2021年04月15日号
次回5月17日更新予定

artscapeレビュー

福住廉のレビュー/プレビュー

毒山凡太朗+キュンチョメ展覧会「今日も きこえる」

会期:2015/09/18~2015/09/22

福島県いわき市ワタナベ時計店3F「ナオナカムラ」[福島県]

天才ハイスクール!!!!出身のアーティストで、福島県出身の毒山凡太朗と茨城県出身のキュンチョメによる合同展。いわき市内にある古いビルのワンフロアをブラックキューブとすることで、映像作品を中心にそれぞれ作品を発表した。発表の場所に、あえて「いわき」を選んだことから伺えるように、いずれも東日本大震災を強く意識した作品である。
毒山凡太朗は故郷の安達太良山に登り、頂上に設置されている同郷の洋画家で、彫刻家の高村光太郎の夫人である高村智恵子が詠んだ一節「この上の空がほんとうの空です」を、雨の中何度も叫んだ。映像を見ると、豪雨に濡れながらカメラに向かって元気よくこの言葉を説く毒山の姿には、ナンセンスなユーモアを感じずにはいられない。だが、その乾いた笑いの先で、精神を病んだ智恵子の発した言葉と、字面は変わらないにせよ、毒山が発する言葉とでは、それが意味する内容がまるで異なることに気づかされるのだ。光太郎によれば智恵子は「東京には空がない」とこぼしていたというから、智恵子にとっては安達太良山の上の空こそ、真実の空だということなのだろう。けれども智恵子が真正性を見出したその空は、いまや放射能によって汚染されてしまった。したがって毒山の叫びは、皮肉を交えた反語的な意味合いが強いといえるが、汚された雨を全身で浴びながら絶叫する毒山の身体には、アイロニカルな構えというより、むしろアイロニーを超えて、現実をありのままに受け止める覚悟が漲っているように見えた。つまり毒山が口にする「この上の空がほんとうの空です」とは、どれだけ毒に汚されたとしても、いまやそれが「ほんとう」になってしまったことを、私たちの眼前に突きつけているのだ。
毒山がある種の冷徹なリアリズムを貫いているとすれば、それにある種の叙情性や芸術性を重ねているのがキュンチョメである。海岸線に沿って立ち入り禁止の黄色いテープを貼る映像《DO NOT ENTER》は既発表の作品だが、強い風が吹き荒れる広大な海を目の当たりにすると、立ち入ることのできなくなってしまった海へのやるせない想いと、やがて押し寄せるかもしれない次の津波を止めることを願う切ない想いが、心の奥底から折り重なりながら立ち上がってくる。
だが、今回発表されたキュンチョメの新作のなかで、とりわけ社会性と叙情性を巧みに両立させていたのが《ウソをつくった話》である。映像に映されているのは、Photoshopの画面。帰宅困難者となってしまった御老人の方々に、故郷へ帰る道に置かれたバリゲードをPhotoshopの画面上で消しもらうというものだ。音声を聞くと、初めてPhotoshopを操作する御老人に、ナビゲーター役となった毒山が土地の言葉で使い方をていねいに助言していることがわかる。ぎこちない手つきで消していくが、ちょっとした手加減で背景の家や森までも消してしまう。だがその一方で、毒山の巧みなリードも大きいのだろう、御老人の方々の口から本音が浮き彫りになるのが面白い。「ぜんぶ消しちまえばいいんだ」「もう帰りたくねえ」。視覚的には彼らの帰宅を阻む障害物が徐々に消え去る反面、聴覚的には彼らの心情が託された言葉が次々と露わになるのである。
むろん、どれほど画像上でバリゲードを消去したとしても、帰宅困難者の問題を解決するうえではなんら実効性があるわけではない。あるいはまた、彼らの姿が画面に直接的に映されているわけでもない。しかし、にもかかわらず、最低限の画像と音声を媒介として帰宅困難者の実存がありありと伝わってきたことは疑いようのない事実である。いや、より正確に言えば、限られた画像と音声によって大いに喚起された私たちのイマジネーションが、彼らのイメージを実存として想像させたのだ。
いまやあの震災を伝える報道は少ない。ドキュメンタリー映画や小説にしても、ある一定の成果を出したとはいえ、いまのところそれ以上の展望は特に見込めない。だが、キュンチョメによるこの作品は、私たちの想像力に働きかけることである種のイメージを幻視させるという、アートのもっとも得意な方法論を、もののみごとに提示したのである。

2015/09/21(月)(福住廉)

おおいたトイレンナーレ2015

会期:2015/07/18~2015/09/23

大分市中心市街地各所[大分県]

大分市の繁華街で催された芸術祭。昨今、都市型の芸術祭はおびただしいが、この芸術祭の特徴は「トリエンナーレ」ではなく「トイレンナーレ」という名称にあるように、会場をトイレに限定している点にある。だから来場者は市内に点在する公共施設から百貨店、雑居ビル、飲食店、商店、公園などにあるトイレを探し歩くことになる。もちろん、尿意を解消するためではない。作品を鑑賞するためである。
参加したのは、西山美な子や藤浩志、藤本隆行、眞島竜男、松蔭浩之ら、16組。トイレという狭い空間に展示する必要性がそうさせたのだろうが、大半の作品はサイズが小さく、たんなる装飾と化しているものも多い。そうしたなか、その狭小空間を逆手にとってひときわ強い印象を残したのが、「目」である。
「目」はアーティストの荒神明香、ディレクターの南川憲二、制作統括の増井宏文によるチーム。
先頃閉幕した「大地の芸術祭越後妻有アートトリエンナーレ2015」でもコインランドリーを使った作品を発表して大きな話題を呼んだ。今回、彼らが作品を展示したのは、商店街の一角にある寝具店。色とりどりの寝具が立ち並ぶ店内を抜けると、バックヤードの暗がりにトイレがあった。室内にはトイレットペーパーや神棚が置かれた、いたって普通のトイレだが、唯一風変わりなのは、ひとつの壁面に映像が投影されているところ。鉄道車両の先頭から撮影されたのだろうか、どこかで見た覚えのある景色が次々と流れていく。その記憶の源がこの寝具店の店内であることに気がついた瞬間、トイレの壁面に沿って小さな鉄道模型がゆっくりと通過していった。そう、彼らの作品は店内にNゲージの線路を縦横無尽に張り巡らせ、そこを走る鉄道模型から風景を撮影した映像をトイレで鑑賞させるというものだったのだ。
むろん映像を見ていると、まるで小人になったかのように、店内を移動していく楽しさがあるし、直線の線路の傍らにプラットフォームの模型が設置されているため、駅を通過するような感覚も味わえる。だが、この作品の醍醐味はそのような映像を、まさしくトイレという狭い空間で鑑賞するところにある。
トイレとは、言うまでもなく、他者の視線が遮られた、ごくごく個人的な空間である。だが、そのような没社会的な空間であるにもかかわらず、いやだからこそと言うべきか、人間の想像力はその密閉された空間を越えて、どこまでもはてしなく広がりうる。ひとつの肉体を収める程度の狭小空間を基点にしているからこそ、想像力は大きく飛躍すると言ってもいい。「目」の鉄道模型は、たんに狭い空間を有効活用した作品ではない。それは、私たちが常日頃トイレで繰り広げている孤独な想像力の軌跡を美しくなぞっているのである。

2015/09/12(土)(福住廉)

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ペコちゃん展

会期:2015/07/11~2015/09/13

平塚市美術館[神奈川県]

「ペコちゃん」とは、言わずとしれた不二家の公式キャラクター。あの前髪を切りそろえ、舌を出した女の子といえば、誰もが思い浮かべることができるだろう。1950年、同社の製品「ミルキー」の発売とともに生誕して以来、60年以上にわたって親しまれてきた、大衆的なアイコンである。
本展は、ペコちゃんというイメージの変遷を追うもの。店頭人形をはじめ卓上人形、文具、新聞広告、テレフォンカード、書籍、マッチラベルなど、さまざまな形態によって表わされたペコちゃんを一堂に集めた。さらに、ハローキティや水森亜土、初音ミクなどとペコちゃんのコラボレーション、レイモンド・ローウィやアントニン・レーモンドが不二家で行なった仕事なども併せて紹介された。まるで不二家の企業博物館のような展観である。
しかし、それだけではない。会場の後半には、現代美術のアーティストたちがペコちゃんを主題にした作品が展示されていた。参加したのは、小林孝亘や西尾康之、町田久美、三沢厚彦ら17名。それぞれペコちゃんというアイコンを主題として作品に取り入れたわけだが、興味深いのは、表現は異なるにもかかわらず、いずれもペコちゃんのかわいい一面より、恐ろしい一面を強調しているように見えた点である。
例えば西尾康之は、例によって陰刻という手法でペコちゃんの立体像を造形化したが、バロック的な細密表現に加えて、ペコちゃんの眼球を過剰に見開かせ、リボンで結った髪の毛の先を手の指にするなど、ペコちゃんの異形性を極端に誇張している。ペコちゃんとポコちゃんの肖像を描いた三沢厚彦のペインティングにしても、瞳孔が全開で、しかも眼球は黄色いため、恐ろしさしか感じない。町田久美の平面作品ですら、口元だけを赤く塗り重ねることで、舌なめずりするペコちゃんの猟奇的な要素が際立っていた。
だからといって、現代美術のアーティストたちはペコちゃんというアイコンを冒涜しているわけでは決してない。それが証拠に、改めて展示の前半に陳列されたさまざまな形態のペコちゃんを見なおしてみれば、ペコちゃんの原型のなかに、誰もがそのような異形を見出すにちがいないからだ。ペコちゃんは、たんにかわいいキャラクターにすぎないわけではない。それは、本来的におどろおどろしい一面を内包しているのであり、本展に参加した現代美術のアーティストたちは、いずれもその一面に着目し、さまざまな手法でそれを巧みに引き出して表現したのである。
その意味で、ペコちゃんの二重性をもっとも巧みに表現していたのは、川井徳寛による《相利共生(お菓子の国~守護者の勝利~)》だろう。これは、ペコちゃんと同じように赤いリボンをつけた女の子のまわりを、たくさんの天使たちが飛び回っている絵画作品。宗教画のような神聖性を帯びているが、よく見ると天使たちはみなそれぞれペコちゃんとポコちゃんの仮面をつけている。だが、その下の天使たちの顔を注意深く見てみると、彼らは一様に無表情なのだ。「天使」という属性にふさわしからぬ、一切の感情を欠いた冷たい顔。仮面が本性を隠蔽する表皮だとすれば、天使の素性は冷酷無比な非人間性ということになる。川井は、愛らしさと恐ろしさが同居するペコちゃんの二重性のみならず、それを天使の仮面として相対化することで、人間と非人間の二重性にまで敷衍させたのである。

2015/09/04(金)(福住廉)

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「うらめしや~、冥土のみやげ」展──全生庵・三遊亭圓朝 幽霊画コレクションを中心に

会期:2015/07/22~2015/09/13

東京藝術大学大学美術館[東京都]

幽霊画を見せる展覧会。落語家の三遊亭圓朝が蒐集していた幽霊画を中心に、およそ150点が展示された。円山応挙をはじめ、曾我蕭白、河鍋暁斎、葛飾北斎、歌川国芳らによる恨み辛みの表現がなんとも凄まじい。会場の随所に灯籠を模した照明を設置したほか、客席の上の天井から蚊帳を吊り下げるなど、展示上のさまざまな工夫が幽霊画の迫力をよりいっそう倍増させていた。
とりわけ来場者の視線を集めていたのが、上村松園の《焔》である。長身の女の幽霊が髪の毛を噛みながら肩越しにこちらを見返している。膝下まで届かんばかりの長髪は、それ自体で怨念の深さを物語っているが、それが幽霊の足元とともに背景に溶け込んで消えているところが、見えないはずのものが見えてしまった幽霊の恐ろしさを効果的に表わしている。着物の柄に描かれた蜘蛛の巣ですら、この女の底知れぬ執着心を象徴しているようだ。
本展によれば、足のない幽霊という定型的なイメージをつくり出したのは、応挙である。実際松園の《焔》をはじめ、足が消えた幽霊のイメージは数多い。だが幽霊たちを次々と目撃していくなかで注目したのは、むしろ彼らの手。足がないことが、逆説的に手を饒舌にさせているのだろうか、幽霊の手はさまざまなメッセージを伝える豊かなメデイアであることを知った。
例えば谷文一の《燈台と幽霊》。描かれているのは、燈台の灯りに浮かび上がる年老いた女の幽霊。か細い右手は燈台の土台に触れているようだが、左手はちょうど画面の右端をつかんでいるように見えるのだ。肉体的には弱々しくとも、まさしく怨念の力で画面の向こうからこちらに身を乗り出して来るかのような迫力が感じられるのである。
一方、嶋村成観の《子抱き幽女図》は恐ろしい形相で赤ん坊を抱きかかえている幽霊の女を描いたもの。顔面は正視に耐えないほど醜いが、不思議と嫌悪感を催さないのは、赤ん坊を抱く彼女の手がじつにやさしいからだ。その手は明らかに包容力と慈愛に満ちており、手に限って言えば、幽霊というよりむしろ観音様に近い。幽霊であるにもかかわらず、いや、だからこそと言うべきか、赤ん坊を慈しむ情愛が痛いほど伝わってくるのである。怨念には恐ろしさだけでなく、ある種の切なさも含まれている。だからこそ「うらめしや」という言葉に、私たちはとても他人事とは思えない響きを聴き分けるのではないか。

2015/09/03(木)(福住廉)

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堂島リバービエンナーレ2015 テイク・ミー・トゥー・ザ・リバー──同時代性の潮流

会期:2015/07/25~2015/08/30

堂島リバーフォーラム[大阪府]

4回目の堂島リバービエンナーレ。大阪市の中心街にある堂島リバーフォーラムを会場に催されている典型的な都市型の国際展である。だが市民参加や祝祭性の演出、あるいは他ジャンルとのクロスカルチャーなどには脇目もふらず、あくまでもコンテンポラリーアートの王道を追究する姿勢が、他の都市型の国際展とは一線を画している。
事実、今回出品したアーティストはいずれも現代美術のハードコア。近年再評価の機運が高まりつつあるThe PLAYをはじめ、島袋道浩や下道基行、サイモン・フジワラなど、国内外から15組が参加した。映像を投影した広大な床一面に鑑賞者を導き、音と映像の流動性を全身で体感させた池田亮司のサウンド・インスタレーションなど見どころも多い。
ひときわ異彩を放っていたのは、スーパーフレックスの《水没したマクドナルド》。第3回恵比寿映像祭でも発表された作品だが、今回の展示場所が地下空間だったせいか、よりいっそう不穏な雰囲気が醸し出されていた。映像に映されているのは、日頃見慣れたマクドナルドの店舗。人影は一切見当たらないが、電気が煌々と灯され、食べかけの商品も残されているので、人の気配はそこかしこに漂っている。すると、どこからともなく水が侵入してきて、テーブルに残された商品や椅子などを呑み込みながら、徐々に水位を上げていく。やがて店内に設置されたドナルドの立体像が水面を漂い始めるほど、店内は大量の水で満たされる、という作品だ。
恵比寿映像祭で発表されたのは、東日本大震災直前の2011年2月。むろん当時も津波を連想させないことはなかったが、現在改めて見直してみると、津波という直接的な連想より、むしろ資本主義社会の消費文明を想起した。水の中を漂う商品や器物は、自然災害の被災者というより、むしろ資本主義社会の束縛から解き放たれた多幸感にあふれているように見えたからだ。水という自然の力に身を委ねることによって、資本主義という重力から逃れていると言ってもいい。この作品は一見すると消費文明の成れの果てのデストピアを描いているようだが、実は逆に消費文明の先に到来するユートピアを表現しているのではないか。

2015/08/28(金)(福住廉)

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