artscapeレビュー

福住廉のレビュー/プレビュー

秋山正仁 展 CROSSROADS

会期:2013/09/30~2013/10/05

Gallery K[東京都]

山梨県在住の秋山正仁の新作展。長大なロール紙に色鉛筆だけで都市風景を緻密に描き出す平面作品を、年に一度東京の画廊で発表している。
今回展示されたのは、主に50年代から60年代のアメリカ文化をモチーフにした作品。絵巻物のように横に長いので右から順に見ていくと、さまざまな色合いで細かく描かれた街並みを貫くクロスロードの随所に、アメ車に乗ったマリリン・モンローやジョン・F・ケネディー、ジェームス・ディーンらが次々と現われてくるのが面白い。
映画や音楽が輝いていた古きよきアメリカ。それらを描き出した画面の奥底に、追慕や憧憬が強く作用していることは間違いない。けれども、秋山の描き出す平面作品には、そうした中庸な言葉には到底収まりきらない迫力がみなぎっている。ノスタルジーと言うには、細部を執拗に描写する執着力が凄まじいからだ。しかし、それらは色鉛筆による柔らかい質感で表現されることによって、執着力がしばしば伴う攻撃性を巧みに回避している。結果として、秋山の絵は見る者の視線をやさしく内側に誘い込むのである。
いつまでも見ていたい。そして絵巻物のように果てしない時間に身を委ねたい。そのように思わせる絵は、思いのほか少ないという点で、秋山の平面作品を高く評価したい。

2013/10/04(金)(福住廉)

死刑囚の絵画展

会期:2013/09/28~2013/09/29

渋谷区文化総合センター 大和田ギャラリー大和田[東京都]

この春、広島県の鞆の津ミュージアムで開催され大きな反響を呼んだ「死刑囚の絵画」展。ほぼ同じ内容ながら、一部に新作も含めた展覧会が東京で行なわれた。
改めて印象づけられたのは、彼らの絵画から立ち上がる表現欲動。高度な技術や洗練されたコンセプトといった、通常現代アートで求められる諸条件は端から考慮されていない。ただ、絵を描きたい。いや、絵を描くことで何かを伝えたい。いずれの画面からも、それぞれ濃厚な表現欲動が溢れ出ている。
小林竜司の《獄中切手》は切手に見立てた画面に独房の内側を描いているが、これが隔絶された獄中から獄外へ発信する意欲そのものを表現していることは明らかだ。あるいは、岡下香の《司法界のバラ》は、植木鉢の土の下に自分の顔を描くことで、色鮮やかに咲く花の養分になっている自分自身を自虐的に描き出したが、植木鉢の外には硬い鉢を突き崩す小鳥たちが舞っている。幽閉された自分を救出する希望の象徴だろう。彼らの絵を見た瞬間に、そうした表現の内容が確かに伝わってくるのだ。
むろん、こうした絵画の経験は死刑囚という特殊な境遇に由来しているに違いない。明快に伝えることを避けがちな現代アートと同列に論じることも難しいのかもしれない。けれども、人はなぜ絵を描くのかという原点に立ち返って考えてみたとき、その答えを導き出すのは現代アートではなく死刑囚の絵画ではないだろうか。なぜなら、死刑囚たちは必要に迫られたからこそ絵を描いているに違いないからだ。自己表現や自分探し、あるいは現代アートの歴史に接続させることばかりに現を抜かす現代アートが、「必要」を無理やり捏造してまで制作を繰り返しているとすれば、死刑囚たちは望みもしなかった「必要」にかられて、やむなく、しかし切実に絵を描いている。どちらが鑑賞者の心を打つのか、もはや明らかだろう。
死刑囚の絵画は、現代アートの自明性を突き崩してしまう。絵描きはつねに絵を描くものだと思われているが、彼らからしてみれば「必要」もないのにわざわざ絵を描き続けることはいかにも不自然であろう。「必要」がないのであれば絵をやめて、「必要」が生まれるまで試行錯誤する。それこそ絵描きの王道ではなかろうか。

2013/09/29(日)(福住廉)

高田瞽女最後の親方 杉本キクイ

会期:2013/08/03~2013/09/29

上越市立総合博物館[新潟県]

瞽女(ごぜ)とは、盲目の女性旅芸人。主として農村や漁村を巡り歩き、各地で三味線を奏でながら唄を歌う。瞽女唄はテレビもラジオもない時代の娯楽として庶民によって大いに楽しまれた。戦後の経済成長とともに瞽女の文化は衰退してしまったものの、とりわけ新潟県の長岡瞽女と高田瞽女はいまもその芸が辛うじて継承されている。
長岡瞽女といえば、美術家の木下晋が描いた小林ハルが知られているが、本展は高田瞽女の最後の親方、杉本キクイを取り上げたもの。キクイの生涯や暮らしぶり、道具、掟を記した式目、そしてキクイに取材した画家の斎藤真一による絵画などが展示され、記録映画『瞽女さんの唄が聞こえる』(伊東喜雄監督)も併せて上映された。
展示を見てひときわ印象に残ったのは、瞽女の世界独自の秩序。親方の家で共同生活を営む瞽女たちの暮らしは、非常に規則正しい。毎朝丁寧に部屋や庭を掃除していたせいか、展示された器物はいずれも輝いており、保存状態が良好である。また式目を見ると、男や子をつくってはならないなど、数々の厳しい掟のもとで瞽女が生きていたことがわかる(掟を破った瞽女は追放され、「はなれ瞽女」となるが、これは映画『はなれ瞽女おりん』[篠田正浩監督]に詳しい)。
瞽女たちの秩序は、おそらく自らの生存のための戦略だったのだろう。盲目というハンディキャップを負った女たちにとって、瞽女という職能と生き方は、按摩と同様、「福祉」という概念のなかった時代におけるある種の「セーフティーネット」として機能していたと考えられるが、その機能を十全に発揮させるためには自らを厳しく律する法が必要不可欠だった。生きるために、いや、よりよく生かされるために、自ら掟に従っていたのだ。
いま瞽女に注目したいのは、その存在が現代におけるアーティストと重なっているように見えるからだ。むろん、その行動様式はレジデンスを繰り返しながら国内外を巡るアーティストのそれときわめて近しい。けれども、より根本的に考えれば、盲目の瞽女と見えないものを可視化するアーティストには通底する次元があるのではないだろうか。残された瞽女唄の音源を聞くと、眼の見えない瞽女の唄い声に、眼の見える者たちが熱心に耳を傾けることで、ともに唄の世界を見ているような気がしてならない。それは、視覚によって見ている通常の世界ではないし、だからといって盲目の世界を想像しているわけでもなく、瞽女の唄声と三味線の音を契機として双方がともに働きかけることではじめて切り開かれる、他に代えがたい特異な世界なのだ。
神にしろ無意識にしろ、いまも昔も、アーティストは見えない世界を見えるように表現してきた。そして優れたアーティストは、いずれも明確な自己規律によって制作を持続させているのだった。社会に直接的に貢献するわけでもなく、他者の求めに応じるわけでもなく、あくまでも自己の必要と充足のために制作を繰り返すアーティストにとって、そうした自己規律があってはじめて制作を前進させることができるのかもしれない。瞽女に学ぶところは大きいはずだ。

2013/09/23(月)(福住廉)

平野正樹 写真展 After the Fact

会期:2013/09/14~2013/11/09

原爆の図丸木美術館[埼玉県]

写真家の平野正樹は、近年、「Money」シリーズに取り組んでいる。これは、交換価値を失った紙幣や株券、証券、債権証書などの画像を取り込み、克明に拡大したもの。裏表の両面を上下に配し、背景にはそれらを部分的に引用した図像を反復させている。
今年の4月に東京・表参道のギャラリー、PROMO-ARTEで催された個展では、リーマン・ブラザーズをはじめとする諸外国の紙幣・証券類を展示していたが、本展の展示物は満鉄の株券や徴兵保険の証券など、帝国主義時代の日本に限定されていた。なお、「Money」のほかに、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの家屋に撃ち込まれた銃弾の痕跡をとらえた「Holes」、アルバニアの国内に現存する戦時中のトーチカを収めた「Bunkars」、東ティモールの内戦で打ち破られた窓を主題にした「Windows」も併せて発表された。
政治的・社会的な主題と正面から向き合った写真が一堂に会した会場は、壮観である。展覧会のタイトルに示されているように、それらの写真には過去への志向性が強く立ち現われていたが、同時に現在との接点がないわけではなかった。たとえば壁面に立ち並んだ「Money」は交換価値を失った点で墓標のように見えたが、その一方で生と死の狭間を漂うゾンビのようにも見えた。というのも、「Money」を眼差す私たちの視線には、たんなる追慕や郷愁を上回るほどの交換価値への欲望が明らかに含まれているからだ。「Money」は死んだ。しかし、それらを成仏させないのは、私たち自身にほかならない。会場の天井付近に設置された「Money」は、まさしく生と死の境界を彷徨っているかのようだった。
平野正樹は1952年生まれ。思えば、この世代の優れたアーティストはあまりにも正当に評価されていないのではないか。トーチカを撮影した写真家といえば下道基行が知られているが、平野の「Bunkars」は彼よりはるかに先行している。「Money」にしても、スキャナーによって画像を取り込むという手法は、カメラを暗黙の前提とする従来の写真から大きく逸脱している点で画期的である。

2013/09/14(土)(福住廉)

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人生の民俗─誕生・結婚・葬送─

会期:2013/07/20~2013/09/16

松戸市立博物館[千葉県]

人が生まれ、成人に育ちゆき、やがて結婚し、しばらくすると老いて死を迎え、先祖となってまつられる。人生のライフサイクルを民俗学の知見から振り返った展覧会だ。
お宮参り、お食い初め、雛祭り、鯉のぼり、そして祝言や葬列。現在の都市社会では馴染みの薄い儀式や行事の数々が、同館が属する松戸の農村をケーススタディとして紹介された。文字資料が中心だったとはいえ、なかなか見応えがあった。
特に印象深かったのは、個々のライフサイクルが地域の共同体と密接不可分であり、その接点に人生の節目が刻まれていたという事実だ。共同体はおろか家族という紐帯すら分解しつつある今日の都市社会から見ると、その共同体による分節がやけに新鮮に見える。個人主義の享楽を謳歌しつつも、同時に人工的な共同体を希求する現代人が多く存在していることを考えれば、こうした人生の民俗を改めてつくりなおすことが求められているのではないか。
放射能の時代にあって、人はいま、どう生きるべきか、幸福とは何かを考えあぐねている。人生の民俗がその答えのひとつになりうるとすれば、そのときアーティストは何ができるのか。何かできるはずだ。

2013/09/13(金)(福住廉)

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