artscapeレビュー

村田真のレビュー/プレビュー

吉村芳生 超絶技巧を超えて

会期:2018/11/17~2019/01/20

東京ステーションギャラリー[東京都]

ひたすら同じこと、意味のないことを繰り返したり、恣意性を排した機械的作業に身を委ねる。モダニズムが行きつくところまで行きついて閉塞状況に陥った70年代、こうしたシジフォスのごとき単純労働を自らに科した作家は少なくない。いわば表現しないことを表現した「非表現主義」。吉村芳生は、徹底した恣意性の排除とシステマティックな制作方法においてその代表格といえるだろう。

初期の作品《ドローイング 金網》は、紙の上に金網をのせてプレス機にかけ、紙に写った跡を鉛筆でなぞり、陰影をつけて立体感を出したもの。まあこれだけなら驚かないが、それを何度も繰り返して全長17メートル、網目の数は約1万8千個におよんだというから、「バカじゃないか」と感心する。なにげない風景写真を模写した《ドローイング
写真》シリーズは、モノクロの風景写真を紙焼きして格子状にマス目を引き、1マスごとの濃淡を10段階に分けて数字を記入。その数字を方眼紙に書き写し、上から透明フィルムを重ねて数字の本数だけ線を引いて濃淡を表わしたもの。アナログな画像をいったんデジタル化して再度アナログ化するわけだが、その作業自体がアナログ極まりないのだ。ほかにも、新聞紙を一字一句もらさず丸ごとそのまま原寸大に書き写した《ドローイング
新聞》シリーズ、1年のあいだ毎日セルフポートレートを撮り、それを鉛筆で描き写した《365日の自画像》など、常軌を逸した作品ばかり。

しかし70年代にこれらを見せられても、それほど驚くことはなかったに違いない。ミニマリズム、コンセプチュアリズムが生んだ一種の奇形的表現として受け止められただろう。吉村の真に驚くべき点はそんな作業を40年近く、63歳で死ぬまでずっと続けたことにある。70年代が終わって80年代に表現主義の季節が訪れると、多くの作家は呪縛が解けたように「表現」に戻っていったが、吉村は色こそ加えたものの時流に流されることなく、ただ機械的に写し取るだけという自らの手法に固執し続けた。なぜそんなことができたのか?
 ひとつには、おそらく彼が人生の大半を故郷の山口県ですごし、余計な情報に惑わされることが少なかったからだろう。もうひとつは、カタログに載っていた彼自身の言葉に示されている。


「僕は小さい頃から非常にあきらめが悪かった。しつこくこだわってしまう。僕はこうした人間の短所にこそ、すごい力があると思う」

芸術とは才能ではなく、こうしたある種の偏った性質に宿る。金網のドローイングも、新聞の模写も、「365日の自画像」も、個々の作品から受ける感動は実のところ「こんなバカなことに多大な労力をかけて」という平面的な感動にすぎないが、そこに何十年という垂直の時間軸が重ね合わされて、立体的で重量感を伴う感動を与えるのだ。最晩年、彼は花の絵を例によってマス目を埋めるように色鉛筆で塗っていたという。絶筆はコスモスの花の絵。画面の5分の4は花が咲き乱れているのに、右端の5分の1ほどがマス目ごと空白のまま残されている。持続していた生が突如中断される死を、これほど鮮明に示してくれる絶筆も少ない。


関連レビュー

吉村芳生 超絶技巧を超えて|飯沢耕太郎:artscapeレビュー

2018/12/19(水)(村田真)

artscapeレビュー /relation/e_00046999.json s 10151999

木下直之全集―近くても遠い場所へ―

会期:2018/12/07~2019/02/28

ギャラリーエークワッド[東京都]

日本の近代美術をまともに研究すればするほど道を踏み外しかねない。それは近代以前の日本には西洋的な「美術」は存在しなかったのに、幸か不幸か「美術らしきもの」が存在し、両者が強引に接ぎ木されることで歪みや矛盾が生じ、「つくりもの」「まがいもの」といった魅力的なマグマを吹き出すからではないか。だから東京藝大から公立美術館の学芸員を経て、東大の教授を務めるという美術の王道を歩んだ木下直之氏が、にもかかわらず、というよりそれゆえに「つくりもの」「まがいもの」の森に迷い込んだのも故なきことではないのだ。王道を行けばいつのまにか邪道にそれ、その邪道こそ実は王道だったりする迷宮世界。それが日本の近代美術なのかもしれない。

同展はこれまで木下氏が執筆してきた12冊の本を全集に見立て、「本物とにせもの」「作品とつくりもの」「都市とモニュメント」「ヌードとはだか」などに分類し、本物、ニセモノ、パネル、映像などで紹介している。日用品を組み合わせて人の姿に似せたつくりものをはじめ、西郷さんや小便小僧の人形、銅像の絵葉書、男性裸体彫刻の股間コレクション、お城のミニチュア、木下氏が高校時代に描いた抽象画まで、美術と美術でないものの境界線上にひしめくアイテムばかり。展覧会全体が見世物仕立てになっている。近年マンガやアニメ、建築やデザインなどのマージナルな分野の展覧会は盛んに行なわれるようになったが、こうした「つくりもの」「まがいもの」はそれこそ「美術」概念を破壊しかねないせいか、美術館では扱わないらしい。ならば同展をこのまま常設展示してほしい。

2018/12/18(火)(村田真)

霧の抵抗 中谷芙二子

会期:2018/10/27~2019/01/20

水戸芸術館[茨城県]

1970年の大阪万博ペプシ館で初めて発表して以来、中谷は人工的に霧を発生させる「霧の彫刻」を世界各地で80回以上制作してきた。その「霧の彫刻」を中心とした展示。万博のペプシ館での映像を見ると、霧がパビリオンを包み込むように広がり、知らない人が見たらまるでボヤみたい。ところが森のなかで霧を発生させた記録映像を見ると、自然の霧となんら変わりなく見える。一方、芸術館広場の巨石を吊ったカスケード(人工滝)で発生させた霧は、子供たちが喜ぶ遊びの道具になっていた。時と場所によってこれほど印象が異なり、役割が変わる作品も少ないだろう。

館内で行われた霧のインスタレーション《フーガ》は、かなりシビアな体験だった。細長いギャラリーの一番奥の部屋で30分ごとに上演(ていうのか?)されるのだが、部屋に通されて紗で仕切られた向こう側にズラリとノズルが並ぶのを見て、ちょっと不安になる。あのノズルから気体が噴出するのか……。1年前のメゾンエルメスでの個展のときも不謹慎ながら感じたことだが、今回は部屋が四角くて狭いうえ密室性が高く、壁も床もグレーに統一されているため余計ナチスのガス室を連想させるのだ。背後のドアが閉じられ、水蒸気が噴き出す瞬間、緊張してしまったのはぼくだけだろうか。でもこのインスタレーションはただ霧を出すだけでなく、鳥の映像を向こう側から霧の上に投影することで、あたかも雲の上に昇る朝日のなかを鳥たちが飛び回っているように見せるポジティブな仕掛けがあるのだ。もちろんこれが天国に昇る途上の光景だとは思いたくないが。

2018/12/09(村田真)

artscapeレビュー /relation/e_00046351.json s 10151492

中村ケンゴ「モダン・ラヴァーズ」「JAPANS」

会期:2018/12/04~2018/12/22

メグミオギタギャラリー[東京都]

ひとつの画廊で2人が個展を開くのはよくあるが、ひとつの画廊で1人のアーティストが同時に2つの個展を開くのは初めて聞いた。「モダン・ラヴァーズ」と「JAPANS」の2本で、どちらも「日本」がテーマ。「モダン・ラヴァーズ」とは近代的な愛人ではなく、近代を愛する人、つまり西洋近代に恋いこがれた日本人を指す。《日本アルプス(近代山脈)》は、7.5×546センチという極端に横長の画面にさまざまな山岳風景を稜線がつながるように描いたもの。タイトルにだまされて、洋画家が日本の山を描いた絵を連ねたものかと思ったら、実は西洋人による山の風景画をトレースしたものだという。そもそも「日本アルプス」の名称自体ヨーロッパのパクリだし。《お花畑》は3枚の縦長パネル(畳サイズ)にさまざまな花をぎっしり描き込み、上4分の1ほどを余白に残した作品。一見日本画的な印象があるものの、ゴッホやルドンらの花の絵をコラージュしている。どちらも元絵は西洋絵画なのに日本的な香りがするのは、支持体が絵巻や襖絵といった伝統的な日本絵画を彷彿させる形式である上、和紙に岩絵具や顔料など日本画材を使って油絵をなぞっているからだ。

「JAPANS」のほうは「日本のかたち」を日本画を通して探る試み。2点の正方形の画面のうち1点は《スピーチ・バルーン・イン・ザ・ヒノマル》。大きな赤い円のなかに白抜きのフキダシがびっしり描かれたもので、これはクール・ジャパンのシンボルマークにぴったりではないか! もう1点には100個の歪んだ赤い楕円が描かれていて、なんだろうと思ったら、風になびく日の丸の旗の赤い円を採取したものだそうだ。タイトルは《風に吹かれて》。ボブ・ディランのプロテストソングと日本の愛国心のシンボルを重ねている。ほかにも、日本列島の島々とかつて植民地化した東アジアの地域をコラージュした《キュビスム(東アジア)》、南鳥島、沖ノ鳥島、与那国島、択捉島という日本の東西南北端の島を描いた4点組《within borders》など、日本の地理と歴史が学べるタメになる展覧会だ(笑)。中村は日本画を伝統的な日本の美を表わすためのメディウムではなく、現代日本のシビアな現実を表現するための最適な手段として捉え直そうとしている。日本画ゆえの限界と可能性をみずから示した個展。

2018/12/07(村田真)

青木野枝展 ふりそそぐもの/赤

会期:2018/11/15~2018/12/09

ギャラリー21yo-j[東京都]

厚さ1センチほどの鉄板を直径30-60センチほど、幅5センチくらい、大きいほうの輪の内径が小さいほうの輪の外径になるように2つの円形に溶断し、その2つを直角に溶接する。それをひとつの単位とし、床から2本上につないでいき、5メートル近くある天井いっぱいに8の字を描くように設置した。と文章で説明してもわかりにくいと思うが、それは文章がヘタなだけで、作品がそんなに複雑なかたちをしているわけではない。簡単にいえば、笠がつながった巨大なキノコが2本立ってる感じ。いや睡蓮の茎と葉を水底から見上げた感じかな。円形のところどころにリズムをつけるように、ステンドグラス用の赤いガラスが入っているのが特徴的だ。

驚くのは、この大きな鉄の構築物が、さほど大きいとはいえないこの展示空間いっぱいに収まっていること。いったいどうやって入れたのか。作品が大きすぎて引きがないので、いつも閉じている庭側の扉を開放して外から見られるようにしてあるが、この開口部よりずっと大きいので、いくつかパーツに分けて持ち込み、この場で組み立てたのは間違いない。とはいえ、天井附近で大きく広がっているため重心が上のほうに偏っている鉄の構築物を、だれがどうやって持ち上げ、どうやって溶接したのか、考えるだけで途方に暮れそうだ。そんな苦労を感じさせず軽快に見せてしまうところが、青木野枝らしい。

2018/12/06(村田真)