artscapeレビュー
福住廉のレビュー/プレビュー
没後100年 宮川香山
会期:2016/02/24~2016/04/17
サントリー美術館[東京都]
宮川香山(1842-1916)は江戸末期に生まれ、明治から大正にかけて活躍した陶芸家。陶器の表面に写実的な浮彫を装飾する「高浮彫」(たかうきぼり)という技法によって国内外から高く評価された。本展は、没後100年を記念して香山芸術の全容を紹介したもの。陶器や磁器など、併せて150点が展示された。
「高浮彫」の醍醐味は何より大胆かつ緻密な造形性である。花瓶の表面を蟹が這う《高取釉高浮彫蟹花瓶》(1916)や花瓶の外周を囲んだ桜の樹に鳩がとまる《高浮彫桜ニ群鳩大花瓶》(19世紀後期)など、思わず息を呑む造形ばかり。割れや縮みの恐れがあるにもかかわらず、いったいどうやって焼き締めたのか謎が深まるのである。
「描く」のではなく「焼く」こと。少なくとも陶器に関して、香山は動植物のイメージを器の表面に描くのではなく、器とそれらを一体化させた造形として焼くことで、その装飾世界を追究した。いや、より正確に言えば、香山の真骨頂は器と装飾の主従関係を転倒させるところにあった。
通常、焼き物の装飾は器というフォルムを彩るために施されており、いわばフォルムに従属している。だが宮川香山による造形物はいずれも装飾でありながら、それらは時として器のフォルムから大きく逸脱し、場合によってはフォルムを破壊することさえある。《高浮彫親子熊花瓶》(19世紀後期)は紅葉や枯れ草を描いた花瓶だが、表面の真ん中が大きく裂けており、その中に冬眠の準備に勤しむ親子の熊がいる。香山は器のフォルムをあえて破ることで、山中の穴蔵を表現してみせたのである。ここにおいて装飾は、もはや器という主人から解放され、むしろ器を従える主人の風格さえ漂っている。
そのもっとも典型的な現われが、《高浮彫長命茸採取大花瓶》(19世紀後期)である。断崖絶壁に生えた茸を命綱を頼りにしながら採集する光景を主題にしているが、その断崖絶壁の迫力を増したいがゆえに、極端に縦長の花瓶が選ばれているように思えてならない。おそらく香山にとって器という支持体は装飾的世界を根底から支える前提条件でありながら、表現を極限化させていくにしたがい、やがて装飾的世界を構成する一部に反転していったのではあるまいか。今日の私たちにとって宮川香山から学ぶべきものは、再現不可能とも言われる明治の超絶技巧に舌を巻くことだけではない。それは、器と装飾という二元論を結果的に止揚してしまうほど強力な表現の欲動にほかならない。
2016/03/24(木)(福住廉)
アート・アーカイヴ資料展XIII「東京ビエンナーレ’70再び」
会期:2016/02/22~2016/03/25
慶應義塾大学アート・スペース[東京都]
中原佑介(1931-2011)は、京都大学の湯川秀樹のもとで理論物理学を学んでいたが、在学中の1955年、評論「創造のための批評」が『美術批評』誌の評論募集で一席に選出されたことを契機に上京、本格的に美術評論家としての活動を始めた。その出発点からちょうど15年後の1970年、中原は東京都美術館を会場に「第10回日本国際美術展 人間と物質」展を企画した。近年大きな注目を集めているこの伝説的な展覧会の全容を、残された資料や関係者へのインタビューなどをとおして解明した調査研究の成果を発表したのが、本展である。
会場に展示されたのは、したがって「人間と物質」展に出品された作品そのものではなく、それらの作品を設置する作業を記録した写真や会場内の空間を再現した縮小模型、そして展覧会の図録など、おびただしい資料群。調査研究の焦点が、とりわけ誰の作品がどこに設置されていたのかという点を正確に把握する側面に当てられていたせいか、縮小模型と記録写真を併せて見ると、未見の展覧会を垣間見るかのようなイリュージョンを楽しむことができた。会場で配布された50頁に及ぶ小冊子も、資料的価値が高い。
注目したのは、この展覧会のチラシに掲載された短い言葉。なぜなら、それらはこの伝説的な展覧会の核心をみごとに凝縮しているように考えられるからだ。中原自身によるのか、あるいは事務局によるのか、次のような一文がある。
「出来合いの作品を並べる時代は過ぎました。世界美術の先端をゆく参加作家のうち3分の2が東京にやってきて、ロープをまき、布を敷きつめ、灰を盛り上げ、水を汲む。この大いなるナンセンスは、美術よりも音楽よりも文学よりもはるかにおおらかで、しかもそれらすべてを包み込んだ今日の芸術といっていいでしょう」。
事実、クリストは1階の彫刻室の全体を175枚の塗装用布で梱包し、ライナー・ルッテンベルクは灰を盛り上げた2つの山を250本の細い鋼鉄の棒でつないだ。重要なのは、中原がそのようなナンセンスを今日の芸術として、言い換えれば、最先端の現代美術として位置づけている点である。が、それだけではない。そのチラシには以下のような一文が続く。
「書物を読む人捨てた人、テレビを見る人飽きた人は、ためらわずに上野に行ってみてください。美術がこれほど身近に感じられることに、驚かずにはいられないでしょう」。
意外なことに、中原にとってナンセンスは美術に縁のない庶民でもリアリティーを感じることができるような類の美術だった。こうした企画者の見方が、鑑賞者の見方と必ずしも照応していなかったことは、今日よく知られている。本展では特に触れられていなかったが、「人間と物質」展の開催当時の評判は必ずしも芳しいものではなかった。中原はその批判的な言説をみずから分析している(『中原佑介批評選集第五巻「人間と物質」展の射程』現代企画室+BankART出版、2011)。「この新しい美術家たちが現実に対して鋭い発言を投げかけようと意図しながら、あまりにも観念的な世界に自ら閉じこもり、観衆にむしろ背を向けた姿勢を示しているのではないか」(小川正隆)、「身動きできずに、立ち尽くした。極北化願望のここまでの徹底。徹底の果ての、あやうく狂気。これほど、玩具製造精神に似て、しかもこれほどそれに遠いものがあるであろうか」(宗左近)、「彼らの意識にあるのは連帯なのであろうが、その秘儀的なジェスチュアからはおおらかな精神の広場を望むべくもない」(野村太郎)などなど。このような言説を手がかりにすれば、中原の希望的観測はおおむね外れたと言ってよい。
だが、そのような結果は火を見るより明らかだったはずだ。考えたいのは、なぜ中原は対話不在という謗りを免れないことがわかりきっていたナンセンスを、あえて庶民のリアリティーと直結させたプレゼンテーションを企てたのかという点にある。仮にそれが方便だったとしても、中原の真意はどこにあったのだろうか。
ひとつには、ラディカリズムを極限化させた60年代の反芸術への反省があったのかもしれない。それは、日常的な事物や廃物を素材として利用した点では庶民のリアリティーと共振したと言えるが、とりわけ反芸術パフォーマンスのハプニングや儀式は、生身の肉体を大々的に露出させたがゆえに隘路に陥り、ほどなくして自滅せざるをえなかった。もしかしたら中原は、そのようなラディカリズムの重心をあえて物質に傾けることで、それを転位させようとしたのではなかったか。
「人間と物質」展が、反芸術に代表される60年代の美術ともの派に代表される70年代の美術の結節点として考えられることは疑いない。だが、そこでいったいどのような価値観の転換があったのか、その内実については依然としてわからないことが多い。必要なのは、「人間」と「物質」のあいだの「精神」を解明することである。
2016/03/22(火)(福住廉)
美術は語られる─評論家・中原佑介の眼─
会期:2016/02/11~2016/04/10
DIC川村記念美術館[千葉県]
美術評論家の眼から60~70年代の戦後美術を振り返った展覧会。美術評論家の中原佑介(1931-2011)が雑誌や書籍、展覧会の図録、リーフレットなどに書いた美術批評と、中原が私蔵していた作品に同館のコレクションをあわせた約40点とが、併せて展示された。比較的小規模な展示とはいえ、良質の企画展である。
展示されたのは、中原が評価していた池田龍雄、オノサト・トシノブ、河原温、高松次郎、山口勝弘、李禹煥らによる作品。クレス・オルデンバーグやピエロ・マンゾーニ、クリストら欧米諸国のアーティストによる作品もないわけではないが、大半は国内の美術家であるため、おのずと日本の戦後美術史を部分的になぞるような経験を得ることができる。美術批評が作品と同伴していた時代のリアリティばかりか、双方が協働することで歴史が構築されてきた過程を目の当たりにするのだ。
しかし本展の最大の見どころは、そのような歴史的な珠玉の名品ではない。それはコンスタンティン・ブランクーシの全作品を形態的かつ系統的に分類して図表化した《ブランクーシ研究メモ》(1977頃)である。なぜなら、それは本展のなかでもっとも明瞭かつ濃厚に中原佑介の「眼」を体現していたように思われるからだ。
縦軸で時系列、横軸で作品の種別を表わしており、双方が交錯する升目に作品のイメージがすべて手書きで描きこまれている。例えば《接吻》や《空間の鳥》、《無限柱》といったブランクーシの代表的なシリーズが、いつ、どのような流れで制作されたのか、一目で理解できるようになっている。よく見ると、随所に原稿用紙の升目が透けて見えるから、原稿の裏紙を再利用したのかもしれない。
通常、このようなメモは参考資料として二次的に取り扱われることが多い。美術批評にとってのエルゴンがテキストであるとすれば、それらを作成するために用いられたメモ類はパレルゴンである。事実、この《ブランクーシ研究メモ》は雑誌に部分的に使用されたものの、その後刊行された単行本『ブランクーシ』(美術出版社、1986)には掲載されなかった。絵画にとっての額縁がそうであるように、美術批評にとってのメモは副次的な表象にすぎないというわけだ。
だが中原によって丁寧に描かれた図表には、エルゴンとパレルゴンの関係性を相対化するほどの大きな魅力が備わっているように思えてならない。緻密な筆致からブランクーシへ注がれた深い敬愛の情を読み取れないわけではないが、それ以上に伝わってくるのは、一枚の紙片に凝縮した中原の批評的な関心そのものである。言い換えれば、中原佑介の批評的なまなざしが、書物に連ねられた文字の羅列とは別のかたちで、紙という物質に定着しているように見えるのだ。それはメモであることに変わりはないが、もはやテキストに奉仕する義務から解放されているようだ。ちょうど今和次郎による考現学的なイラストレーションが、テキストのための図表というより、それ自体に自立した価値を含んでいることに近いのかもしれない。
《ブランクーシ研究メモ》は、私たちが思っている以上に、美術の語られ方が自由であり、豊かであることを示唆している。美術は批評家によって語られるだけではないし、誰によって語られるにせよ、その語り口は多様であり、しかもそのメディアも言語に限られているわけでもない。すなわち、美術はいかようにも語られうる。中原佑介は、意識的にか無意識的にかはともかく、「美術」という言葉の先に、そのような豊穣な地平をまなざしていたのではないだろうか。
2016/03/01(火)(福住廉)
三軒茶屋 三角地帯 考現学
会期:2016/01/30~2016/02/28
世田谷文化生活情報センター 生活工房[東京都]
世田谷通りと国道246号線に挟まれた三軒茶屋のデルタ地帯、通称・三角地帯。極小の飲食店やアーケード商店街、銭湯などがひしめき、それらのあいだを細かい路地が縫うように走っている。再開発が進められている周囲の街並みとは対照的に、この一帯だけ昭和で時間が止まったかのようだ。
本展は、この「三角地帯」をフィールドにした考現学的調査の結果を報告したもの。考現学とは、今和次郎らによって実践された都市風俗の観察と記録の活動で、それらの結果を手書きのイラストレーションや図表、テキストによってレポートした。本展もまた、そのようなメディアを用いている点では考現学と変わらない。けれども考現学と大きく異なっているのは、その調査のテーマ。通行人の歩行経路をはじめ、呑み屋で提供されるビールの銘柄やお通しの種別、スナックで歌われるカラオケの曲目など、それらの大半は知られざる呑み屋街の生態を解き明かすものだ。その点では、入りにくい居酒屋の内側にテレビカメラを向ける「街レポ」に近い。あるいは、それらの調査が調査主体の経験に裏づけられている点で言えば、「考現学」というより、むしろ「体験記」というほうが適切かもしれない。三角地帯の中だけでタオルや下着などを調達して千代の湯に入る、しまおまほによるテキストも、まぎれもなく「体験記」である。
だが、今和次郎らによる考現学は明らかに「体験記」ではなかったし、「街レポ」でもなかった。それは、こう言ってよければ、きわめて変態的な調査だった。丸の内のOLが昼休みにどのように行動するのか、彼女たちを尾行して経路を記録したり、井の頭公園での自殺者の分布図を整理したり、考現学の特徴は観察と記録よりもむしろ調査の主題の独自性にあった。平たく言えば、誰も見向きもしないような主題を馬鹿正直に追究することによって都市風俗の生々しい一面を浮き彫りにするところに考現学の真髄があったのだ。
「考現学」を冠した本展は、そのような意味での変態性に乏しく、きわめて常識的であり、それゆえ考現学が持ちえていた芸術性を見出すことはできなかった。おそらくテレビや雑誌などのマスメディアで消費されるコンテンツとしては十分なのだろうが、それは芸術的な価値とは本来的に関係がない。
2016/02/22(月)(福住廉)
気仙沼と、東日本大震災の記憶 リアス・アーク美術館 東日本大震災の記録と津波の災害史
会期:2016/02/13~2016/03/21
目黒区美術館[東京都]
東日本大震災で被災した宮城県気仙沼市のリアス・アーク美術館の常設展示を見せる展覧会。リアス・アーク美術館は震災発生直後から気仙沼市と南三陸町の被災状況の調査を開始し、その成果をもとに、常設展「東日本大震災の記録と津波の災害史」を2013年より公開している。被災現場を撮影した写真は約30,000点に及び、収集した被災物も約250点。本展は、そのうち約500点を一挙に展示したもの。何よりも、その膨大な資料群に圧倒される展観だ。
むろん、すべてを押し流した津波の破壊力を物語る写真が来場者の眼を奪うことは言うまでもない。しかし、来場者を圧倒するのは写真だけではない。それらの傍らに掲示されたキャプションに書かれたおびただしい言葉もまた、私たちの心に重く響く。
震災発生直後の緊迫感あふれる言葉から震災当時を振り返るやるせない言葉。それらは被災状況を克明に解説するばかりか、同様の被災を二度と繰り返さないための経験的な警句や過去の経験を生かしきれなかった自戒も含んでいる。「鉄は硬いもの、そう思っているが、実は粘土のようにグニャグニャ曲がる。鉄骨構造物を過信すると危険だ」「明治の津波でも、昭和の津波でも同じことが起きている。なぜ過去の経験が生かされないのか。ここはそういう場所だとわかっているはずなのに」といった言葉が、ある種の切実さを伴って来場者の眼に迫ってくるのだ。
「人は忘れる。しかし文化は継承される。津波災害は地域文化として継承されるべきである」。けだし名言である。とりわけ本展が想定している東京近郊の来場者の多くが、5年前の震災を早くも忘却しつつあることを思えば、その地域文化を全国的に発信する必要性も痛感せざるをえない。そもそも「東日本大震災」から遠く離れた西日本では、津波災害の受け止め方に温度差があることは否定できないとしても、その一方で津波災害は少なくとも沿岸地帯であればどこでも発生しうることもまた明確な事実である以上、その「地域文化」とは文字どおり特定の地域に固有の文化という意味ではなく、あらゆる人々がそれぞれの地域で育むべき自分たちの文化であると理解しなければなるまい。
だが、どのようにして? 美術をはじめとする視覚文化が、記憶の再生産によって忘却に抗いつつ、その地域文化の継承に資することは、ある程度期待できる。しかし、本展で展示されていた歴史資料、すなわち明治29(1896)年の明治三陸大津波を主題にしたイラストレーションを見ると、その地域文化を健全に育むには、被災状況の記録写真や残された被災物だけでは不十分なのではないかと思わざるをえない。というのも、大衆雑誌『風俗画報』に掲載された「大海嘯被害録」には、家屋を破壊し、人畜を流亡する大津波自体が明確に描写されていたからだ。破壊された家屋によって津波の暴力的な破壊性を逆照するだけでなく、押し寄せた津波そのものを正面から表現していたのである。
思えば、津波にせよ放射能にせよ、東日本大震災をめぐる視覚文化の大半は、事後的な水準に焦点を当てていた。出来事そのものを表現することを避けてきたと言ってもよい。むろん、震災発生直後の、あの黒々とした津波が街を呑みこんでゆく報道映像は、いまも数多くの人々の脳裏に焼きついていることを考えれば、とりわけ芸術表現として取り上げる必然性に乏しいのかもしれない。大正時代の「大海嘯被害録」は映像の時代ではなかったからこそ成立していたとも言えるだろう。
けれども、津波災害が地域文化として継承されるべきであるならば、津波という出来事そのものを主題とした視覚文化が必要不可欠ではなかろうか。確かに映像が残されているとはいえ、私たちはその出来事を、どれほど悲惨だったとしても、いずれ忘れ去ってしまうからだ。忘却に抗いながら、出来事の記憶を分有するための文化装置。むろん、それはまちがいなくフィクションであり、被災者との同一化を実現するものでは、決してない。しかしだからこそ、被災者にかぎらず、あらゆる人々が対象になりうるのであり、そこから津波災害を地域文化として根づかせることができる。本展では、気仙沼の地域文化や生活資料を紹介した「方舟日記─海と山を生きるリアスな暮らし」も展示されていたが、この先必要なのは、むしろよりフィクショナルな、すなわち芸術的な展示ないしは作品ではなかろうか。
凄惨な出来事を直接的に表現した地域文化として、丸木位里・俊による《原爆の図》が挙げられる。むろん震災と被爆ないしは被曝を同列に語ることはできないが、《原爆の図》がいまも原爆という恐るべき出来事の継承と記憶の分有のための文化装置として機能していることは、津波被害をもとにした地域文化を育むうえで、大いに参考になるはずだ。同作を常設展示している「原爆の図丸木美術館」を訪ねるたびに、私たちの心に原爆という暗い影が忍び寄る。それは決して健やかな美的経験とはかけ離れているが、しかし、《原爆の図》は今日の現代美術にとっての原点であり、そこに定期的に立ち返ることで原点の所在を改めて確認する、ある種の儀礼行為として十分すぎるほど意味がある。この原点を見失うとき、忘却は始まるのだろう。
2016/02/18(木)(福住廉)