artscapeレビュー

山﨑健太のレビュー/プレビュー

オパンポン創造社『さようなら』

会期:2018/04/19~2018/04/22

花まる学習会王子小劇場[東京都]

オパンポン創造社は大阪を拠点とする野村有志のひとり演劇ユニット。CoRich舞台芸術まつり!2018春の最終審査に選出された本作は、劇団としては久々の東京公演となった。

舞台は淡路島のネジ工場。そこで働く柴田(野村有志)の毎日は、同じ工場で柴田を「かわいがる」先輩・宮崎(川添公二)、同僚の暗い女・末田(一瀬尚代)、風俗狂いの中国人・チェン(伊藤駿九郎)、工場の社長(殿村ゆたか)そして行きつけのスナックのママ(美香本響)という狭い人間関係で完結していた。ところがある日、末田とチェンが社長の金を盗み出す計画を柴田と宮崎に持ちかけて──。

冒頭、末田とチェンが柴田・宮崎を裏切り、金を持ち逃げしたことが明かされると、そこに至る彼らの日常が描かれる。退勤、飲みの誘い、スナックでのカラオケオール、ラジオ体操、就業、退勤、そしてまた飲みの誘い。柴田は乗り気ではないのだが、宮崎の誘いを断ることができずに毎日朝まで付き合うハメになる。毎日、毎日、毎日、毎日。執拗に描かれる日常は、繰り返すたびに少しずつ省略され、機械的な反復になっていく。磨耗する感情。繰り返しと省略が暴き出すのは、渦の中心に凝縮されていく鬱屈だ。

関西の劇団らしく、デフォルメされたキャラとテンポのいいやりとりが笑いを呼ぶのとは裏腹に、全体のテイストは苦い。抜け出せない日常に不満を覚えながらもそれをやり過ごす柴田は、変わりたいと思うことすら放棄していたことを末田に指摘される。ヘラヘラしたうわべとその向こうに垣間見える苛立ち、それでいて変化を望まぬ弱さを野村が巧みに演じていた。犯罪計画は露呈し、変化は望まぬかたちで訪れるものの、柴田は再び工場で働くことになる。行方を眩ましていた末田も戻り、変わらぬ日常が再開する……かのように思えたが、それは持ち逃げした金を使って末田と同じ顔に整形したチェンだった(!)。衝撃の結末に、しかし柴田の漏らす乾いた笑いはどこか明るい。

公式サイト:https://opanpon.stage.corich.jp/

2018/04/22(山﨑健太)

contact Gonzo × 空間現代

会期:2018/03/30~2018/03/31

[京都府]

空間現代コラボーレションズ2018の第3弾。空間現代の本拠地であるスタジオ兼ライブハウス「外」の中央には台座が置かれ、その上にベニヤで覆われた直方体が鎮座していた。天面からは木の枝やオレンジ色に塗られた木片、あるいは何かのコードが飛び出している。オブジェを囲むビニールカーテンの外には空間現代、内にはcontact Gonzo。「演奏」が始まる。

ゴンゾの面々はハンマーや木片でオブジェを殴打する。打撃音がスピーカーからも聞こえてくる。天面から出ているコードはどうやらマイクにつながっているらしい。オブジェの周囲のベニヤが破壊され、その正体がコンクリートconcrèteの塊だということが露わになる。

Photo by Yamazaki Kenta

今回のコラボレーションはゴンゾ&空間現代版ミュジック・コンクレートmusique concrèteだ。ミュジック・コンクレートは楽音のみならず自然界の音や人の声など、あらゆる音を電子的に録音・加工・構成することでつくられる。破壊音もまた音楽の一部となる。

合間にいつもの取っ組み合いを挟みつつ破壊は続く。電動ドリルまでもが登場し、コンクリート片が飛散する。コンクリート塊からはテニスボールや木片、ビニール袋、人の頭部をかたどったオブジェなどが「発掘」される。文字通りのファウンド・オブジェ。だがそれはもちろんあらかじめ埋め込まれたモノたちだ。無機質な直方体だったコンクリート塊は、いつしか彫刻のように削られている。

Photo by Katayama Tatsuki

Photo by Yamazaki Kenta

「解体=創造=(再)発見」の等式は空間現代の音楽に由来する。彼らの楽曲はいくつかのフレーズを解体、編集しながら反復することで構成されている。それを聞く観客は、反復される無数のバリエーションを通してオリジナルのフレーズを見出すのだ。繰り出される演奏の一撃一撃が、ハンマーのように空間現代の音楽を削り出す。

二日にわたる解体=創造のレコードたる「ミュージック・コンクリート」はその後、当日の演奏を複数のスピーカーで再構成した音とともに「3.30-31 Aftermath」として「外」に展示された。

Photo by Katayama Tatsuki

contact Gonzo:http://contactgonzo.blogspot.jp/
空間現代:http://kukangendai.com/
「外」:http://soto-kyoto.jp/

2018/03/30(山﨑健太)

インダハウス・プロジェクツno.1『三月の5日間』

会期:2018/03/15~2018/03/24

ベルリン・セミナーハウス[神奈川県]

岡田利規の戯曲『三月の5日間』のラスト近く、女が道端で野糞をしているホームレスを犬と見間違え、そのことに衝撃を受けて嘔吐するという場面がある。山縣太一演出の『三月の5日間』を観ながら、この場面のことを思い出していた。あるいはこの場面を演じる「男優」が、直後に「女性用のリップクリームを出して、唇に塗」るというト書きのことを。身体と意味との間に生じる裂け目が強烈に気持ち悪い。

山縣が演出する作品では、俳優の発話と身体の動きとの間に大きなギャップがあるように見える。より正確に言えば、それぞれが別のラインによって、しかし強烈にコントロールされているように。しかしそもそも、発話と動作が一対一で対応している人間などいない。すべてを意識的に制御することなどできないほど無数のラインによって身体は動かされている。太一メソッドと呼ばれる技法が試みるのは、可能な限り細分化された多くのライン(そこには目や耳といった受容器官も含まれる)を俳優の意識の支配下におき、それぞれに別系統の命令を走らせることだ。

そのように私には見える。と言わなければならないのは、観客たる私は俳優の内部で起きていることを知る術を持たないからだ。言葉の向こうに立ち上がる異形の身体。言ってしまえばそれは単なる体の動きにすぎない。だが、得体が知れないがゆえに、言語化され得ない何かがそこに漏れ出ているようにも見える。イラク戦争の開戦を尻目にラブホに連泊する男女の言葉は軽薄だ。だがその身体が湛える何かは軽薄なだけでなく凶暴で張り詰めている。あるいはそれは、2018年から彼らをまなざす俳優/観客の、2003年という劇中の現在には存在しない感情にさえ見える。見えないはずのものが見えてしまう。

私は山縣の演出する作品がいつも薄っすら怖い。舞台上の俳優たちを見るうちに、私もベロリと剥かれているような気がしてくるからだ。恐怖に魅入られた私は俳優たちから目を逸らせない。

[撮影:三野新]


公式サイト:https://bellringsseminarhouse.tumblr.com/

2018/03/16(山﨑健太)

名取事務所『渇愛』

会期:2018/03/09~2018/03/18

下北沢B1[東京都]

美術教師のジェソプ(渡辺聡)は妻・ソヨン(森尾舞)と息子・ヒョンス(窪田良)と暮らしている。ある日、家を訪れた息子の友人・ジンギ(西山聖了)を見たソヨンは、「彼はかつて堕した子供の生まれ変わりだ」と言い出し、両親のいない彼を養子に迎える。ジンギに異常な愛情を注ぐソヨン。その愛情は一線を越える。母と交わるジンギの姿を目撃したヒョンスは彼を刺してしまう。母とジンギは出ていき、絶望したヒョンスは自ら命を絶つ。ところがその後、ソヨンは詐欺罪で投獄されてしまう。彼女もまた、ジンギに騙されていたのだった──。

韓国の劇作家・金旼貞(キム・ミンジョン)が実際の事件をもとに書いたという本作。一連の事件は、ジンギを殺そうと彼の部屋で待ち受けるジェソプによる断片的な回想のかたちで語られる。ジンギという「怪物」を中心に置いたサイコスリラーと思われた物語はしかし、徐々に現代版ギリシャ悲劇とでもいうべき様相を露わにしていく。短い場面を巧みにつなぐ寺十吾の演出が見事だ。

この物語がより悲劇的なのは、それがすでに起きてしまった出来事だからだ。シャーマンの一種「ムーダン」の家系に生まれたソヨンはかつて、ムーダンになるのが自分の運命であり、逆らえば家族に不幸が訪れるとジェソプに訴えていた。だが彼は世間から忌み嫌われるムーダンになる必要はないと彼女を説き伏せてしまう。結果から見れば、彼女の予言は正しかったと言うほかない。彼は起きることがわかっている悲劇を反芻する。そこに彼の意志が介入する余地はない。

それでもなお、悲劇は彼の選択を映したもので、だからこそこれは悲劇なのだ。ジェソプはさまざまな面でソヨンを抑圧していた。子供を堕したのも、ジェソプに十分な稼ぎがなかったからだ。ジンギは家族を狂わせたが、状況を準備したのはジェソプ自身だ。ジェソプは最終的に、ジンギを殺人犯に仕立てあげようと自ら喉を搔き切る。彼の命を奪うのは砕け散った鏡だ。

[撮影:坂内太]

公式サイト:http://www.nato.jp/index.html

2018/03/15(山﨑健太)

かもめマシーン『しあわせな日々』

会期:2018/03/01~2018/03/04

慶應義塾大学三田キャンパス 旧ノグチルーム[東京都]

腰まで砂に埋まった女・ウィニーがひたすらしゃべる。二幕になると女は首まで埋まっていて、やはりひたすらにしゃべる。時おり砂山の向こうから夫・ウィリーが姿を見せる。サミュエル・ベケットの戯曲『しあわせな日々』はそんな作品だ。タイトルは「されどしあわせな日々」の意だろうか。我が身の状況を知りながらも意に介さない女への皮肉だろうか。

今回の萩原雄太の演出では女(清水穂奈美)の埋まる砂山は鉄の殻を貼り合わせたような造形で(美術:横居克則)、そのビジュアルは高橋しん『最終兵器彼女』や大友克洋『AKIRA』、あるいは映画『マトリックス』を思い起こさせる。ここにある「しあわせ」は幻想に過ぎないと示唆するように。

[撮影:荻原楽太郎]

会場となった旧ノグチルームからは東京のビル群が見渡せる。私が観た回はちょうど夕刻で、ビルの向こうに日が沈むなか、開演を告げるベルが鳴った。それは一日の始まりの合図でもある。女が目を覚まし、一幕が始まる。夕日はまるで朝日のように女を照らすが、それはもちろん錯覚でしかない。時々刻々と日は翳りゆき、夜の訪れとともに一幕が、彼女の一日が終わる。だが、二幕になれば再びベルが鳴り、新しい一日が始まる。外には夜が広がっているにもかかわらず。すると夜を拒絶するかのように部屋の周囲に白い薄幕が降り、窓の外、現実の風景を覆い隠してしまう。

ウィニーの生きる世界に飲まれた観客の姿はウィリーに似ている。砂山=鉄の殻に潜り込み、ウィニーが宿す胎児のように眠るウィリーと、白い薄幕に包まれ現実から隔てられた観客。彼らを包む幻想は果たして安全を保障するだろうか。

あるいは、ウィリーこそがウィニーの孕む幻想そのものなのかもしれない。ならば、結末において外部から現れ手を差し伸べるウィリーの姿もまた都合のよい幻にすぎない。自らのつくり出した幻想に埋もれ、朽ちてゆく自身に見て見ぬふりをする女。窓の外にはDHCの広告が煌々と輝いていた。

[撮影:荻原楽太郎]

公式サイト:http://www.kamomemachine.com/

2018/03/04(山﨑健太)