artscapeレビュー

福住廉のレビュー/プレビュー

石井陽平 個展「真のLOVE展 これが僕の愛のかたち 木からダッチワイフ、麻里子まで」

会期:2013/06/19~2013/06/23

素人の乱12号店[東京都]

「天才ハイスクール!!!!」の3期生、石井陽平による初個展。元AKB48の篠田麻里子への愛をテーマにした作品を発表した。
展示されたのは、写真作品を中心にしたインスタレーション。一見すると写真が埋没するほど雑多で猥雑な空間にしか見えないが、必ずしも低次元の展示として断罪できないところに不思議な魅力がある。
写真の多くは、彼が篠田麻里子の顔写真をつけたダッチワイフとともに海や森を訪ね歩くという設定にのっとったもの。愛してやまない麻里子とのデートにはしゃぐ当人の姿は悪乗りしているようにしか見えないし、そもそもダッチワイフを麻里子に見立てるという物語がすでに変態的である。
けれども、写真をよく見てみると、それらを神秘的な色彩や光と闇で撮影しているからだろうか、通俗的で偏執的な主題が思いのほか後退していることがわかる。その代わりに前面化しているのが、彼の愛情の純粋性である。暗闇の中に広がる鮮やかな色彩が、そのあまりにも純粋な愛を輝かせているのだ。しばらく見ていると、網膜が焼けるように感じられるほど、その純度は高い。
ダッチワイフといえば、ローリー・シモンズが人間と見紛うほど高品質な日本製のラブドールを被写体にした写真シリーズを、森美術館で開催中の「LOVE」展で発表しているが、その写真はラブドールの人工性に焦点を当てることで愛そのものが「つくりもの」であることを暗示していた。それに対して、石井陽平が用いるダッチワイフはビニール製の安物にすぎないが、だからこそその「つくりもの」に投影される愛情の深さが際立っていた。前者が即物的だとすれば、後者は情動的であると言えようか。
だからといって石井陽平の愛は、それが「つくりもの」であることに無自覚なわけではないし、それに対して冷笑的に振る舞っているわけでもない。不可能であることを知りつつも可能を生きる「粋」のように、その愛が実らないことを十分承知しつつも、その愛を生きているのだ。それは、あまりにも強く、同時にあまりにも脆く、だからこそ私たちの胸を打つ。

2013/06/23(日)(福住廉)

美術ペニス

会期:2013/06/14~2013/06/23

KUNST ARZT[京都府]

文字通り「ペニス」をモチーフにした作品を集めた展覧会。企画者で画廊主の岡本光博をはじめ、水内義人、春名祐麻、マリアーネ、天憑、高須健市が参加した。自主規制しがちな主題を、それぞれ正面から表現した潔い作品ばかりで、じつに面白い。
なかでも注目したのは、春名祐麻と天憑。某有名芸能人のペニスを想像しながら制作するワークショップ「まさはるのチンコを作ろう☆」で知られる春名は、ピカソの《花束》をもとにした新作を発表した。色とりどりの花束を握る2人の手に、動作を表わす二重の線を2つ描き加えただけのシンプルな作品だ。すると、どうだろう。まるでペニスをしごいているようにしか見えないから不思議だ。愛情の象徴である花束を性欲の象徴に意味的にずらすこと。最低限の行為によって最大限の効果を発揮する、非常に優れた傑作である。
パフォーマンスアート集団の天憑は、巨大なペニスの模造をかつぎながら鴨川の上流を目指す《奉納祭》を発表した。その記録映像を見ると、ふんどし姿の男たちが赤い男根を抱え上げて川の中を歩き、時折土手や橋から見下ろす人びとに向かって男根を元気よく突き上げている。三条から歩き始め、ゴールは出町柳。川が二股に分かれているところを股間に見立てたようだ。その中洲に上陸すると、紙で形成した女陰に向かって男根を突き刺し、そのまま突き抜けて、パフォーマンスは終わった。最後のあまりにも直接的な表現は説明過剰であるように思わなくもないが、それでも男根信仰を主題にしたパフォーマンスとしては秀逸だったように思う。近年明らかに増加しつつある民俗学的な主題に取り組む現代アートのなかでも、天憑のパフォーマンスは観客を巻き込む力が飛び抜けていたからだ。現代アートやパフォーマンスというより、まるで伝統的な祭りのような祝祭的な雰囲気を醸し出していた。けれども翻って考えてみると、伝統的な祭りといえども、そもそもの発端はこのような突発的で衝動的なパフォーマンスだったのではないだろうか。天憑は現代アートと伝統行事が交わる原点を突いたのだ。

2013/06/23(日)(福住廉)

ジミー・ツトム・ミリキタニ回顧展

会期:2013/05/14~2013/07/20

立命館大学国際平和ミュージアム 中野記念ホール[京都府]

ジミー・ツトム・ミリキタニ(1920~2012)は、日系アメリカ人アーティスト。サクラメントに生まれ、広島で育ち、日本画家を目指してアメリカに帰ったが、80年代からニューヨークの街角で路上生活を送りながら絵を描いていたところ、リンダ・ハッテンドーフ監督と出会い、彼女の映画『ミリキタニの猫』で広く知られるようになった。本展は、日米の歴史に翻弄されたジミーの激動の人生を、絵画をはじめ数々の資料によって回顧したもの。比較的小規模であるとはいえ、見応えのある展示だった。
ジミーの絵に一貫しているのは、過去の記憶の召喚である。たびたび描いているツール・レイク収容所の絵は、ジミーが戦時中に「敵性外国人」として強制的に収監された苦い経験に由来しているし、幼少期を過ごした広島の心象風景もいくども描いている。軍人や軍艦の図版を貼りつけたコラージュによって太平洋戦争を描写した作品もある。炎に包まれるワールド・トレード・センターなど同時代的な主題を描くこともないわけではないが、それにしても原爆ドームの描き方との連続性が強いことから、ジミーがそれらを人間の過ちという歴史に位置づけていることが伺える。やや大袈裟に言えば、ジミーの絵には日米の歴史のひろがりが体現されているのだ。
もうひとつの大きな特徴は、ジミーが画面に書き込んでいる文字。おそらくボールペンなのだろう、画面の余白に「雪山」という雅号や「広島縣人」といった自らのアイデンティティーを告げている。収容所の絵には「無名死者三百人」という文字もあるから、絵の中の文字は記録や伝達の意味合いもあったようだ。
面白いのは、それらのなかに「東京上野藝大卒」「元日本美術院會員」「日本画一位画家」といった文字も含まれていることである。むろん、これらは事実ではない。けれども、ジミーがこれらの絵を路上で描いていたという条件を省みれば、このような文字をたんなる「嘘」として退けることは難しくなる。なぜなら、路上で絵を描くということは路上で絵を見せるということであり、であればこれらの文字は虚栄心の現われである「嘘」というより、より多くの人びとに自らの絵を届けるための戦術的な「箔」として考えられるからだ。
実際、ジミーは「販売」より「伝達」を重視していたのではないだろうか。映画『ミリキタニの猫』には、ジミーが絵の前で激昂しながら演説をしていたという逸話が紹介されているが、おそらくジミーにとっての絵とは、アメリカ国籍をもっている日系人たちの財産を奪い、強制収容所に幽閉したアメリカ政府の黒い歴史を物語る媒体だった。絵は、文字や言葉と不可分だったのだ。
ジミーの絵を、ひとまずアウトサイダーアートとして分類することはできるだろう。けれども同時に、それは近代絵画以前の「絵」の伝統に位置づけることもできなくはないはずだ。展覧会の前身である油絵茶屋では油絵が口上とともに見せられていたと考えられているように、ジミーの絵も基本的には彼の肉声や言霊と切り離せないからだ。「近代」の定着にしくじったことが明らかになりつつあるいま、ジミーの絵から学ぶことは多い。

2013/06/23(日)(福住廉)

天才ハイスクール!!!!

会期:2013/06/01~2013/06/29

山本現代[東京都]

「天才ハイスクール!!!!」とは、Chim↑Pomの卯城竜太が講師を務める美学校の講座名で、本展は同講座の修了生を中心にしたグループ展。2011年以来、東京は高円寺の素人の乱12号店を会場にそれぞれ個展を開催してきたが、ついに昨年は旧東京電機大学の校舎で催された大規模なグループ展「TRANS ARTS TOKYO」で大いに注目を集めた。
その最も大きな特徴は、荒削りで奔放、野性的で直情的な美術表現。それは、ほとんどが美術の高等教育を受けておらず、その経験がある場合でも、おおむねドロップアウトしているという出自に由来している。アカデミックな知識や高度な技術は欠落しているが、その反面、美術教育の現場では敬遠されがちな、きわめてストレートなエネルギーの放出が、彼らの強みである。自分たちの日常と分かち難く結びついているネットカルチャーやアイドル、ゲーム、グラフィティといった若者文化を背景にしながら、家族愛や生きにくさ、3.11、生と死の問題といった、同時代の主題を表現する方法が、じつに清々しい。
事実、本展では旧作もかなり展示されていとはいえ、展示会場はおろか階段や洗面所、物入れなどのバックヤードにも作品を設置することで、それらの作品によって既存の空間を押し広げるほどの強力な表現意欲が伝わってくる。なかでも自分の母親への愛をテーマにした映像を見せた大島嘉人と、階段を無限に駆け上がるパフォーマンスを映像で見せたケムシのごとしが今回は際立っていた。前者は、ちょうど森美術館のLOVE展における出光真子の映像作品とは対照的に、息子の視点から母親との関係性を実直に描いたとすれば、後者は駆け上がっても駆け上がってもどこにも到達しえない今日的な無常感を簡潔に表現したのである。
とはいえ、一抹の危惧を覚えないわけではない。彼らは着々と経験値を上げており、作品そのものの質は別として、少なくとも空間の使い方に関しては抜群のセンスを発揮している。こうした点は、むしろ多くの美大生は見習うべきだろう。ところが、会場に立ち込めていた野性的で破天荒な空気感は、一方で容易にパッケージ化されやすい。仮に同展を地方都市の会場に巡回させたとしても、それぞれの会場で異なる空間的な特性を読み取りながら、ほぼ同水準の展示を構成することができるに違いない。だが、それ自体がひとつの芸風として定着すると、当初はその斬新さに目を奪われていた鑑賞者は必然的に作品の質を問うことに焦点を合わせるようになる。いくら集団性に基づくとはいえ、いくら美術教育の外側にいるとはいえ、最終的に問われるのはやはり個別の作品なのだ。
Chim↑Pomのように強固な集団的主体性を構築しているわけではなく、あくまでも個々のアーティストの集団としてあるならば、彼らにとって必要なのは「天才ハイスクール」という枠組みの外側に踏み出すことではないか。それは、天才ハイスクールという看板のもとで個展を催すことではない。もっと徹底的に外部へ踏み外し、さまざまな世界を渡り歩き、あるいは徹底的にひきこもり、場合によってはアートからも距離を取るような方向性に身を投げ出すこと。逆説的かもしれないが、野性が飼い慣らされることを拒否しながら表現をさらに展開するには、そのような方策が最も適切だと思う。

2013/06/13(木)(福住廉)

桂ゆき ある寓話

会期:2013/04/06~2013/06/09

東京都現代美術館[東京都]

桂ゆきの生誕百年を記念した回顧展。美術館の回顧展としては、これまで山口県立美術館(1980)や下関市立美術館(1991)があったが、東京では初めてである。油彩画をはじめ、コルクによるコラージュ、書籍の装丁や挿画、スケッチや写真などにより、およそ60年にわたる長く幅広い画業を振り返った。
本展は、桂ゆきの創作活動を「コラージュ・細密描写・戯画的表現」の3点で要約していたが、それらを鑑賞した実感を整理すると、「ユーモア・抵抗・柔和性」の3点になると思う。
事実、桂ゆきの絵には軽やかな哄笑を誘うものが多い。樹木に生えたキクラゲだけを描いた絵を見ると、そのユニークな着眼点に思わず笑みがこぼれるし、《人が多すぎる》(1954)や《おいも》(1987)にいたっては、タイトルだけですでに可笑しい。画面にたびたび登場する上向きの目玉も、特定の物語を説明する戯画的なキャラクターというより、あらゆる役割や意味から解き放たれたナンセンスな存在なのだろう。
ただ同時に、そうしたユーモアが抵抗の精神の現われであることもまた事実である。桂ゆきの絵画的な特徴は、シュルレアリスムやアブストラクト、ルポルタージュ絵画、ソフト・スカルプチュアなどと共鳴しながらも、それらから逸脱している点にある。シュルレアリスムの代名詞とも言える「地平線のある絵」を嫌悪していたという逸話が残されているように、桂ゆきは特定の表現形式に回収されることを明らかに拒んでいた。様式をみずから更新していく運動性によって、社会や政治というより、むしろ美術そのものに抵抗していたのだ。だからこそ、西欧的な絵画の模倣でもなく、日本的な土着性への回帰でもない、独特の絵画表現が可能になったのだろう。
とはいえ桂ゆきの作品は、どちらかといえば、日本的な土着性に傾いている。画面にはアジの開きや山菜など私たちの食生活を彩る主題が頻出しているし、晩年に取り組んだ紅絹を用いた立体表現のそれも、釜や下駄、団扇、しゃもじといった庶民の暮らしを支える道具が多い。企画者の関直子が指摘しているように、ここに家事労働によって酷使され打ち捨てられた道具が妖怪と化すとする「九十九神」との類縁性を見出すこともできるかもしれない。
けれども、それらの作品があまりにも土俗的にすぎないのは、そこにある種の柔和性が一貫しているからではないだろうか。一般論で言えば、細密描写には偏執的な求心力が作用していることが多いが、桂ゆきの場合、そうした執着心はほとんど見受けられない。むしろ、切り取られた樹木を描いた《伐採》(1942)に表わされているように、対象を柔らかく包み込むような優美な印象が強い。前述した《人が多すぎる》は、丸い円で抽象化した複数の人間の顔を漁網で絡めとり、引き上げる絵だが、それぞれの円がほどよく離れているせいか、あるいは緑と青を基調としたバルールによるのか、凝集した圧迫感はまったく感じられない。むしろ際立っているのは、網を表わす大きな円の中に人を表わす小さな円をていねいに収めた優しさである。そこかしこに「温和なにおい」(久保貞次郎)が漂っているのだ。
コラージュや細密描写を手がけるアーティストは数多いし、戯画的表現にいたっては昨今の現代アートの王道とすら言える。けれども、ユーモアと柔和性によって美術そのものに抵抗している美術家は明らかに希少である。桂ゆきの今日的なアクチュアリティーはここにある。

2013/06/08(土)(福住廉)

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