artscapeレビュー
五十嵐太郎のレビュー/プレビュー
新海誠展「ほしのこえ」から「君の名は。」まで
会期:2017/11/11~2017/12/18
国立新美術館[東京都]
国立新美術館に到着したら、チケット売り場は長蛇の列だった。新海誠展だけではなく、同時開催の安藤忠雄展がさらに会場を混雑させていたせいもある。展覧会の背骨としては、彼の名前が知られるようになった劇場デビュー作の『ほしのこえ』(2002)から大ヒットとなった最新作の『君の名は。』(2016)まで、各章で主要作を取り上げ、その絵コンテ、ロケハンの資料とそれを参考にしてつくられたシーンの比較、音楽、雨など細部のこだわり、使用機材の変化、背景や美術の設定などを紹介している。これに加え、別章では、CMや短編など、ほかの作品、海外における新海作品の波及、そして彼に影響を与えた本などを取り上げていた。興味深いのは、柄谷行人の『日本近代文学の起源』(1980)を挙げていたこと。新海は大学の講義で読んだらしいが、自明と思っていた人間の「内面」や「風景」が発見されたことに驚いたという。意外なように思われるが、個人と風景の直結は、彼の作品におけるセカイ系的な特徴と関連して考えられるだろう。
新海誠の表現と制作手法を見ながら改めて気づかされたのは、ピクサー展でも紹介されていたような、フルCGによって彫刻を動かすアメリカのアニメと大きく違うこと。すなわち、一部の作画では3DのCGを導入しているとはいえ、ときには40に及ぶレイヤーを重ねた動く平面絵画としての密度の高さである。そして浪漫的な風景画としての圧倒的な美しさだ。日本の地方の風景を描きながら、ハドソン・リバー派のような崇高性をかもし出す。ただ、注目すべきは、電柱や電線の表現だろう。これらは一般的に醜い景観の代表として政治家がよく槍玉にあげるものだが、むしろ彼らが好むクール・ジャパンの風景表現においては重要な景観要素となっている。これは庵野秀明のアニメや映画においても同様だ。おそらく海外からは、電柱こそが日本で見たい風景と思われているのではないか。
2017/11/24(金)(五十嵐太郎)
木村松本建築設計事務所《house A / shop B》/小松一平《あやめ池の家》/畑友洋《舞多聞の家》
[京都府、奈良県、兵庫県]
日本建築設計学会では、若い世代に希望と勇気を与える賞を目指して、2年に1度、公募によって学会賞を決定する。2016年の第1回は、島田陽が設計した石切の住居が選ばれた。特徴的なのは、東日本と西日本からそれぞれ2名の選考委員が用意され、自分が居住しないエリアの作品の現地審査を行なうことだ。すなわち、筆者の場合は、普段あまり会わない西日本の建築家の作品を見学する。そこで11月12日に関西でまとめて3つの住宅をまわった。木村松本建築設計事務所の《house A / shop B》は、いかにも京都らしい間口3.8m×奥行き14m弱の細長い敷地である。が、さらにそれを身廊と側廊(片側のみ)のように細分化し、5mの天井高の非住宅的なプロポーションの空間を生む。これは木造軸組とラーメン構造の組み合わせから導く形式だという。プログラムは下部の道路側が金物屋、奥がカフェ、上部が住宅であり、京都の現代的な町屋を提案している。
続いて訪れた小松一平の《あやめ池の家》は、奈良・西大寺のオールド・ニュータウンであり、実家の建替えだった。U-30展に彼が出品したときは、傾斜地の擁壁を崩して建築化するアイデアが印象的だったが、現地ではスラブを積層し、フロアごとに斜めの方角を切り替えながら、大胆に開放しつつ眺望を楽しむ空間だ。また住宅地においてまわりの家の視線も巧みにかわす。最後は神戸で、ピカピカの真新しいニュータウンに建つ畑友洋による《舞多聞の家》を見学した。傾斜地に建ち、道路側は窓なしだが、下の森林に向かって全面ガラスの直方体が飛び込む。周囲の建売住宅群が嘘のような自然を享受する家である。室内はあちこちにハンモックなども吊る。前回の設計学会賞の審査で見学した彼の《元斜面の家》が依頼のきっかけだったらしい。いずれも若手建築家による意欲的な住宅作品であり、それぞれの場所性を巧みに読み込み、空間化していることに好感をもった。
木村松本建築設計事務所《house A / shop B》
小松一平《あやめ池の家》
畑友洋《舞多聞の家》
2017/11/12(日)(五十嵐太郎)
内藤廣《富山県美術館》
富山県美術館[富山県]
2017年度のグッドデザイン賞において建築ユニット長を担当し、審査に携わったのだが、受賞展で審査レビューを行なったとき、地方の建築ががんばっていることに気づかされた。今回、ベスト100に入った建築7作品は、陸前高田、福山、太田、奈良、天理、熊本の三角港など、すべて東京以外であり、しかも駅前が多かったからである。これは逆に言うと、東京から面白い建築があまり出ていないことを意味する。トークの4日後に《富山県美術館》を訪れ、改めて地方の時代を痛感した。これは内藤廣の設計だが、道路側のファサードは大きなガラスの開口があり、一見、彼らしくないデザインのように思われる。だが、川や運河環水公園に隣接する場所のポテンシャルを生かしていること、富山の産業に縁が深いアルミニウムや杉材などを活用したテクスチャーのモノ感、土を盛るなどランドスケープ的な外構のデザインなどにやはり内藤の個性が感じられる。
まず最初に先行オープンし、多くの人が訪れたというオノマトペの屋上に登ってみた。ここは無料ゾーンだが、佐藤卓がデザインしたユニークな遊具群は本当に集客力がある。3階に降りると、レストランには行列ができており、ここでランチを食べようというもくろみはかなわなかった。空間の特徴としては、外部から複数のアクセスを設けていること、展示室の周囲を自由に歩けること、視線が貫通し、眺望を得られる廊下の存在などによって、立体的な《金沢21世紀美術館》のようにも思えて興味深い。いずれも高い集客を誇る美術館だが、エレベータ、エスカレータ、階段、そして屋外階段などのルートから屋上庭園に誘う富山の仕掛けはお見事である。なお、常設展示は、アートとデザインをテーマに掲げるように、椅子やポスターの名作コレクションを明るい展示室に配する一方、富山生まれの瀧口修造コレクションを閉じた箱に入れることで、メリハリを効かせている。
2017/11/09(木)(五十嵐太郎)
死なない命/コンニチハ技術トシテノ美術/野生展:飼いならされない感覚と思考
死なない命(金沢21世紀美術館、2017/07/22~2018/01/08)
コンニチハ技術トシテノ美術(せんだいメディアテーク、2017/11/03~2017/12/24)
野生展:飼いならされない感覚と思考(21_21 DESIGN SIGHT、2017/10/20~2018/02/04)
自然と技術の関係について考えさせられる展覧会がいくつか開催されている。「死なない命」展は、展示物だけでは全体を把握するのが困難だったが、学芸員の高橋洋介氏の案内で見たおかげで理解が深まった。トップのやくしまるえつこは、なんちゃってサイエンス・アートではなく、ガチで音楽を記憶するメディアとしての遺伝子に挑戦している。写真家のエドワード・スタイケンは、植物の品種改良にのめり込み、これをテーマにしてMoMAで展覧会まで開催したという。ほかにもBCLによる遺伝子組み替えのカーネーション、川井昭夫による彫刻としての植物などがあり、攻めた企画である。これで思い出したのが、石上純也によるヴェネツィア・ビエンナーレ国際建築展2008の日本館における温室のプロジェクトにおいて、彼のヴィジョンを本当の意味で完成させるには、現存する植物では不可能で、植物も新しく創造する必要があったことだ。究極のアートである。
ユニークな会場構成となった「コン二チハ技術トシテノ美術」展は、興味深い作家を選び、手の技に基づく生きる術としてのアートを掲げている。例えば、修復の技術を独自に改変させた青野文昭は、極小の作品を新規に増やし、貫禄のある彫刻群のインスタレーションをつくり出す。また井上亜美は狩猟をテーマとし、門馬美喜は「相馬 野馬懸け」をモチーフにした神々しい馬を描く。「死なない命」展のようなハイテクではないが、プリミティブな技術による人と自然、もしくはモノの関係をダイナミックにとらえている。中沢新一がディレクターをつとめる「野生」展も、おなじみの南方熊楠や縄文を紹介しつつ、「飼いならされない感覚と思考」のサブタイトルをもつ(なお、英語タイトルに含まれる「TAME」の語は、あいちトリエンナーレ2019と共通する)。ただし、全体的なデザインがおしゃれ過ぎるのが気になった。これでは商品として消費されるのではないかと。
川井昭夫(死なない命)
青野文昭(コンニチハ技術トシテノ美術)
「野生展」会場風景
2017/11/09(木)(五十嵐太郎)
ウォーターフロント・シティ横浜 みなとみらいの誕生
会期:2017/10/07~2018/01/08
横浜都市発展記念館[神奈川県]
初めてみなとみらい21地区のエリアに足を踏み入れたのは、まだ筆者が学部生だった1989年の横浜博覧会である。いまから振り返ると、丹下健三による横浜美術館などを除くと、博覧会では仮設の建築群が並び、まだほとんど何もない土地だった。その後、1993年に横浜ランドマークタワーが登場し(あべのハルカスに抜かれるまで日本一位の超高層だった)、2004年にはみなとみらい線が開通し、内藤廣、早川邦彦、伊東豊雄らが駅のデザインに関わっていた。「みなとみらいの誕生」展は、近代の歴史(埋め立てや造船所の移転)や計画の経緯を通覧できる企画だが、このように新興都市の近過去をたどっているだけに、記憶に照らし合わせながら鑑賞することができる。それにしても、いまでこそひらがなの地名は増えたが、1981年にこの名前に決まったのは早い。ましてや、「みらい」という言葉まで使っており、横浜の都市計画の実験場だったと言える。
なかでもいくつかの計画図が目を引いた。ひとつは、1960年代に浅田孝が関わった頃に描かれた広場的な遊歩道を挟む中規模の建築群である。これはヒューマンなスケールをもち、ヨーロッパの都市的な印象を受けた。そして1980年代に大高正人は海辺の輪郭に柔らかい曲線を導入し、囲み型の街区プラン(一部は高層)を提案している。中層の建築群による囲み型は、幕張ベイタウンを想起させるだろう。現在、みなとみらい21地区は、高層のオフィスやホテル、そしてタワーマンションが林立し、ショッピング・モール的な商業空間の風景が出現している。つまり、想定されなかった未来が実現した。さらに子どもの増加から学校が建設され、1万人を収容できる音楽アリーナや2,000人規模のライブハウス型のホールも2020年にオープンする予定だ。既存のクラシック音楽のための横浜みなとみらいホールとあわせると、ちょっとした音楽の街となり、これも予期しなかった未来だろう。
2017/11/07(火)(五十嵐太郎)