継続的に撮影しつつ、この土地が国家的欲望とともにはらんできた重層的な歴史へと眼差しを誘う。全面建替工事にむけて競技場が解体され、池ができて、繁った草地を鳥が飛び交う様子は、モノクロで撮影されていることも相まって、江戸の街が形成される前の湿地の姿という遠い過去の残滓を呼び寄せる。一方、建設途上の様子は、直線が交差する構成的なアングルで切り取られ、著しい対比をなす。添えられた2枚の資料写真は、かつてこの地が、青山練兵場と、昭和18年の学徒出陣の壮行会会場であったことを示す。自然へと還る作用と人工性を行き来しつつ、2度のオリンピックと戦争という国家的欲望を刻まれた場所の歴史、さらには未来に到来する廃墟の残像さえも思わせるような不穏さに満ちていた。
一方、叶野千晶の「Shower room」は、一見すると、ひび割れや青カビに蝕まれた朽ちかけの壁、あるいは厚塗りの地に青や白の絵具が滴った静謐な抽象画を思わせる。だが、「Shower room」というタイトルが示すように、これらは、ポーランドのマイダネク強制収容所のガス室の壁を捉えたものであり、青い染みは、一酸化炭素が送り込まれた部屋の壁にシアン化水素が付着して残ったものである。叶野は、資料写真の併用や収容所の外観を捉えることはせず、ただ「壁」の表面だけを凝視し続ける。それは、物理的には化学物質の痕跡だが、涙や血の堆積した跡のようにも見え、メタフォリカルな意味の読み取りを誘うとともに、「私たちが目にできるのは痕跡でしかない」という写真の事後性を突きつける。その営みは、「表象不可能性」というすでに手垢にまみれた諦念の身振りを、粘り強い凝視によって超えていこうとする意志を感じさせる。
「かつての窯の跡」という場所の歴史性も相まって、産業とその衰退、土を焼いて造形する「陶芸」とも共通する人為的介入と自然作用の関係、現実の窯の存在感や「焼成」のプロセスとも結びついてしまう「ガス室」の記憶など、写真表現を通した歴史的記憶への対峙について考える機会となった。
2019/05/12(日)(高嶋慈)
プレビュー:『緑のテーブル 2017』公開リハーサル
会期:2019/06/01
デザイン・クリエイティブセンター神戸(KIITO)1階KIITOホール[兵庫県]
神戸を拠点とするダンスカンパニー、アンサンブル・ゾネ(Ensemble Sonne)主宰の岡登志子が、第7回KOBE ART AWARD大賞と平成30年度神戸市文化賞をダブル受賞した記念公演が、6月1日に開催される。上演される『緑のテーブル 2017』は、ドイツ表現主義舞踊の巨匠クルト・ヨースの『緑のテーブル』(1932)に想を得て、岡の振付により新たに創作されたダンス作品。2017年に神戸で初演されたあと、愛知、東京で再演を重ねてきた代表作である。本公演に先駆けて、公開リハーサルと記者発表が行なわれた。
岡は、ヨースが創立したドイツのフォルクヴァンク芸術大学に学び、ヨースの流れを汲む身体訓練技法を基礎としてきた。初演のきっかけは、大野一雄舞踏研究所を母体とする特定非営利活動法人「ダンスアーカイヴ構想」から、「ダンス作品の継承」という観点でヨースの『緑のテーブル』に想を得た作品制作の依頼を受けたことにある。パリの国際振付コンクールで最優秀賞を受賞した『緑のテーブル』は、振付の譜面である「舞踊譜」に記録され、現在まで上演され続けている。だが岡は、「譜面通りに伝えていくことだけが「作品の継承」か?」と問題提起。また、『緑のテーブル』は、ナチスが台頭する当時の世相を反映した「反戦バレエ」と解されているが、「根底には人間の生命への尊重があるのでは」という思いから、まったく新しい作品として創作したという。 モダンダンス=抽象的と思われがちだが、『緑のテーブル』には「政治家」「パルチザン」「兵士」「難民」「死神」といった「配役」があってタンツテアター色が強く、岡の振付でも配役はほぼ踏襲されている。一部のシーンを除いて通し稽古が行なわれた公開リハーサルでは、ユーモア、内に秘めた強い感情の表出、爛熟した享楽、現代社会への風刺など、シーンごとにガラリと変わる構成の妙がそれぞれのソロや群舞を通して感じられた。
また、この『緑のテーブル 2017』には、岡、垣尾優、佐藤健大郎など関西を代表するダンサーのほか、舞踏家の大野慶人が特別出演し、アンサンブル・ゾネのメンバー、バレエ団のダンサー、公募ダンサーなどさまざまなバックグラウンドを持つダンサーが参加している。大野の出演の背景には、ドイツ表現主義舞踊に影響を受けた1930年代の日本のモダンダンスの流れが、舞踏につながっていることがあるという。また、上演会場のKIITOは、旧生糸検査所を改修した文化施設だが、建物の建築年は『緑のテーブル』初演の1932年と奇しくも重なる。ダンス史、「ダンス作品の継承」という問題、アーカイヴと創造の関係に加え、ヨーロッパと日本、時代差、ダンサーの身体的バックグラウンドといった差異など、さまざまな問題を考えさせる機会になるだろう。
公式サイト:http://ensemblesonne.com/
2019/05/09(木)(高嶋慈)
若だんさんと御いんきょさん『時の崖』
会期:2019/04/19~2019/04/21
studio seedbox[京都府]
安部公房の『時の崖』という同じ戯曲に対して、3人の演出家がそれぞれ演出した一人芝居×3本を連続上演する好企画。シンプルに提示した合田団地(努力クラブ)、抽象的かつ俳優の身体性に比重を置いた和田ながら(したため)、競争社会への批判的メッセージを読み込んで具現化した田村哲男、という対照的な3本が並んだ。
「負けちゃいられねえよなあ……」という台詞で始まる『時の崖』は、「試合前、プレッシャーをはねのけるようにしゃべり続けるボクサーのモノローグ」として始まる。減量の辛さをぼやき、おみくじの結果に一喜一憂し、赤い靴下を新調して縁起をかつぎ、早朝のロードワークに始まる毎日のトレーニングメニューの詳細を述べ立てる。試合に負けることへの不安と自意識過剰気味の自信、ハイとロウの両極を不安定に揺れ動く、人格が分裂したかのようなモノローグ。だが、「こんど負けたら、ランキング落ちだからなあ」という台詞に続く試合場面では、「一つランクを上がるたびに5人の相手をつぶしているわけだから、チャンピオンは50人のボクサーをつぶした勘定になる。やりきれんな、つぶされる50人のほうになるのは」「1人でも他人を追い越そうと思えば、これくらいのこと(きついトレーニングと自己管理の徹底)はしなくっちゃね」といった独白が続き、「落ち目のランキング・ボクサーのぼやき」のかたちを借りた競争原理社会への批判が根底にあることがわかってくる。
1本目を演出した合田団地は、解釈や手を極力加えず、素舞台に俳優の身体のみでシンプルに提示。だが、自暴自棄になった叫びは、自意識過剰気味のダメさや退行性を露呈させ、紙一重の笑いを誘う点に持ち味が光る。一方、2本目を演出した和田は、「おれ」という一人称でしゃべるボクサーにあえて女優を起用。畳みかけるようなモノローグの饒舌さとは裏腹に立ったその場から動けない、発話内容と無関係に突発的に前のめりにつんのめる、といった拘束性や負荷によって俳優の身体性を前景化し、戯曲内容から距離を取って提示した。その手つきは、戯曲を抽象化しつつ、身体運動によって補強する。例えば、「7位から8位……8位から9位……」とランキング落ちを数える場面では、俳優の身体は壁際へと後退していく。4ラウンドでダウンされ、「変だな……自分が2人になったみたいだな」と呟く場面では、照明が壁に影=分身を投げかける。その輪郭をそっと撫でながら、「食事制限も、酒もタバコも、やりそこなったことを、すっかり取り返してやるんだ」と言うラストシーンは、犠牲にして葬ってきたもうひとりの自分への慰撫や和解を思わせ、試合に負けてボクサーは辞めるかもしれないが、「これからの人生は自分自身と向き合って生きていくのでは」というポジティブな余韻を感じさせた。
一方、3本目を演出した田村哲男は、戯曲に込められたメッセージを抽出してリテラルに具現化。俳優はビジネススーツを着込んだ中年男性であり、「勝負の世界に生きるボクサー」の独白は、「激しい競争社会のなかで疲弊するサラリーマン」のそれと二重写しになる。ここで重要な役割を果たすのが「字幕」の存在だ。冒頭、「正社員のポストを用意しました。即戦力として期待しています」と背後で告げる字幕は、派遣もしくは契約社員から「這い上がった」彼が、より過酷な競争に晒される状況を示唆する。また、試合場面では、「右から行け」「もたもたするな」「ジャブが大きすぎるぞ」といったセコンドの指示が響くのだが、背後の字幕は「もっと数字を上げろ」と言う上司の叱責にパラフレーズされる。「正社員」という単語や字幕が女性口調であることは、正規/非正規の格差競争や女性の社会進出など、50年前に書かれた戯曲との時代差を示唆する。また、床に白いテープで引かれた四角い境界線は、シンプルながら四重、五重の意味を担って秀逸だ。それは、文字通りにはボクシングのリングであり、会社の仕事机の領域であり、舞台/客席を分ける境界線であり、鼓舞と自嘲を行き来するモノローグ=彼の内的世界の領域であり、同時にそこから出られない檻や結界でもある。ダウンされてマットに沈み、「4年と6カ月か……結局、元のところへ逆戻りだ」と呟き、「頭が痛くて破裂しそうだ」とうめくラストは、「正社員」からの転落、さらには過労死を暗示して終わる、苦い幕切れとなった。
戯曲のシンプルな提示に始まり、抽象化して距離を取る手続きによって解釈の幅を広げて作品世界に膨らみをもたせたあと、ひとつの方向に凝縮させて明確に具現化する。3本の上演順も効いていた。安部公房の作品は著作権が切れていないため、上演に際して一切カットできない。そうした制約にもかかわらず、いや編集や改変ができないからこそかえって、ひとつの戯曲が演出次第で可塑的に変形することが如実に示され、演出家の指向性とともに、戯曲の持つ潜在的な多面性を引き出すことに貢献していた。改変の禁止に加えて、「一人芝居」という形式のシンプルさも大きい。
だが最後に、『時の崖』は「メタ演劇論」としても読める戯曲であることを指摘したい。台詞にはシャドウボクシングの言及が多いが、相手が「いる」と仮定し、仮想の相手の動きを予測しつつ、ひとりでパンチを繰り出すシャドウボクシングは、「モノローグ」という形式と合致する。また試合中に聞こえる動きの指示は、戯曲では「セコンド」とは明記されず、ただ「声」とのみ記されている。姿は見せず、声だけで動きを指示し、強制し、束縛し続ける存在は、絶対的な声として振る舞う演出家を想起させる。したがって『時の崖』は、ボクサー=俳優、「声」=演出家という解釈も可能だ。「演出家」という存在にスポットを当て、「演出とは何か」を問う企画だからこそ、メタ演劇として『時の崖』を上演する演出も見たかったし、あってしかるべきではなかっただろうか。
2019/04/21(日)(高嶋慈)
KG+ 前谷開「KAPSEL」
会期:2019/04/05~2019/04/30
FINCH ARTS[京都府]
カプセルホテルの壁に描いたドローイングとともに、全裸のセルフポートレートを撮影した「KAPSEL」を2012年から継続的に制作している前谷開。「六本木クロッシング2019展:つないでみる」にも出品された同シリーズが、KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭 2019の同時開催イベントの個展で展示された。
白くクリーンだが無機質なカプセルホテルの個室内に座り、こちらを見据える全裸の前谷。その手には遠隔でシャッターを切るレリーズが握られ、個室の入り口の前に据えられたカメラが、四角い窓の向こう側に開いた異空間のような光景を切り取る。個室内の壁を接写したカットには、女性のヌードや男根的な突起などエロティックなドローイングや、謎めいたイメージや象徴的な目が写っており、不鮮明なブレと相まって、カプセルホテルで過ごした一夜に見た夢の感触を描き殴った夢日記のようにも見える。また、「まだ、死なないで」「Keep in touch」といった断片的な言葉も添えられる。孤独や傷つきやすさを抱えた存在、一糸まとわぬ全裸の姿がより強調するヴァルネラビリティ(被傷性)、他人や社会から遮断し保護してくれるシェルター的空間、妄想が護符のように描かれた壁、その閉鎖性や内向性を強く印象づける。
こちらに向けられた前谷の眼差しは、無防備さと緊張感が入り交じり、凝視しているがどこか虚ろさを感じさせる。シャッターを操作するのは前谷自身だが、自分ではファインダーを覗けないため、カメラに向けられた眼差しや表情は、鏡を見るときのように完全にコントロールされたものではない。
ここで、対極的な作品として想起されるのは、横溝静の写真作品「ストレンジャー」である。横溝は、路上に面した窓のある家に住む見知らぬ住人に手紙を送り、指定した撮影日時に部屋の灯りを点けてカーテンを開けた窓辺に立ってもらうよう要請し、撮影協力に応じた彼らのポートレートを、夜の窓越しに撮影した。カメラを構える写真家の姿は夜の闇に沈む一方、灯りの点いた部屋のなかでは、窓ガラスは外界への通路ではなく、自身を映し出す「鏡」となる。見知らぬ他人(写真家)の視線に晒されていることを意識しつつ、鏡面となった窓ガラスに映る自分を眼差し続ける彼らは、自己と他者、見る/見られるという緊張感、カメラが視界に入らないという安堵と「いつ誰に撮られているかわからない」という緊張感を行き来しながら、シャッターを切ってイメージとして捕捉する決定権を写真家に無防備に委ねている。横溝は、文字通り「フレーム」として両者を区切る窓という装置を挟んで相対しつつ、「自身を凝視する眼差し」そのものを抽出する。被写体であり、かつ見る主体でもある彼らにとって、「ストレンジャー」は写真家を指すだけではなく、コントロールを外れた状態でかすめ取られた、自己像の不意打ち的な提示でもある。一方、前谷の場合、「自身を凝視する視線」の提示は、レリーズによるシャッターの遠隔操作によって他者をまったく介在せずに行なわれ、「カプセルホテル」という空間が、その閉鎖性や内向性をより強調する。
だが、「カプセルホテル」という空間は、「セルフヌード」であることとも相まって、外界からの遮断や閉鎖性、シェルターへの希求と親和性が高いだけに、そうした内向的心理と密着しすぎて作品の幅を狭めてしまうのではないだろうか。確かに「カプセルホテル」は、外界や社会から遮断してひとりになれる避難場所を象徴する一方で、個人の生を最小限に規格化されたユニットに押し込む近代的合理化や均質性の極限的装置であり、モビリティや経済格差の拡大を反映する社会的装置でもあり、立地場所は都市のなかの場所の地政学とも関わり合っている。「カプセルホテル」という主題は、そうした広範な可能性を秘めている。「自己と向き合う」作業を通じて、個の内面の凝視にとどまらず、自身を取り巻くより広範な社会性が否応なしに透けて見えてくる、そのようなシリーズとしてのさらなる成長を期待したい。
2019/04/14(日)(高嶋慈)