artscapeレビュー
五十嵐太郎のレビュー/プレビュー
ロレーヌ国立バレエ団『トリプルビル』
会期:2018/09/21~2018/09/22
ロームシアター京都[京都府]
ロレーヌ国立バレエ団による『トリプルビル』をロームシアター京都で鑑賞した。横浜におけるKAATの公演は満員だったらしいが、席に空きが目立ったのに驚かされた。もっとも、コンテンポラリーダンスというよりも、バレエ好きの親子が結構いたのは興味深い。音楽はフィリップ・グラス、バッハ、デイヴィッド・チューダー。振付は実験的な新作のほか、フォーサイスの脱構築やポストモダンのカニングハムによるものという歴史的な演目を含む、3作品が並ぶというのに、あまりにもったいない。今年のサマーソニックのトリをつとめたBECKが、がらがらだったことも信じがたい風景だったが。ちなみに、フォーサイスの『STEPTEXT』は、同じ京都のホールで27年ぶりに上演される機会だった。
特に印象に残ったのは、冒頭のベンゴレア&シェニョー振付による新作『DEVOTED』である。ミニマル音楽を背景に、バレエのポワント(爪先立ち)を徹底的に反復することによって、そのジャンルを代表する身体の技術を異化させる。音楽とダンスがいずれも繰り返しを継続し、異様な迫力を帯びるのだが、(おそらく凡ミスもあったが)たぶん意図的に未完成のものを混入させることで、さらに緊張感を強めていた。あまりに全員がポワントを完璧に行なうよりも、ポーズが崩れるかもしれないぎりぎりの状態を一部組み込むことで、まさに目が離せなくなる。そうしたなかで日本人の大石紗基子が、キレキレの高速回転と安定感のある静止を見せることで、びしっと全体を引き締めていた。『STEPTEXT』は、断片的にバッハの音楽を切り刻みながら挿入するために、無音の状態が長く続き、これも緊張感をもたらす。音楽と運動が完全に一致しながら、ずっと流れるのは当たり前のダンスだが、両者をズラしたところにいまなお新鮮な感動を与えてくれる。
2018/09/22(土)(五十嵐太郎)
磯崎新《京都コンサートホール》
[京都府]
磯崎新が設計した《京都コンサートホール》(1995)を、元所員の京谷友也の案内で見学した。これまで機会に恵まれず、きちんとホールの内部やバックヤードを見学できたのは初めてだ。まだ自治体にお金がぎりぎり残っていた時代にしっかりとつくられた公共建築である。やはり、そうした意味でも建築は時代の産物である。したがって、オープンして20年以上が経つが、材料もあまり劣化していない。コンペでは、磯崎のほか、槇文彦、高松伸、石井和紘らのポストモダンを賑わせた建築家が参加し、1991年のヴェネツィア・ビエンナーレ建築展の日本館でも川崎清がコミッショナーとなって、各案が展示された注目のプロジェクトだった。当時は磯崎が『GA JAPAN』においてデミウルゴス論とビルディングタイプに関する連載を開始した時期に近いが、なるほど彼の案はホールの形式を深く考察しながら、新しい空間を提案することに成功している。
限られたヴォリュームの制限のなかで、大ホールと小ホールをいかに構成するかが課題のコンペだったが、磯崎の提案はユニークである。最初に出迎えるエントランスホールである、螺旋のスロープに囲まれた吹き抜けの上部に、未来的な照明がつくUFOのような小ホールをのせるという解決法だった。京谷によれば、柱が囲む多角形のエントランスホールは、磯崎が好むヴィラ・アドリアーナの「海の劇場」がモチーフではないかという。また敷地に対して、少し角度を振った大ホールは、音響性能にすぐれたいわゆるシューボックスの形式を基本としながらも、ステージを囲むようなワインヤード式の座席を上部に加え、空間に彩りを添えている。また中心軸からずらしたパイプオルガンや空間のフレームも、空間を和らげており、興味深い。
2018/09/18(火)(五十嵐太郎)
玉置順《トウフ》、FOBA《ORGAN I 》《ORGAN II 》
[京都府]
京都へのゼミ合宿の機会を利用し、1990年代半ばに登場した2つの建築を見学した。玉置順による画期的な住宅の《トウフ》と、FOBAの拠点である宇治の事務所《ORGAN I 》である。院生だった筆者が現代建築の批評を執筆するようになった時期の話題作だが、いずれも20年ほど前に現地を訪れたものの、なんのアポイントメントもとっていなかったので、外観を見学したのみで帰ったために、内部に入ったのは今回が初めてである。
《トウフ》は名称が示すように、矩形の白いヴォリュームが印象的な住宅であり、公園に面した絶好の立地だ。ただし、今風の開いた建築ではなく、公園があまりに目の前なので、むしろ絞られた開口のみが公園と対峙する。特徴は、外部の白いヴォリュームと内部をえぐったかのような空間のあいだに大きな懐をもち、そこに異なる色味をもったいくつかのサブの空間を設けていること。もともと高齢者向けの住宅として設計されており、確かに中心のワンルームを核にしたバリアフリーの建築でもある。また天井が高いことで、使い倒されても、変わらない空間の質を維持していた。当初から居住者は変わったが、壁の細い穴にぴったり入るマチスの画集も設計の一部らしく、これが残っていたことは興味深い。
FOBAの事務所《ORGAN I 》は、真横に同じデザイン・ボキャブラリーをもつ大きなビル《ORGAN Ⅱ 》が建ち、これも彼らの設計によるものだ。いずれもトラックなどの外装に使われる材料を転用したメタリックな表皮に包まれたチューブがランダムに成長し、あちこちで切断したような造形である。FOBAの事務所は3階建てだが、基本的に全体のヴォリュームを持ち上げ、周辺の環境や形式を意識しながら、開口のある切断面が設けられていた。もっとも、竣工後に周辺にマンションが増えたことで、眺めが変わってしまったところもなくはない。室内には大量の書籍が高く積まれており、事務所の歴史を感じさせる。見学の途中で梅林克が合流し、台湾のプロジェクトや最近の木造住宅シリーズなどの熱いトークに聞き入った。
2018/09/17(月)(五十嵐太郎)
《京都大学吉田寮》
[京都府]
存続をめぐって揺れ動いている京都大学の吉田寮の見学会に参加した。じつは筆者にとって初の訪問なのだが、東京大学の学部生のとき、2年間、駒場寮に住んでいた経験があるので、むしろ懐かしさを覚えるような感覚だった。もっとも、駒場寮は関東大震災後につくられた頑丈なRC造の3階建て、両側にS部屋とB部屋(おそらくSTUDYとBEDの略であり、かつては対で使われていた)が挟む中廊下であるのに対し、吉田寮はさらに古い築105年の木造2階建て、居室が南面する片廊下である。それゆえ、居住者が比較的簡単に増改築できるので、あちこちに独自の変形が起きていた。一方で駒場寮は、そうした増築は難しい代わりに、約24畳の各部屋の内部を、居住者が決めたルールによって、オープンなまま使ったり、ベニアで間仕切りを入れるなどしてカスタマイズしていた。なお、吉田寮は台風で中庭の大木が倒れたことで、屋根が部分的に壊れ、痛ましい姿だった。
筆者が駒場寮に暮らしていた1980年代半ばは、もう当初の定員を大幅に下回り、各部屋に2〜3人がいる状況で、部屋ごとに直接交渉してどこに住むかを決定していた。見学会での説明によれば、吉田寮はまず二段ベットがある大部屋に入り、そこでしばらく過ごしてから(適性がなければ、この段階で寮を出ていく)、どの部屋に暮らすかを決めるという。現在は留学生も多く、女性も住んでいるらしい。おそらく運用の方法は時代によって変化しているが、大学のキャンパス内に存在する有名な自治寮のシステムを詳細に比較すると興味深いだろう。駒場寮は大学によって廃寮扱いを受けてからも、長く存続し、ある時期からは電気の供給も絶たれた。そのときはまわりの建物からケーブルで電気を引っ張り、建物が解体してからも横にテント村を形成し、約半年は粘っていたが、約15年前に完全に撤退した。今後、吉田寮も大学から厳しい処置を受けると思われるが、駒場寮のときはあまり広がらなかった、まわりの支援の輪が拡大するかが存続の鍵になるだろう。
2018/09/16(日)(五十嵐太郎)
『カメラを止めるな!』
[全国]
話題になっている映画『カメラを止めるな!』をようやく鑑賞した。なるほど、低予算でも撮影できるジャンルはゾンビものだが、これもそのセオリーを正しく継承した傑作である。謎解きのストーリーではなく、ネタばれという類の作品ではないので、映画の構成を説明しておく。まず第一パートでは、C級と言ってもよいであろう下手なゾンビ映画を見せられる。その内容は、ゾンビ映画の撮影中に本物のゾンビが登場するというプロットだが、あきらかに不自然なシーンがところどころで発生し、なんとなく記憶に引っかかる。エンディングが流れたあと、第二パートが始まるのだが、それは第一パートのメイキングであり、不自然と思われたシーンが起きた原因が、じつは撮影現場のハプニングの連続であることが判明し、伏線がすべて回収され、笑いに転化してく。またカメラが上昇する俯瞰のショットだったエンディングは、ある種の感動的な場面として再定義される。
もっとも、この映画の最大のポイントは、「カメラを止めるな!」というタイトルが示すように、ゾンビ専門チャンネルのテレビで生中継されるワンカットの撮影であるという設定だ。それゆえ、現場で不具合が発生しても、絶対に撮影を中断できない。映画の映画である第一パートは、たとえ出来は悪くても、ワンカットゆえの独特の緊張感が持続する一方で、さらにメタ視点に立つ映画の映画の映画である第二パートでは、それがドタバタのコメディになっていく。何が起きてもカメラが執拗に追いかけること、そして全員の努力と協力によって作品を終了させることを通じて、映画的なカタルシスが醸成される。もとは舞台用の作品を翻案したという話だが、少なくとも「カメラを止めるな!」は映画というジャンルの本質に迫る面白さをもっている。なお、映画が終わったあと、エンドロールでは、第三パートというべき「本当の」メイキングが流れるのも楽しい。第二パートが偽のメイキングであり、もう一度、シーンの背景を異なる視点から再解釈できるからだ。
2018/09/15(土)(五十嵐太郎)