artscapeレビュー

山﨑健太のレビュー/プレビュー

ウンゲツィーファ『転職生』

会期:2018/02/28~2018/03/04

王子スタジオ1[東京都]

ウンゲツィーファという言葉はカフカ『変身』に由来する。「毒虫」と訳されることが多いが、本来は「害をなす小さな生き物」という程度の意味らしい。

本作はある会社が舞台の群像劇。人間関係の面倒臭さ、登場人物たちの漠然とした不安や苛立ちが台風の訪れとともにゆっくりと重みを増していく。中途採用で今日が初出社のシナトは空気を読まず、社内の空気をますますおかしくする。台風で帰れなくなった彼らは社内で飲み会を開くが、社員のタカニシがバイトのヨアラシのパソコンを勝手にいじり、彼が書いていた脚本のデータを消してしまったことで二人は衝突。その場の何人かも自らの鬱憤を噴出させる。すると突然シナトが歌い出し、なんだかよくわからないままにその場は終わっていく。

空間の使い方が効いている。通常は稽古に使われるスタジオをそのまま会社の空間に転じ、外を走る車の音がゴウゴウという風の音に聞こえる。休憩所、喫煙所、事務所と並ぶ横長の舞台はリアリズムに基づいているように見えるが、三つの空間は実際には隣り合ってはいないようだ。観客からは同じ空間にいるように見える俳優たちは、しばしば互いが見えていないかのように振る舞う。彼らはひとつの世界で、それぞれに異なるモノを見て生きている。

作品は翌朝、社内ですれ違うヨアラシとタカニシがぶっきらぼうに挨拶を交わす瞬間で終わる。許容。羞恥。謝罪。諦念。無関心。おそらくどれでもあってどれでもない。わかりあわないままでともにある二人にグッと来る一方で、そうするしかないことに苛立ちを感じて引き裂かれる。何事からも自由であるように見えるシナトですら、「あの! 月曜日も来ますよね」という問いかけに一度は黙ってから「あ、はい、よろしくお願いします」と答える。それは共生への微かな希望なのだろう。だがその背後に、そうあるしかないことへの虚無にも似た絶望が透けて見えるのは気のせいだろうか。

公式サイト:https://ameblo.jp/kuritoz/

2018/03/03(山﨑健太)

鳥公園「鳥公園のアタマの中」展

会期:2018/02/27~2018/03/04

東京芸術劇場 アトリエイースト[東京都]

鳥公園・西尾佳織の6本の戯曲を西尾を含めた5人の演出家がそれぞれ演出し、リーディング公演として(台本を手に持ち、それを読み上げるかたちで)上演するという今回の企画。ただし、演出家と俳優はその日の朝からリハーサルを始め、稽古のほとんどの時間は一般に開かれた状態で行なわれる。公演後には西尾と俳優や演出家とのトークもある。創作のプロセスをそのまま見せるという意味で、会場の名前でもある「アトリエ」での作業を見せる試みと言えば近いだろうか。

しかし、創作のプロセスを開示することに、あるいはたった1日しか稽古していないリーディング公演を上演することにどのような意味があるのだろうか。私のように演劇そのものに興味がある人間、あるいは自らも創作に携わる人間にとっては有意義かもしれないが、そうでない人々はこの取り組みに何を見ればよいのだろうか。

27日に上演された『カンロ』(演出は西尾)の初演は2013年。複数の視点から見た現実や夢、妄想が溶け合うような上演のあり方はそれ自体が作品の魅力をなしている一方、舞台上で何が起きているかを完全に把握することを難しくしている印象もあった。ところが今回のリーディング公演では戯曲の構造がはっきりと見えた。戯曲の複数のレイヤーが、俳優の立ち位置や移動によってはっきりと可視化されていたからだ。トークで聞いたところによれば、それは演出の西尾の指示によるものでなく、俳優が自発的に動いた結果なのだという。

ここに示されているのは、戯曲を上演するという行為には、俳優が(あるいは演出家が)戯曲と向き合い思考するプロセスが含みこまれているという当たり前の、しかし忘れがちな事実だ。稽古がそうだというだけでない。繰り返される上演もまた、本来的には思考のプロセスとしてあるはずだ。観客もまた、舞台上の俳優たちと場を共有し、ともに思考する時間を過ごす。であるならば、よい上演の条件とは何だろうか。

公式サイト:https://www.bird-park.com/

2018/02/27(山﨑健太)

劇団ドクトペッパズ『うしのし』

会期:2018/02/23

国立オリンピック記念青少年総合センター 第1体育室[東京都]

「牛の死」を描いた本作は手のひらサイズの人形によって上演される人形劇だ。糸で繰られる老人と老いた牛は老いを映すようにふるふると震える。老い、死に近づくほどに私たちは自らの体を思うようには動かすことができなくなり、それは物体としてのあり様を露わにしていく。

舞台となる空間の大きさは5メートル四方ほどもあるのだが、老人の家と畑は空間の前面に置かれた30センチ四方ほどの二つの台の上にあり、牛とともに畑仕事に勤しむ老人はその小さな世界で充足している。しかし牛の死がその世界の終わりを告げる。唯一の伴侶を失った老人は呆然と座り込む。ふと見ると、引くもののない牛車がするすると進んでいく。追いかける老人。牛車ははるか先へと進みゆき、老人は気付けば何もない真っ白な雪原にひとり取り残されている。広大な世界に放り出された老人の人形はより一層小さく見える。

と、真っ白な雪原は一瞬にして、色とりどりの花が咲き乱れる桃源郷へと変わる。そこにあの牛が酒を運んでくる。再会を祝し盃を干す。花びらが舞い、次の季節が訪れる。青々と茂る稲に風が吹き渡り雲が流れる。いつしか牛は再び去っている──。

広大な世界のなかで個々の命は圧倒的に孤独で小さい。誰が死のうと季節はめぐる。だが、その死の一つひとつはめぐる自然の理へと組み込まれている。死を通して世界の大きさに触れる彼らの手つきは温かい。ほとんどの演出効果が人力によっていることも大きいだろう。台詞らしい台詞はない。「おーい」と牛を呼ぶ老人の声。牛の鳴き声。舞う花びら。ばらんでできた稲が吹く風に立てるパタパタという音。それぞれが確かにそこにあることを確かめるようにして上演は進む。小さな人形と広い空間の対比、一瞬で季節が変わる舞台美術など、人形劇ならではの手法と仕掛けが鮮やかに作品の主題を浮かび上がらせていた。

本作は劇団ドクトペッパズのレパートリーのひとつであり、夏にも上演が予定されている。

公式サイト:http://dctpeppers.wixsite.com/mysite

劇団ドクトペッパズ『うしのし』ダイジェスト版:https://www.youtube.com/watch?v=uFYLQdK4fnQ

2018/02/23(山﨑健太)

ホー・ツーニェン『一頭あるいは数頭のトラ』

会期:2018/02/11~2018/02/18

KAAT神奈川芸術劇場 中スタジオ[神奈川県]

国際舞台芸術ミーティングTPAMでシンガポール出身の映画作家/ヴィジュアルアーティストであるホー・ツーニェンの「自動化された影絵劇」、『一頭あるいは数頭のトラ』が「上演」された。東南アジアにおける人間とトラの関係を中心に置いた本作。“We are tigers, weretigers.”(我らはトラ、トラ人間だ)と歌うCGのトラの姿はユーモラスだが、構成は複雑かつ巧みだ。

観客は向かい合った二つのスクリーンに挟まれて作品を鑑賞する。二つのスクリーンを一度に視界に収めることはできない。観客は狭間に立ちながら、同時に二者択一を迫られる。鑑賞は常に、背後にもう一方の気配を感じながらのことになるだろう。そちらは映像を投射するプロジェクターの置かれた、つまり、起源の方向でもある。この構図は物語内でも反復される。トラ人間は月光を受けて真の姿を現わすが、月光は太陽光の反射でしかない。月と向き合うトラ人間の背後には、真の光源たる太陽が隠れている。

[撮影:前澤秀登]

作品を通して、起源は常に相対化、複数化されていく。それが最高潮に達するのが、スクリーンの背後から影絵芝居の人形が現われる瞬間だ。光の像たる映像に対し影絵は影の像であり、両者はともに光によってかたどられながら、その表裏は逆転した関係にある。光源は人形を挟んだ向こう側だ。観客がそれまで見ていたものは裏側に過ぎないのかもしれない。いや、この言い方も正確ではない。それが影絵芝居であるならば、観客の位置はそのままでいい。だが、人形がスクリーンなのだとしたら? 観客は向こう側に映る絵を見る術を持たない。複数の光源は複数の視点の存在を暗示する。そういえば、screenという単語には目隠しという意味もあった。

ホー・ツーニェンはこれまでにも同じモチーフを使った作品を繰り返し発表してきている。それもまた、起源を複数化する行為だ。複数の作品の記憶は鑑賞者の中で混じり合い、また新たな起源を創造するだろう。一頭のトラの背後には、複数のトラが潜んでいる。

[撮影:前澤秀登]

One or Several Tigers ( 2017 ) by Ho Tzu Nyen, courtesy of the artist

公式サイト:https://www.tpam.or.jp/program/2018/?program=one-or-several-tigers
参考URL(映像):https://aaa.cdosea.org/#video/w

2018/02/18(山﨑健太)

『冬の夜ひとりの従業員が』

会期:2018/02/12~2018/02/15

若葉町ウォーフ[神奈川県]

私はこの作品を東南アジアの友人と見た。彼らとは英語で話すのだが、英語が上手くない私はしばしば疎外感を感じることになる。だが、一方で私が彼らに強い親しみを覚えているのも、彼らとお互いに母国語ではない英語で話しているからだと思うのだ。

『冬の夜ひとりの従業員が』は台湾のアーティスト3組による三つの作品からなる。会場1階で上演された再拒劇団『定例監査の協奏』はキーボード、コーヒーメーカー、バネ、釘などが設置された大きなテーブルを楽器として使ったサウンドパフォーマンス。スーツを着込んだビジネスマンめいたパフォーマーたちが机を囲み、無表情のままオフィスワークのように「演奏」する様は非人間的だ。その耐えがたさはときに暴力となって噴出するが、作り手のアイロニカルな視線はパフォーマンスをどこかユーモラスなものにもしている。

[Photo: Ash Lin]

2階のスタジオで上演されたのはサウンドデザイナー蔣韜(チアン・タオ)とオブジェクトシアターアーティスト曾彥婷(ツェ・ヤンティン、カッパ)による『ナイトウォーク:何故?』。影絵と音によって夜の街の風景が立ち上がり、気付けばそれは幻想的なものへとスライドしている。やがて光と音が消えると彼らは窓を開け外を眺める。ノスタルジーと孤独のアンビバレントは若葉町という現実に接続され、そこに滞在する異国のアーティストである彼ら自身に回帰する。

[Photo: Ash Lin]

3階は宿泊施設。黄鼎云(コウ・ディンユン)『緘黙』の観客はそこに並ぶ二段ベッドのひとつに一人ずつ、あるいは男性二人で入り、カーテン越しにフロアの音を聞く。就寝準備の音は男性同士の愛の囁き、性行為の音へと移り変わり、観客は密かに聞き耳を立て続ける。見知らぬ者同士の一夜の関係。

[Photo: Ash Lin]

三つのパフォーマンスの示す疎外感と親密さは、海外からやってきた住人が多く住む若葉町という街が抱えるものでもあるだろう。二つの感情は相反するものではなく、ときに共犯関係を結んで魔法をかける。疎外感を共有する親密さ。そのとき、孤独は少しだけ温かい。


公式サイト:https://www.tpam.or.jp/program/2018/?program=ifonawintersnightanemployee

2018/02/15(山﨑健太)