artscapeレビュー
山﨑健太のレビュー/プレビュー
抗原劇場常備演目vol.1『ちはる』
会期:2018/06/08~2018/06/10
小金井アートスポット シャトー2F[東京都]
抗原劇場(アレルゲンシアター)は演出家/ドラマトゥルクの山田カイルが展開する演劇活動の総称。レパートリーの創造を目指し「常備演目vol.1」と銘打たれた今回は、劇作家・小島夏葵の戯曲を山田カイルの演出で上演した。
街はずれの砂浜を訪れたウオノメ(塗塀一海)は、そこで鍵を探すヤッコ(野田容瑛)と出会う。その鍵はヤッコがかつてともに暮らしたちはるという女の日記帳の鍵らしい。しかし文字が読めないヤッコは鍵があっても日記を読むことができない。一方のウオノメは街にあるすべての文字を読み尽くして海に来たのだと言う。ウオノメは文字を教える代わりに日記の中身を教えてほしいとヤッコに提案し、二人の共同生活が始まる。やがて文字を覚えたヤッコは、日記に記されたわずかな手がかりをもとにちはるを追う旅に出る。電話越しにヤッコが語る旅はウオノメの、そして観客の想像を広げていく。
会場となった小金井アートスポットは劇場ではなくギャラリーのような空間で、俳優の向こう、窓越しに武蔵小金井の街がよく見える。2階の会場からは人と車が往来する道路を見下ろす形だ。私が『ちはる』を観た日は雨だった。大きな一枚ガラスの向こう、雨の降る街の景色に音はなく、だからだろうか、確かにそこにあるはずなのにどこか現実感がない。窓際に置かれたブラウン管には無数の水鳥が映し出され、むしろここが浜辺ではないことを強調している。私の目の前にいる俳優は確かに現実だが、語る言葉も紡がれる物語もいかにもつくりものめいている。リアルの失調が、私にフィクションとの距離を測らせる。
『ちはる』もまた、そこにはないもの、いない人との距離を描いた物語だった。何かをつかむための言葉は、同時に無限の隔たりを生む。言葉は距離を越え、しかしどこまでも届かない。ヤッコが語る旅も実のところ想像でしかない。それでも言葉は現実に働きかける。物語は二人の(本当の)旅立ちで締めくくられる。
公式ページ:https://twitter.com/theatreallergen
2018/06/10(山﨑健太)
KAAT×地点 共同制作第8弾『山山』
会期:2018/06/06~2018/06/16
KAAT神奈川芸術劇場 中スタジオ[神奈川県]
かつて美しい山の麓に暮らしていた家族が「あの日」以来の帰還を果たすと、そこには汚染されたもうひとつの山が出現していた。家族4人に作業員、アメリカ製の作業ロボットと彼らを使う社員、そして「あの日失われた場所に取り残されたあの山山」を観光するために東京から訪れたカップル。松原俊太郎の戯曲(『悲劇喜劇』2018年7月号掲載)は演出家・三浦基の手で寸断/再構成され、戯曲とはまた異なる風景を舞台上に出現させる。群れのように行動する俳優たちから登場人物個々の人格を切り出すことは難しい。異なるはずの立場は半ば溶け合っている。俳優たちの身ぶりや発話が言葉にまた新たな意味の層を追加し、観客が唯一の正解にたどり着くことはない。だがその根底には怒りがある。
舞台美術(杉山至)の巨大な斜面は観客の立ち位置を問い直す。舞台中央でV字を描く斜面は舞台奥から客席に向かっても傾斜している。それは巨大な滑り台のようであり、ひっくり返った家の屋根のようでもある。磨き上げられた斜面に映り込む俳優たちは鏡の中で反転した谷、つまりは山に立ち、そこはしかし水面下の世界のようにも見える。俳優はその頂上部から顔を覗かせ、斜面を滑り、ところどころに立つ柱のようなものに掴まり寄り集まっては言葉を発する。V字をなす斜面のそれぞれが山、山だろうか。あるいはV字が客席に向けて傾斜していることを考えれば、向かい合う階段状の客席こそがもうひとつの山なのだということになるのかもしれない。それはつまり私のいるこの場所だ。二つの山が谷をなす。汚染された山山に暮らす人々になまはげの衣装(ウレット・コシャール)を着せた意図は明白だ。なまはげはその異形に反して厄払いの役割を担っている。「私は鬼ではありません。私は人間です」。そこは切り離された彼岸ではない。言葉を発する行為は自らの足元を確かめる運動と不可分だ。下り坂で抵抗を続ける彼らは他人事を語るのではない。
7月には同じく劇作家・松原俊太郎と地点がタッグを組んだ『忘れる日本人』のツアーも控えている。7月13日(金)から愛知県芸術劇場、18日(水)からロームシアター京都にて。
公式サイト:http://www.chiten.org/
2018/06/06(山﨑健太)
M&Oplaysプロデュース『市ヶ尾の坂──伝説の虹の三兄弟』
会期:2018/05/17~2018/06/03
本多劇場[東京都]
竹中直人の会による初演から26年、描かれる物語はすでに失われた風景のなかにある。1992年、田園都市計画で変わりゆく市ヶ尾。和洋折衷の一軒家に住む三兄弟(大森南朋、三浦貴大、森優作)は近所に住む美しい人妻・カオル(麻生久美子)を慕っていて、ことあるごとに家に上げてはよもやま話に花を咲かせている。カオルの夫の朝倉(岩松了)や家政婦の安藤(池津祥子)までもがたびたび訪れるうち、それぞれが抱える事情や欲望が見え隠れし──。
岩松了の作品はしばしば「嘘」のモチーフによって貫かれている。偽りの関係と言ってもよい。あるいは手に入らぬものの代理。三兄弟のカオルへの思慕は恋情と今は亡き母への思いとがない交ぜになったものだ。だからこそ三兄弟の振る舞いは奇妙に子供っぽい。そこにカオルの子への思いが絡み合う。5歳になる義理の息子・ヒロシとうまく関係が結べないカオルもまた欠落を抱えている。
冒頭で語られる柿の実とヘタのエピソードは示唆的だ。ヘタに隠れるくらいに小さかった実は、気がつけばヘタよりも大きくなってしまっている。親子が互いに対等に思いを交わす瞬間は訪れない。三兄弟とカオルとの関係が危うくも魅力的なのは、本当の親子としては得られない対等な愛の交流の瞬間をそこに見てしまうからだ。それは当然、近親相姦的な欲望に近づくことにもなる。
物語の終盤、カオルがついたひとつの嘘が明らかになる。三兄弟は動揺し、誤って彼女にお茶をかけてしまうが、彼女はなお嘘をつき通そうとする。ヒロシと最後によい思い出ができたというその嘘を、あったことにしようとするように。それは三男・学の願いでもあった。
三兄弟の亡き母の浴衣に着替え、2階から降りてくるカオル。彼女の足が見えたかと思うと明かりは消え、舞台は終わる。その瞬間、三兄弟は嘘と知りながら、そこに確かに母の姿を見ただろう。嘘が見せる幻は、しかし現実にはあり得ないからこそハッとするほど美しい。
公式ページ:http://mo-plays.com/ichigao/
2018/06/02(山﨑健太)
福井裕孝『インテリア』
会期:2018/05/17~2018/05/20
trace[京都府]
ひとり暮らしの男(向坂達矢)の日常が多少の差異を伴いつつ三度繰り返され、家事代行らしき女(金子実怜奈)が部屋を片付けると男の日常がもう一度繰り返される。本作で起きる出来事はまとめてしまえばこれだけなのだが、そのなかで空間とそれを統御する規則は豊かに変容していく。
福井裕孝は2017年の全国学生演劇祭で上演した劇団西一風『ピントフ™』で脚本・演出を担当し審査員賞を受賞。同作は東アジア文化都市2017京都文化交流事業の招聘を受け、第2回大韓民国演劇祭in大邱で再演された。同年にはマレビトの会『福島を上演する』に演出部として参加もしている。
現実としての上演空間とそこで俳優が生成するフィクション。本作で福井はそこに第三項として家具や家電、日用雑貨といった「モノ」を持ち込んでみせた。確かな現実としてありつつ、現実の空間、たとえばtraceというギャラリーに本来は属さない、フィクションのために持ち込まれた存在。フィクションを構成しながら、俳優とは異なり自らの意思で演じることのない存在。だがその存在はフィクションの空間を物理的に規定している。例えばテーブルの向きは同じ部屋に存在することになっているテレビや流しの位置を自動的に決定する。ゆえにその向きの変更は現実の空間とフィクションの空間とが結ぶ関係それ自体の変更を意味することになる。繰り返される日常のなかでモノたちは移動され、その配置が新たなフィクションを生成する。
一方、繰り返される日常のなかで堆積していくペットボトルや缶、靴下といったモノたちは空間に痕跡を刻む。それらは男によって日々部屋へと持ち込まれるのだが、空間の変容に伴って移動することはない。それらは変容以前の気配を湛えてそこにある。
上演を支える物理的基盤としての上演空間は容易には変更が効かないが、同じく物理的基盤であるところのモノは容易に「ズラす」ことができる。そのズレから覗く現実とフィクションとの新たな関係には、まだまだ可能性がありそうだ。
公式サイト:https://fukuihrtk.wixsite.com/theater
2018/05/20(山﨑健太)
いいへんじ『夏眠』/『過眠』
会期:2018/05/11~2018/05/14/2018/05/15〜2018/05/17
早稲田小劇場どらま館/シアターグリーン BASE THEATER[東京都]
いいへんじは2017年6月旗揚げの演劇ユニット。シアターグリーン学生芸術祭vol.11で優秀賞を受賞、下北沢演劇祭の若手支援企画・下北ウェーブ2018に選出されるなど注目を集めつつある。
ナツミ(松浦みる)は17歳のある日、幼馴染のスギタ(内田倭史/萩原涼太)が空を見上げて「意味、な」とつぶやく夢を見る。その様子に死の予感を感じたナツミはスギタを守ろうと22歳までの時間を共に過ごす──。そんな物語を『夏眠』は17歳と22歳の二人を描いた二つのバージョンで上演した。ほとんど同じ上演台本で描かれる、予感された未来と変えられない過去。舞台上に時おり投影される台本が、あらかじめ決められた運命を思わせる。
ところで、舞台上のスギタはナツミが頭のなかで想像するスギタらしい。ナツミはスギタのすべてを知っているわけではなく、自分の知っている範囲のスギタを思い浮かべることしかできない。ナツミの思いをスギタが汲み取れなかったように、スギタの思いをナツミは知らない。
一方の『過眠』は17歳のスギタ(内田倭史)と22歳のスギタ(萩原涼太)の会話、のはずなのだが、内田はなかなか17歳のスギタの役を引き受けようとしない。舞台上に物語のさまざまな設定、ナツミや作者である中島梓織の言葉が投影されていき、そうこうするうちようやく二人のスギタとしての会話が始まるが、17歳のスギタは22歳のスギタの示す物語をやはり受け入れようとしない。やがて二人は舞台上に散らばる小道具や設定を拒絶し、与えられたスギタという役も放り出してしまう。役を脱ぎ捨て、舞台上で走り回る二人は軽やかだ。
スギタを守ろうとするナツミの思いは本心かもしれないが、そこには他人に自分の物語を押しつけ組み込もうとする傲慢さが潜んでいる。中島はそれが作者である自分の営為に重なることを自覚しながら、それでもなお物語を通して他人とかかわろうとする。『夏眠』の最後でスギタのもとへと走り出すナツミが体現するのは、そんな真摯な覚悟だ。
公式サイト:https://ii-hen-ji.amebaownd.com/
2018/05/12/2018/05/17(山﨑健太)