artscapeレビュー
村田真のレビュー/プレビュー
インポッシブル・アーキテクチャー もうひとつの建築史
会期:2019/02/02~2019/03/24
埼玉県立近代美術館[埼玉県]
タトリンの第3インターナショナル記念塔から、ザハ・ハディドの新国立競技場案まで、ここ100年ほどのあいだに設計または立案しながら建てられなかった、いわゆる「アンビルト」の建築プランばかりを集めたもの。こういう展覧会って、なぜかふつうの建築展以上にワクワクしてしまう。それはおそらく、建てられなかった理由がとんでもなくデカかったり、実現不可能なかたちをしていたり、とてつもなく金がかかったり、とにかく尋常ではない刺激的なプランが多いからだ。もうひとつ、同じことかもしれないが、通常の建築展なら建てられたものがどこかにあり、見ようと思えば見に行けるのに、アンビルト建築は現物を見ることができないゆえに、かえって見ることの欲望が煽られるからではないだろうか。最新のアンビルト建築であるザハの新国立競技場案が、早くもノスタルジーを感じさせるのはそのせいだろうか。
ひと口にアンビルト建築といっても、①設計コンペに落選した本気のプラン、②仕事のない若いころにトレーニングを兼ねて引いた遊び半分のドローイング、③最初から実現を目指さずそれ自体を作品として描いたスケッチや版画など、さまざまある。落選案では、前川國男の「東京帝室博物館建築設計図案懸賞応募案」(1931)と、村田豊の「ポンピドゥー・センター競技設計案」(1971)が興味深い。どちらも初めて見るもので、村田豊などは同じ苗字なのに名前すら知らなかった。前者はバウハウス校舎とサヴォア邸を合わせたようなモダン建築案で、「日本趣味を基調とする東洋式」という条件から外れていたため落選。前川は戦後になって師のル・コルビュジエ設計の国立西洋美術館を補佐したのを皮切りに、同じ上野公園内に東京文化会館、東京都美術館、西洋美術館新館などを建てて一矢報いた。後者の村田によるポンピドゥー・センター案は、8層の本体を4本の巨大な柱で吊るすという大胆なアイディア。村田もコルビュジエに師事したことがあり、床下の空間がピロティの役割を果たしている。残念ながら佳作になったが、これが実現していたらピアノ+ロジャースの建物よりさらにスキャンダルになっていたかもしれない。
②の若いころのトレーニングでは、ハンス・ホラインの「超高層建築」(1958)や、ダニエル・リベスキンドの「マイクロメガス:終末空間の建築」(1979)がある。ホラインのプランは、雑誌の誌面に大地から片腕を突き立てたかたちを鉛筆で描いたもので、やけくそ気味の非現実的な図だ。リベスキンドのドローイングは、ホラインのスケッチとは違って③の作品として描かれたものでもある。破壊された建築の断片を寄せ集めたような神経症的なドローイングで、いま見ればWTCが崩落する瞬間か、その倒壊現場を思わせないだろうか。どちらも近代建築への反発と、建築概念の根源的な問い直しの姿勢が感じられる。
③のそれ自体が作品としてつくられたプランでは、60年代の建築家集団アーキグラムやスーパースタジオの一連のプロジェクトが代表的。どちらも未来的な建築イメージや都市風景をコラージュしたもので、初めから雑誌媒体に載せることを目的とした批評性の強い作品だ。批評性の強い作品といえば、ザハの新国立競技場案の後に、オマケのように展示されていた会田誠と山口晃によるプランが笑えた。都庁舎の上に帝冠様式のごとく日本のお城を載せたり、日本橋をまたぐ高速道路の上に巨大な太鼓橋を渡したり、もはや批評を超えてギャグにまで昇りつめている。
最後に、ザハ・ハディドの新国立競技場案にも触れなければならない。これは①~③に属さない、コンペに当選しながら後でなんだかんだと難癖をつけられて廃案にされた希有な例だろう。この騒動からしばらくしてザハが亡くなったため、結果的に「アンビルトの女王」の名を高めることにもなった。もしザハ案が廃案にならなかったら、この展覧会も実現しなかったかもしれない。だが、展示を見て「おや?」と思ったのは、出品されていたのがビヨーンと縦に長い原案ではなく、前後を断ち切って沖縄の亀甲墓みたいに縮まった修正案のほうだったこと。どうせなら建築家が最初に望んだデザインを見たかったけど、実現の一歩手前まで行きながら政治的・経済的理由により廃案に追い込まれた「アンビルト事情」を重く見たようだ。ならば原案、修正案と順に提示して、日本ではこうして夢がつぶされていくという過程を見せてもよかったのでは。
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2019/02/05(火)(村田真)
ヒトラーvs.ピカソ 奪われた名画のゆくえ
ナチス・ドイツは美術に関して、おもに2つの蛮行を犯した。ひとつは、ルーヴル美術館をはじめとするヨーロッパ中の美術館や、裕福なユダヤ人コレクターから略奪同然に名画を集めたこと。もうひとつは、表現主義を中心とする前衛美術に「退廃芸術」の烙印を押して弾圧したことだ。この映画は、1930-40年代に行なわれたこれらナチスの暴力的な美術政策を、当時の映像を交えながら、略奪されたコレクターの子孫や歴史学者らの証言によって浮き彫りにしていくドキュメンタリー。
「名画略奪」と「退廃芸術」はどちらも、若いころ芸術家を目指しながら挫折したヒトラーの歪んだ「趣味」を反映したものといえる。彼はルーヴル美術館に飾られているような古典美術をこよなく愛する一方で、モダンアートはわけがわからないと目の敵にした。そのアナクロで短絡的な芸術観を白日の下にさらしたのが、アカデミックで陳腐な写実絵画を並べた「大ドイツ芸術展」であり、それとは対照的に「悪い見本」として同時開催された「退廃芸術展」だった。皮肉なことに「悪い見本」のほうは入場者が200万人を超え、ドイツ・オーストリア各都市を巡回するほど大衆の人気を集めたという。もし入場料を取っていれば莫大な収入を得られたはずなのに、価値のない作品だから無料にせざるをえなかった。
また、ナチスが摘発した退廃芸術を中立国スイスで売りさばいて軍資金に充てようとしたとき、タテマエとしては退廃芸術だから価値がないはずなのに、ホンネとしては軍資金を得たいために高く売りたいという自己矛盾に陥っている。しょせん無理がある政策だったのだ。さらに、その過程で、ヒトラーの片腕だったゲーリングが前衛美術品をくすねていたとか、ヒトラー専任の画商グルリットが千点を超える前衛作品を戦後70年近く隠し持っていたとか、謎めいたエピソードにこと欠かない。
略奪名画のほうはもっと悲惨だ。ナチスが奪った美術品はおよそ60万点といわれているが、要塞に隠していたラファエロをはじめとする名画が焼失したり、戦後ソ連軍がいち早く持ち帰って秘匿したり、さまざまな理由でいまだ10万点が行方不明とされている(ちなみに、日本の国立美術館5館の収蔵点数は合計しても5万点に満たない)。ユダヤ人の元所有者のなかには、ナチスに脅されて安く売ってしまったため戦後になっても返還されないケースや、なかには一家全員が虐殺されたため行く場所を失った名画もある。笑えるのは、ゲーリングが取得したフェルメール作品が真っ赤なニセモノだったこと。この作品を売ったオランダ人のメーヘレンは戦後ナチスに協力した罪に問われたが、法廷で自分が描いた贋作だと告白し、逆にナチスを手玉にとった男として英雄扱いされたという。欧米には美術作品を巡る推理小説が多いが、その多くがナチスの名画略奪や贋作をモチーフにしているのは、戦後70年以上たったいまでも多くの謎が解決していないからだろう。
映画のタイトルは「ヒトラーvsピカソ」だが、残念ながらピカソは言葉だけしか出てこない。だが、ここでピカソの名は、同時代芸術を弾圧したヒトラーに対し、古い芸術観に異議を申し立て、《ゲルニカ》に代表されるように巨悪と戦い、新たな芸術を創造し続けた20世紀美術の象徴として用いられているのだ。監督は、ヴェネツィア・ビエンナーレやイタリア国立21世紀美術館などのテレビドキュメンタリーの撮影・編集を手がけたクラウディオ・ポリ。これが初の映画監督作品という。
公式サイト:http://hitlervspicasso-movie.com/
2019/01/25(金)(村田真)
イケムラレイコ 土と星 Our Planet
会期:2019/01/18~2019/04/01
国立新美術館[東京都]
見ごたえのある個展だった。久しぶりに絵画を堪能したって感じ。イケムラレイコの名前と作品は、80年代にドイツの新表現主義の画家として初めて知った。当時はドイツで活躍する日本人の女性画家というだけでけっこう珍しく、しかも流行の新表現主義絵画だったので記憶に焼きついた。その後、何年かにいちど作品を目にする機会があったが、幽霊のような少女像を描いてみたり、薄塗りの幻想的な風景画だったり、テラコッタによる人物彫刻をつくったり、断片的に見る限り一貫性がなく、よくわからない作家としてやりすごしてきた。
今回初めて全体を通して見て、新表現主義が初期の過度的なスタイルに過ぎず、もっと大きなものを相手にしていることがわかった。拙い言い方だけど、たとえば同世代の辰野登恵子のように「絵画」と格闘してきたというより、絵画を通してなにかと格闘してきた、あるいは格闘を絵画にしてきたという印象を持った。なにと格闘してきたのかはわからないけれど、女ひとりで(という言い方はよくないが、以下70-80年代の話なので)日本を離れ、スペイン、スイス、ドイツと移り住み、画家として自立してきた経歴を見れば、すべてが格闘だったといえるかもしれない。
展示は、プロローグから「原風景」「少女」「戦い」「アマゾン」「炎」「コスミック・ランドスケープ」、そしてエピローグまで16室に分かれ、油彩画、ドローイング、彫刻、写真など約210点におよぶ。初期の「原風景」に、《マロヤ湖のスキーヤー》と題された雪舟の山水画に基づく表現主義的な絵画があって驚いた。これは海外在住の日本人画家が陥りがちな東西の折衷主義かと思うが、幸いなことに長続きしなかったようだ。ところが最後の「コスミック・ランドスケープ」で屏風絵のような大画面の山水画が再び現れるのだが、これを折衷主義と見る者はいないだろう。ここでは完璧にイケムラレイコの世界観が立ち現れているからだ。これが格闘の成果というものかもしれない。
「有機と無機」では、1990年ごろから始まるテラコッタ彫刻がまとめて並べられている。興味を惹かれたのは、初期のころは家の形状をしているものが多いのに、やがて柱または塔状を経て、少女をはじめとする人物彫刻に移行していくこと。もうひとつは、これらは陶彫なので中身がどれも空洞であることだ。空っぽというより、中になにかを入れるための器というべきか。3.11後の《うさぎ観音》は内部に人が入れるほどの大きな空洞になっている。つまり人物(うさぎ観音)であると同時に「家」でもあるのだ。
同展でもっとも違和感を覚えたのは「戦い」のコーナー。1980年から近作まで戦争(とくに海戦)を描いた絵画を集めたもので、表現主義的なタッチの《トロイアの女神》や、近作の《パシフィック・オーシャン》《パシフィック・レッド》などは絵としての美しさが勝っているが、《カミカゼ》と「マリーン」シリーズはプロパガンダとしての戦争画そのものではないか。次のコーナーの戦う女を描いた「アマゾン」の版画シリーズともども、イケムラの「格闘」を象徴するものかもしれない。
2019/01/24(木)(村田真)
未来を担う美術家たち 21st DOMANI・明日展
会期:2019/01/23~2019/03/03
国立新美術館[東京都]
文化庁新進芸術家海外研修制度の成果を発表する展覧会。今回はここ3、4年内に派遣されたアーティストを中心に、計10人の作品を展示。成果発表といっても、派遣先でつくった作品だけを見せるわけではなく、また「派遣前」「派遣後」に分けて「こんなに効果が表れました」みたいなあからさまな展示でもなく、近作・新作を個展形式で自由に見せている。作家にとっては国費を使ったことに対する務めであり、また、国立美術館で作品を見せられる特権でもあるだろう。逆に鑑賞者にとっては、こういう奴らに税金が使われたのかと確認する場でなければならない。派遣作家を選ぶほうも大変だ。
展示で目を引いたのは蓮沼昌宏。展示室に長大なテーブルを置き、14台のキノーラと呼ばれる簡易式ぺらぺらアニメを並べた。当日は中学生が団体で訪れていたので、テーブルは満席。みんな席を移動しつつ作品に見入る様子は理科の実験室のようで、現代美術展では見慣れない風景だった。村山悟郎の絵画と呼ぶにはあまりに逸脱した「織物絵画」も目を引いた。麻紐を放射状または鳥の羽根のように織った上に絵具を施した作品は、本人によれば、雪の結晶やアリの巣などに見られる自己組織的なプロセスやパターンを絵画で表現したものだそうだが、ぼくから見ると、未開民族の呪術的装飾を思わせると同時に、はるか絵画の原点に思いを馳せさせもする。
展示の後半は映像系の作品が多くてスルーしたが(^^;)、最後の三瀬夏之介の部屋で立ち止まってしまった。いや、立ち止まらざるをえないでしょ、展示室いっぱいに《日本の絵》と題された超大作が立ちはだかっていたんだから。もちろんデカすぎて通れないという意味ではない。具象・抽象を問わず多彩なイメージを織り込んだ紙を切り貼りし、支持体に貼らずに上から吊るし、どこからどこまでがひとつの作品かわからないようなインスタレーション形式で見せるなど、日本画の範疇を超えたより大きな「日本の絵」を目指していたからだ。これまでの9人の作品が吹っ飛ぶほどのインパクト。よく見ると、三瀬は文化庁の海外研修制度の恩恵は受けておらず(五島記念文化財団の助成を受けたことはある)、今回はゲスト作家という扱い。文化庁の研修制度が色あせて見えないか心配だ。
2019/01/24(木)(村田真)
岩熊力也「狩猟採集と絵画」
会期:2019/01/07~2019/01/19
コバヤシ画廊[東京都]
「狩猟採集と絵画」というタイトルを聞いて、先史時代の洞窟壁画を思い出したが、当たらずとも遠からず。木曽に住む岩熊は、「狩猟採集」と「絵画」という一見かけ離れた行為をきわめて強引に……ではなく、きわめて自然に結びつけてみせる。山で駆除された鹿やイノシシの不要部分を譲り受け、獣毛と竹で筆をつくり、獣皮からニカワをとり、ニカワと煤を練り合わせて墨にする。これを画材にして紙や獣骨に鹿やイノシシと木曽の風景を重ねた絵を描くのだ。その展示はどこか考古学資料が並ぶ博物館を思わせる。
「限りある自然資源を無駄にすることなく持続可能なライフスタイルを築いていくこと、そのなかに絵を描くという行為を位置付けること。そこから人類はなぜ絵を描くのかという問いの答えを模索すること」、それが「木曽ペインティング」だと岩熊は記す(木曽での展覧会のカタログ『けものみち』より)。木曽ペインティングはまたペインティングの「基礎」でもあるだろう。『けものみち』にはまた、「旧石器時代に洞窟内に動物たちの姿を生き生きと描き出した人類最初の画家たちは猟師でした。光のまったく届かない洞窟の奥に絵を描いた理由を私なりに推測すると、自ら殺めてしまった動物たちが再び生きて戻ってくることを願ったのではないかと思います」とも記されている。通説では洞窟壁画は狩猟の成功祈願のために描かれたとされるが、死んだ動物の蘇りのためにという説は、実際に動物たちの死に立ち会った者だからこその仮説だろう。いやあこれほど絵画の根源に遡って絵を描こうとする作家もいないだろう。
2019/01/19(土)(村田真)