artscapeレビュー
五十嵐太郎のレビュー/プレビュー
MONSTER Exhibition 2018
会期:2018/07/21~2018/07/25
渋谷ヒカリエ8/COURT[東京都]
渋谷のヒカリエにて、毎年恒例の「MONSTER Exhibition 2018」のオープニングに足を運んだ。筆者は公募の審査を担当しているが、今年は62組の作品が展示され、クオリティが高い技巧派も増え、賑やかな会場だった。なお、ほかの公募に比べると、怪獣を共通テーマとしながらも、アートとデザインが混ざっていることが大きな特徴である。建築家を含むユニットも2組入選していた。怪獣の足跡にどのような風景を生まれるかを模型で表現したirikichi.と、都市の皮膜をコロコロ(粘着クリーナー)で採取する加治茉侑子/佐藤康平である。いずれもアイデアは面白いが、アート作品そのものが並ぶ会場に置かれると、展示物としてはやや弱かった。一次審査のとき、黄色マニアのイラストレーター、kyo→koはかなりインパクトをもっていたが、会場のドローイングは思いの外おとなしく(作家のほうが強烈)、もっと大きなサイズで徹底的に黄色を使っていれば、良かったかもしれない。
やはり建築だけでなく、写真やイラスト系では、実空間における展示で見ると、アート比べて弱さが生じてしまう。さて、一般を含む投票で決まる最優秀賞は、サイコロ・アートの高島亮三だった。これはコンセプチュアルな作品だが、大量の本物のサイコロを使うことで、モノとしての強度も兼ね備えていた。今回、会場を4周して、個人的に強い印象を受けたのが、おねしょの記憶を引きずる川平遼佑のパンツ絵画であり、作家の切実さを感じる作品だった。懇親会でも、各作家の講評は続いた。昨年は凄いドラゴン女子(中日ではなく、竜が大好き)に感心させられたが、今年は1年かけて国立の銭湯の軒先の生きた木の幹に直接、高さ7mの仏像を彫った仏師、西除暗の作品に驚く。今回の出品作ではなかったので、写真を見せてもらうと、仏像の頭の上から木が生えているようだ。美大卒でないが、あるとき仏像に開眼し、彫るようになったという。現代の円空である。こうした思わぬ逸材に出会えるのが、MONSTER Exhibitionの楽しみだ。
2018/07/20(金)(五十嵐太郎)
《真鶴出版2号店》
[神奈川県]
tomito architectureが設計した《真鶴出版2号店》が竣工したばかりだったことを思い出し、下田からの帰路の途中、立ち寄ることになった。駅から歩いて10分弱、通りから外れた狭いせと道の奥にあるすでに増改築されていた古い家屋をリノベーションしたものである。プログラムは宿とキオスク。2部屋だけの小さな宿だが(旧玄関から入ってすぐの部屋と、斜めの平面をうまく処理した2階の部屋)、逆に壁を外してスケルトン状にした1階中央の共有スペースは広い。空間の考え方としては、横浜で見学したばかりのtomito architecture による《CASACO》にも近い。レクチャーで模型やドローイングを見せてもらったときは、せと道からのシークエンスを重視していることや、周辺の植栽が目立つことなどが印象的だったが、やはり風景のなかに溶け込む建築である。したがって、最初は道に迷ったせいもあるが、外観はあまり手を加えておらず、すぐにどれが彼らの作品なのか、正直わからなかった。ちなみに、はす向かいには施主が暮らす住宅がある。
具体的な建築の介入としては、以下の通り。まず、通り側にあった入口を変えている。すなわち、塀を外し、壁面を後退させ(既存家屋の増改築で生じていた不自然な屈曲も修正)、魅力的な外構や土間をつくり、脇から入るようにしたこと。その際、近くにあった郵便局が2階部分を減築することから、ガラスをもらい、住宅としては大きな窓を設けた。新しいエントラスは、真鶴独自の風景を形成する石垣が面しており、傾斜する地形を受け止めるような関係性を創出している。これは建築をモニュメントとして突出させるのではなく、細やかな観察によって周辺環境と接続しつつ、訪問者を内部に引き込む空間改造と言えるだろう。住宅が環境に寄り添うようなリノベーションである。また真鶴はまちづくりのために定めた「美の条例」でも知られているが、これも参考にしたという。あらゆる細部に地域の物語がぎゅっと凝縮されているような建築である。
2018/07/14(土)(五十嵐太郎)
THE ROYAL EXPRESS、《下田プリンスホテル》、《ベイ・ステージ下田》
[静岡県]
お昼に横浜駅を出発する伊豆観光列車「THE ROYAL EXPRESS」に乗車した。水戸岡鋭治がデザインを担当し、浅いアーチの格天井は皇室用客車をイメージしたものだろう。最後尾の読書室、コンサートのための車両、厨房だけがある車両、子供の遊び場がある車両など、各種の空間をリニアに繋ぐのは、列車ならではの構成だ。もっとも、エクスプレスという名前をつけているが、実際は速く到着することはあまり重要ではなく、むしろ3時間かけて下田に向かい、昼食、眺望、演奏を楽しむのがクルーズ・トレインの醍醐味だ。
リノベーションの関係で、下田は十数年前に何度か通っていたが、保存運動していた「南豆製氷所」が解体されてからは初めての訪問である。製氷所跡は今風の飲食施設《ナンズ・ヴィレッジ》に変化していた。しかし、なまこ壁以外の地域アイデンティティとなりうる建築だから、やはり残せばよかったと思う。山中新太郎が手がけた蔵ギャラリーを備えた旧澤村邸の改修(観光交流施設)、ペリーロードなどを散策してから、《下田プリンスホテル》に泊まる。45年前の建築なので、客室のインテリアは現代風に改装されているが、エレベータのコアや海を望むレストランほか、円筒のヴォリュームをあちこちに散りばめ、曲線好きの黒川紀章らしさを十分堪能できる。全体としては、海に向かってV字に開き、雁行配置された全客室がすべてオーシャンビューの明快な構成をもつ。
翌朝はシーラカンスK&Hによる《ベイ・ステージ下田》を見学した。物産館、飲食施設、駐車場、史料編纂室、会議場、最上階の博物館などが複合した道の駅である。道路側からは浮遊するガラスのボリュームが船のように見え、反対側のファサードは縦のルーバーが目立ち、オープン・デッキから海を望む。なお、博物館の展示デザインは、空間の形式性が明快で興味深いが、情報量がやや少ないような印象を受けた。
2018/07/14(土)(五十嵐太郎)
ゴードン・マッタ=クラーク展
会期:2018/06/19~2018/09/17
東京国立近代美術館[東京都]
ゴードン・マッタ=クラークについては、切断系のいくつかの作品と、レストランを営む「フード」の活動は知っていたが、本展はほかに知らないプロジェクトがいろいろと紹介しており、ついに日本で彼の全貌に触れることができる貴重な内容だった。住居・空間・都市の空間と使い方に対するぎりぎりの挑戦は、建築では超えることが難しい一線を軽々と超えており、きわめて刺激的である。実際、彼は空き家に侵入して床や壁を切断したり、倉庫を改造したことによって、逮捕状が出たり、損害賠償請求が検討されている。美術館の依頼による仕事や許可を得たプロジェクトにしても、建築の場合、手すりなしで、人間が落下可能な穴をつくることは不可能である。とはいえ、リチャード・ウィルソン、川俣正、西野達、Chim↑Pom、L PACK、アトリエ・ワンの都市観察などを想起すれば、マッタ=クラークは現代アートのさまざまな活動を先駆けていたことがわかる。
彼は建築を学び、その教育を嫌い、父のロベルト・マッタと同じく、アートの道に進んだ。展覧会場の窓を破壊し、ときにはピーター・アイゼンマンを激怒させたこともある。が、やはりマッタ=クラークの作品はとても建築的だと感じさせる。円、球、円錐などのモチーフを組み合わせた切断の幾何学が美しいからだ。特に倉庫に切り込みを入れた「日の終わり」は、暗闇のなかに光を導き入れ、建築の破壊というよりも、空間の誕生を感じさせる。原広司の有孔体理論のように、閉ざされた箱に穴を開けること。その結果、光が差し込む(=開口の誕生)のは、建築の原初的な行為そのものではないだろうか。「日の終わり」は倉庫を聖なる教会に変容させたかのようだ。また内部の床や壁の切断も、垂直や水平方向に新しい空間の連続を生成している。彼の手法は、非建築的な行為と解釈されることが多いけれど、壊されゆく建築の内部に新しい建築をつくっているのだ。
2018/07/07(土)(五十嵐太郎)
庭劇団ペニノ「蛸入道 忘却ノ儀」
会期:2018/06/28~2018/07/01
森下スタジオ[東京都]
森下スタジオにて、庭劇団ペニノの『蛸入道 忘却ノ儀』を観劇する。『地獄谷温泉 無明ノ宿』の全体がぐるぐると回転する2階建ての温泉宿の舞台もすごかったが、今回も期待をまったく裏切らない大胆な空間が出迎える。もはや舞台上のセットと観客席の境界が曖昧になり、両者を含む全体が統一されたデザインだった。すなわち、鞘堂形式によって寺院風の空間を挿入しており、観客の座る場所の背後もお堂の内部という見立てなのである。また蛸風に変形した花頭窓が並ぶのだが、観客が手伝うことによって、その開閉を行なう。蛸にちなむことから、当然、イメージ・カラーは赤である。道内のインテリアや照明、また観客が寄進(?)して俳優が着用する衣装も同じ色だ。中央の檀が、2間×2間なのが、やや不自然だと思っていたら、なるほど、合計で8本の柱である。言うまでもなく、蛸の足の数から間取りが決定されたものだ。
おそらく、消防への配慮と熱の対策のために、天井の一部をあけていることを除けば、劇場ではなく、完全にお堂の内部である。細かく細部を観察すると、曲線的な肘木なども通常のものとは意匠が違っており、芸が細かい。ここで観客が目撃するのは、セリフや筋立てのあるドラマではない。「蛸教」とでもいうべき、擬似宗教の儀式に同席するような異様な体験に否応なく巻き込まれる。観客も手で音を出しながら、儀式の一部となるのだ。同じ経文を反復しながら、音楽や身体の動きが変わることによって、差異をうみだし、やがて熱が堂内に広がり、本当に温度が上昇していく。実際、仏教の声明やキリスト教の聖歌など、宗教は音楽性を帯びていくのだが、それを追体験するような場だった。これを限りなくリアルなものとするために、拡大された舞台美術が、劇場の空間を書き換えている。なお、個人的に興味深いのは、奥に聖なる場があるのではなく、天理教の甘露台のように、信者が中心を囲む形式が採用されていることだった。
2018/07/01(日)(五十嵐太郎)