artscapeレビュー

KG+ 前谷開「KAPSEL」

2019年05月15日号

会期:2019/04/05~2019/04/30

FINCH ARTS[京都府]

カプセルホテルの壁に描いたドローイングとともに、全裸のセルフポートレートを撮影した「KAPSEL」を2012年から継続的に制作している前谷開。「六本木クロッシング2019展:つないでみる」にも出品された同シリーズが、KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭 2019の同時開催イベントの個展で展示された。

白くクリーンだが無機質なカプセルホテルの個室内に座り、こちらを見据える全裸の前谷。その手には遠隔でシャッターを切るレリーズが握られ、個室の入り口の前に据えられたカメラが、四角い窓の向こう側に開いた異空間のような光景を切り取る。個室内の壁を接写したカットには、女性のヌードや男根的な突起などエロティックなドローイングや、謎めいたイメージや象徴的な目が写っており、不鮮明なブレと相まって、カプセルホテルで過ごした一夜に見た夢の感触を描き殴った夢日記のようにも見える。また、「まだ、死なないで」「Keep in touch」といった断片的な言葉も添えられる。孤独や傷つきやすさを抱えた存在、一糸まとわぬ全裸の姿がより強調するヴァルネラビリティ(被傷性)、他人や社会から遮断し保護してくれるシェルター的空間、妄想が護符のように描かれた壁、その閉鎖性や内向性を強く印象づける。



会場風景

こちらに向けられた前谷の眼差しは、無防備さと緊張感が入り交じり、凝視しているがどこか虚ろさを感じさせる。シャッターを操作するのは前谷自身だが、自分ではファインダーを覗けないため、カメラに向けられた眼差しや表情は、鏡を見るときのように完全にコントロールされたものではない。

ここで、対極的な作品として想起されるのは、横溝静の写真作品「ストレンジャー」である。横溝は、路上に面した窓のある家に住む見知らぬ住人に手紙を送り、指定した撮影日時に部屋の灯りを点けてカーテンを開けた窓辺に立ってもらうよう要請し、撮影協力に応じた彼らのポートレートを、夜の窓越しに撮影した。カメラを構える写真家の姿は夜の闇に沈む一方、灯りの点いた部屋のなかでは、窓ガラスは外界への通路ではなく、自身を映し出す「鏡」となる。見知らぬ他人(写真家)の視線に晒されていることを意識しつつ、鏡面となった窓ガラスに映る自分を眼差し続ける彼らは、自己と他者、見る/見られるという緊張感、カメラが視界に入らないという安堵と「いつ誰に撮られているかわからない」という緊張感を行き来しながら、シャッターを切ってイメージとして捕捉する決定権を写真家に無防備に委ねている。横溝は、文字通り「フレーム」として両者を区切る窓という装置を挟んで相対しつつ、「自身を凝視する眼差し」そのものを抽出する。被写体であり、かつ見る主体でもある彼らにとって、「ストレンジャー」は写真家を指すだけではなく、コントロールを外れた状態でかすめ取られた、自己像の不意打ち的な提示でもある。一方、前谷の場合、「自身を凝視する視線」の提示は、レリーズによるシャッターの遠隔操作によって他者をまったく介在せずに行なわれ、「カプセルホテル」という空間が、その閉鎖性や内向性をより強調する。

だが、「カプセルホテル」という空間は、「セルフヌード」であることとも相まって、外界からの遮断や閉鎖性、シェルターへの希求と親和性が高いだけに、そうした内向的心理と密着しすぎて作品の幅を狭めてしまうのではないだろうか。確かに「カプセルホテル」は、外界や社会から遮断してひとりになれる避難場所を象徴する一方で、個人の生を最小限に規格化されたユニットに押し込む近代的合理化や均質性の極限的装置であり、モビリティや経済格差の拡大を反映する社会的装置でもあり、立地場所は都市のなかの場所の地政学とも関わり合っている。「カプセルホテル」という主題は、そうした広範な可能性を秘めている。「自己と向き合う」作業を通じて、個の内面の凝視にとどまらず、自身を取り巻くより広範な社会性が否応なしに透けて見えてくる、そのようなシリーズとしてのさらなる成長を期待したい。



会場風景

2019/04/14(日)(高嶋慈)

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