2019年08月01日号
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artscapeレビュー

オサム・ジェームス・中川「Eclipse:蝕/廻:Kai」

2019年05月15日号

会期:2019/04/13~2019/05/20

ギャラリー素形[京都府]

KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭 2019のアソシエイテッド・プログラムとして、ニューヨークで生まれ日本で育ち、2国のアイデンティティを踏まえて活動する写真家オサム・ジェームス・中川の個展が開催された。展示内容は、1990年代の初期作品をベースに、トランプ政権後のアメリカ社会の変容を意識して新たに制作した「Eclipse:蝕」と、自身の両親の死や老い、妻の妊娠、娘の誕生といった家族を通して生命と死を考える「廻:Kai」の2つのシリーズから成る。社会批評と極私的なプライベートという2つの対極的な軸から成る構成だが、両者に通底するのは、「写真イメージ」への自己言及性だ。

「Eclipse: 蝕」では、無人の荒涼とした風景のなかに、朽ちかけた巨大なスクリーンが壁のように建つ。これらは、野外の駐車場にスクリーンを設置し、車に乗ったまま映画を鑑賞できる「ドライブ・イン・シアター」の残骸である。1930年代にアメリカで始まった、車社会を象徴する娯楽であり、1950年代末~1960年代初頭に最盛期を迎えた。中川は、ハリウッド映画や大企業の広告が、「アメリカン・ドリーム」という虚構の神話を大衆に浸透させる一方で、宗教や人種的対立、移民労働、経済格差などの不都合な問題を隠蔽している構造への批判から、90年代に「ドライブ・イン・シアター」と「ビルボード」のシリーズを制作した。本展でも紹介されたこれらの作品では、荒れ果てた風景のなかに建つ巨大スクリーンに、KKK(白人至上主義者)のデモや移民労働者のイメージが合成され、「隠蔽された社会的真実が当の隠蔽装置それ自体を用いて上映・広告されるが、誰も見る者はいない」という強烈な皮肉を放つ。


[©︎ Osamu James Nakagawa Courtesy of PGI]


一方、トランプ政権成立後に制作された「Eclipse:蝕」では、スクリーンには何も投影されず、ただ空白のみが提示される。よく見ると、スクリーンの背後の鬱蒼とした木立や手前に生い茂る植物、散乱したゴミの一部はネガポジ反転され、視界が奇妙に歪む。暗く沈んだ空も時間の把握を狂わせ、「日蝕」のように夜なのか昼なのか、現実なのか虚構なのか判然としない空間が立ち現われる。同一画面におけるネガとポジの入り組んだ混在は、ポジ(ハリウッド映画やメディアが喧伝する多幸的な未来)とネガ(それらが破綻したディストピアの荒廃)が同居する社会の像とメタフォリカルに重なり合う。こうした「Eclipse:蝕」には、90年代の過去作品のネガをデジタルに起こしたものと、新たに撮影されたものとが混在する。それは、アメリカ社会のかつての繁栄と現在の荒廃、自作の過去と現在といった時間の層を何重にもはらみ込みつつ、入れ子状になったスクリーンの空白は、未来の展望の不在、視覚イメージの飽和、不気味な沈黙の圧力、そしてイメージが消去された検閲的状況さえ匂わせる。


[©︎ Osamu James Nakagawa Courtesy of PGI]


一方、もうひとつのシリーズ「廻:Kai」では、遺影のようなポートレートが暗示する父親の死や不在、老いていく母親の身体、妊娠した妻、娘の誕生と成長といった自身を取り巻く家族の生と死が、象徴的なイメージとともに紡がれる。ナチュラルな木枠と黒枠のフレームが二対になった構成は、生命/老いや死のイメージを対置させるが、氷漬けにされた写真、その解けかけた様子が示唆する記憶の凍結と解凍、ガラスに反映したカメラを構える自己像、無邪気にカメラで遊ぶ娘を挟んで両脇に落ちる自身と妻の影、スクリーンや皮膜を思わせる存在の挿入など、「写真」への自己言及的な眼差しに満ちていた。


[©︎ Osamu James Nakagawa Courtesy of PGI]

2019/05/12(日)(高嶋慈)

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