artscapeレビュー

福住廉のレビュー/プレビュー

黒駒勝蔵対清水次郎長 時代を動かしたアウトローたち

会期:2013/02/09~2013/03/18

山梨県立博物館[山梨県]

博徒、すなわち賭博を生業とする無法者ないしは無宿者についての展覧会。かつての甲斐国、現在の山梨県一帯を縄張りにしていた黒駒勝蔵を中心とした甲州博徒の歴史を文献から明らかにした。
展示から理解できたのは、江戸末期から明治初期にかけては、行政とは異なる博徒を中心とした権力構造が存在しており、それが現在ではタブー視されているのとは対照的に、庶民の暮らしに密着して機能していたこと。そして、黒駒勝蔵は富士山を挟んで清水の次郎長と対立していたが、その抗争の舞台となったのが、物流の経路だった富士川流域だったことである。博徒というアウトローを糸口として、現在とは異なる社会のありかたを想像させた意義は大きい。
しかしながら、展示物の大半が古文書だったため、展覧会としてのエンターテイメント性については、いささか物足りない印象は否めなかった。大半の現代人にとって古文は解読不可能であるから、解説文で説明を補っていたが、その要約のピントが少々甘い。映像や立体で展示にアクセントをつけようとしていたが、いずれも完成度が著しく低いため、完全に裏目に出ていた。
博徒の展覧会なのだから、少なくとも賭場を再現したり、博徒を主人公にした映画を上映したり、古文書から離れて視覚文化を活用するよう発想を転換する必要があったのではないか。常設展では、展示の構成や方法にかなりの工夫が見られただけに、惜しまれる。博物館の展示にアーティストが関わることも考えてよいだろう。

2013/03/04(月)(福住廉)

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アーティスト・ファイル2013──現代の作家たち

会期:2013/01/23~2013/04/01

国立新美術館[東京都]

注目したのは、チョン・ヨンドゥ。子どもが描いた空想的な絵と、それらを再現して撮影された写真とをあわせて見せる《ワンダーランド》、そして韓国の公園で個人的なエピソードを語る老人たちの映像と、その話に関連するセットを組み立てる映像とを、左右のスクリーンで同時に見せる《手作りの記憶》を発表した。
双方の作品に通底しているのは、イメージそのものを視覚化することの難しさである。老人たちが口にする物語は言語表現であるから目に見えるわけではない。けれども、その話がおもしろいからなのか、あるいはその語り口が淀みなく心地よいからなのか、当人の姿を目にしながらも、いつのまにか自分の脳内でその物語のイメージをつくり上げていることに気づく。だから、片側のスクリーンで映画の撮影現場のようにセットを組み立てる映像が視界に入ってくると、自分で再生したイメージとの齟齬に苦しむことを余儀なくされる。イメージの視覚化が補完されるのであればまだしも、それを阻害されることのストレスは、思いのほか大きい。
《ワンダーランド》にしても、子どもの絵そのものを鑑賞していたほうがイメージは豊かに膨らむにもかかわらず、それらをわざわざ演劇的に再現することの意味は甚だ乏しいと言わざるをえない。平たく言えば、アートという名の「大きなお世話」にしか思えないのである。
チョン・ヨンドゥが暗示したのは、ヴイジュアル・アートの限界なのだろうか。しかし、志賀理江子の《螺旋海岸》が明示したように、ヴィジュアル・アートによるイメージの共有可能性は、まだまだ発展する余地が残されている。それを押し広げる鍵は、チョン・ヨンドゥが逆説的に示したように、言語的な想像力にあるのではないか。

2013/02/22(金)(福住廉)

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白隠 展 HAKUIN

会期:2012/12/22~2013/02/24

Bunkamuraザ・ミュージアム[東京都]

江戸時代中期の禅僧、白隠慧鶴の展覧会。約100点の書画が一挙に展示された。白隠といえば、丸みを帯びた描線で描いた達磨や七福神など、キャラクター化された図像表現がつとに知られているが、今回の展覧会で改めて思い知ったのは、そうした図像と文字を組み合わせる絶妙なセンス。
白隠の禅画の多くは、絵と文字を一体化させた画賛である。だから、その文字には禅宗的なメッセージや韻律が含まれており、白隠がみずからの禅画を視覚と聴覚に訴えかけるある種のマルチメディアとして想定していたことがよくわかる。ただ、それらの大半は余白に賛を書き込んでいるように、図像と文字を切り分けているが、なかには図像と文字を融合させた作品もある。
たとえば、白隠の書画のなかで最も大きなサイズの《渡唐天神》。天神が羽織る着物に「南無天満大自在天神」という文字を溶け込ませた文字絵である。さらに《七福神合同舟》は、文字どおり宝舟に乗って来る七福神を描いているが、白隠は「寿」の文字を極端に引き伸ばすことで宝舟を表現した。つまり、白隠は文字というメディアの意味を伝達する機能を活用すると同時に、文字の物質性を図像表現に巧みに取り込んでいるのだ。
不思議なのは、このような白隠の特性を意識しながら他の書画を見ていくと、墨で描いた描線が何かしらの漢字に見えてくるということだ。むろん丸みを帯びた描線においては該当しない。けれども比較的に鋭角的な描線は、まるで漢字を書くかのように描いているように見えてならないのである。白隠から学ぶことができるのは、イメージと言語の相似性、つまり描くことと書くことがそれほど離れているわけではなく、むしろ通底する領域がありうるということだろう。

2013/02/21(木)(福住廉)

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宮崎学 自然の鉛筆

会期:2013/01/13~2013/04/14

IZU PHOTO MUSEUM[静岡県]


これはおもしろい。野生動物の生態を記録した写真だが、写し出されているのはクマやサル、カモシカ、フクロウなど、いずれも私たちの自然環境に生息する動物ばかり。彼らの知られざる生態を、野外に設置した赤外線カメラによって隠し撮りした170点あまりの写真が一挙に展示された。
暗闇の中に浮かび上がる動物たちの姿は、まるで劇場でスポットライトを浴びる役者のようで、じつに様になっている。カメラに悪戯するクマの姿は、どこかの大柄なカメラマンのようだ。じつは動物と人間の境界はそれほど明確なものではないのかもしれない。思わず、そんな気にさせられるほど、宮崎の写真は魅力的である。
ただ、だからといって宮崎の動物写真は動物を擬人化する視線に終始しているわけではない。むしろ生物としての動物を徹底的に即物的に見る視線もある。もっとも代表的なのが、動物の屍を定点観測した写真のシリーズだろう。ニホンカモシカの亡骸は、まずウジ虫がわき、他の動物によって毛がむしり取られ、肉を喰われ、やがて雨が骨を崩すと、ゆっくりと土に沈んでゆく。スライドショーで淡々と見せられるので、生物の死の先が自然に直結していることがよくわかる。「土に帰る」というクリシェより、むしろ「自然になる」という言い方のほうがふさわしい。頭蓋骨が最後まで原形をとどめているからだろうか、肉体が土に溶け合い、一体化しているように感じられるのだ。
死を象徴化ないしは抽象化する現代社会の内部ではなかなか見ることができない、むき出しの死を目撃することができる貴重な写真展である。

2013/02/18(月)(福住廉)

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二年後。自然と芸術、そしてレクイエム

会期:2013/02/05~2013/03/20

茨城県近代美術館[茨城県]


展覧会名にある「二年後」とは、言うまでもなく東日本大震災からまもなく2年が経とうとしている現状を指している。本展は、あの震災によって大幅に再考を迫られた人間と自然の関係について近現代美術の作品から振り返るもの。小川芋銭や横山大観、中村彝、橋本平八から中西夏之、河口龍夫、間島秀徳、米田知子まで、美術家16人による作品が展示された。
震災によって流出した六角堂をモチーフとした中西夏之の新作や、いわきの上空を観音様が飛来する光景を描いた牧島如鳩など、見るべき作品は多い。だが、今回誰よりも瞠目させられたのは、萬鉄五郎である。1923年の関東大震災の翌年に描いたという《地震の印象》は、建物や山が揺れ動く様子をいくぶんユーモラスに描いているが、これとあわせて代表作のひとつである《もたれて立つ人》を改めて見てみると、いわゆる典型的なフォーヴィズムの画面すら、なにやら地震の不気味な振動を体現しているように見えてならない。あの奇妙な浮遊体を頭上にしつらえた《雲のある自画像》にしても、魂の虚脱というより、むしろ滑りこむ地盤の力が凝縮した震源地の象徴のように見えなくもない。
むろん、こうした見方はあまりにも表層的であり、美術史的に正統な理解とは無関係である。けれども、展覧会というフレームが作品の新たな理解を育むものだすれば、時勢に応じた解釈はいま以上になされてよい。企画者が指摘するように、あの震災と次の震災の「あいだ」を生きている私たちに最低限できることは、そのようにして意味を生産することだからだ。

2013/02/13(水)(福住廉)

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