artscapeレビュー
福住廉のレビュー/プレビュー
ルパン三世 展
会期:2013/04/27~2013/05/21
松坂屋美術館[愛知県]
アニメーションをめぐる言説でもっとも注意すべき点は、それらがマンガと並ぶ代表的な大衆文化であるがゆえに、誰が語るにしても特定の作品への思い入れが強くなりすぎることである。だからこそアニメーションは、よくも悪くも、世代論と非常に緊密に結びつきやすい。愛のある言説は特定の世代には大きな共感と支持を得やすいが、同時に、異なる世代を不本意にも疎外してしまいかねないというわけだ。
むろん、世代を超越して愛されるアニメーションがないわけではない。《ドラえもん》《サザエさん》《ちびまる子ちゃん》などは視聴者を入れ替えながら長期にわたって連続的に放送されているし、《ルパン三世》も、断続的とはいえ、同じく幅広い世代に愛されているアニメーションのひとつである。
本展は、《ルパン三世》の全貌に迫る好企画。原画やセル画はもちろん、アトランダムにカットアップした映像作品、制作スタッフへのインタビュー、原作者であるモンキー・パンチの原画、そして27年ぶりに放送されたテレビシリーズ《LUPIN the Third─峰不二子という女》の資料などが一挙に展示され、非常に見応えのある展観だった。
例えば歴代のルパンの顔を並べた展示を見ると、「ルパン」という定型的なイメージにさまざまな微細な差異が織り込まれていることがよくわかる。服装はもちろん、目つきや口のかたちからモミアゲの長さにいたるまで、その都度その都度、ルパンは隅々にわたって微調整されているのだ。言い換えれば、そのイメージを生産しているアニメーターたちの個性や表現がそれぞれ確実に作用しているのである。
視覚的なイメージだけではない。ルパンの声優といえば、かつては山田康雄であり、現在は栗田貫一だが、本展で上映されたパイロット版を見ると、当初はまったく別の声優だったことを知って驚いた。その声の質は、60年代のテレビドラマや映画でたびたび耳にする硬質なそれで、現在私たちが知っているあの軽佻浮薄なルパンとは程遠い。さらに銭形警部の納谷悟朗がパイロット版では石川五エ門の声を担当していたように、現在定着しているイメージは、度重なる試行錯誤の結果だった。
その実験的な取り組みをもっとも如実に表わしていたのが、TVシリーズのオープニング映像である。本展では、4つのテレビシリーズのうち、《LUPIN the Third─峰不二子という女》をのぞく3つのオープニング映像が上映されていた。3つの映像を見比べてみると、それぞれアニメーションにおける映像表現の可能性を追究しており興味深いが、なかでも傑出していたのが、第2シリーズ。キャラクターのスピーディーな動きから色の使い方、光と影の陰影表現や焦点の遠近移動といった映画的技法、あるいは光と速度を溶け合わせたり、キャラクターの輪郭のなかに別次元を導入したり、アニメーションならではの技法にも挑戦している。アニメーションのクリエイターたちは、新たな映像表現を求めて格闘していたのだ。
《ルパン三世》が他の長寿アニメーションと決定的に異なるのは、この点にある。偉大なるマンネリズムとは対照的に、新しい映像表現によって新たなるルパンを描写していくこと。最新作の《LUPIN the Third─峰不二子という女》が示しているように、それは現在も進行している運動体なのだ。
2013/05/18(土)(福住廉)
山口晃 展
会期:2013/04/20~2013/05/19
横浜そごう美術館[神奈川県]
2010年、ミヅマアートギャラリーでの個展「いのち丸」について、山口晃は「現代アート」という束縛から抜け出て、正面切って「マンガ」を描くべきではないかと書いた。その評価は、いまも変わらない。いや、本展を見て、ますますその思いを強くした。
本展は、山口晃の代表作を網羅したうえで、最新作も発表した個展。さらに、本展のなかで「山愚痴屋澱エンナーレ2013」を開催した。山口の代表作が立ち並んだ展観は確かに壮観だ。昨年、メゾンエルメス8階フォーラムでの個展「望郷 TOKIORE(I)MIX」で、未完成のまま発表された巨大な襖絵《TOKIO山水》が加筆されたうえで展示されるなど、見どころも多い。
しかし、「澱エンナーレ」はまったくもって理解に苦しむ。これは、現代アートの国際展に対するアイロニー以外の何物でもないが、ここで展示された現代アートの作法や文法をネタにした数々の作品は、いずれも中途半端なものばかりだ。それゆえ、あの手この手を尽くしてアイロニーを連発すればするほど、空回りするそれらを見るのが耐えがたくなる。あるいは、その生半可さをもって、映像であろうと平面であろうとコンセプトを求める現代アートに対して痛烈な皮肉を放っているのかもしれない。だが、同じくアイロニーのアーティストである会田誠と比べてみれば、その鋭さに限っては明らかに会田に分があると言わねばなるまい。
その後、展覧会の後半には山口が手がけた挿絵のシリーズが展示されていた。五木寛之の『親鸞』やドナルド・キーンの『私と20世紀のクロニクル』へ提供した挿絵は、いずれも挿絵であるがゆえにサイズは小さいが、一枚ごとに、いや、一枚のなかですら、いくつかの描写法を投入しており、非常に見応えがあった。線と色彩、そして文字が、これ以上ないほど絶妙に調和している様子が美しい。たとえ挿絵の母胎である物語の詳細が示されていなくても、挿絵そのもので鑑賞者の視線をこれほど楽しませることができたのは、やはり山口晃の手腕によるのだろう。最後の最後で、山口の画力を改めて存分に味わうことができたので、胸をなでおろした来場者は多かったのではないか。
だとすれば、この展覧会のなかで感じた興奮と興醒めの振り幅ですら、もしかしたら山口晃によって仕掛けられた展示の抑揚ではないかと思えなくもない。しかし、仮にそうだとしても、その芸の賞味期限が迫っていることも事実である。アイロニーであろうと何だろうと、芸の手の内が詳らかにされた瞬間、マンネリズムが始まるからだ。あるいは、現代アートに向けられたアイロニーという手法自体が、とりわけ3.11以後の社会状況においては、現代アートの非社会性を上塗りしかねないと言ってもいい。あの震災は、社会的現実のなかに表現すべき主題があふれていることを私たちに改めて確認させた。そうしたなか、現代アートに安住しながら現代アートに皮肉を飛ばすことにどれだけのリアリティがあるのか、疑問に思わない方が不思議である。
2013/05/13(月)(福住廉)
ヒカリエイガ
会期:2013/05/06
渋谷ヒカリエ9階 ヒカリエホール[東京都]
昨年、渋谷駅東口の東京文化会館跡地に建設された複合商業施設「ヒカリエ」。本作は、その一周年を記念して製作された短編オムニバス映画で、9人の映画監督がヒカリエを舞台にそれぞれ物語を描いた。プロデューサーはドキュメンタリー映画監督の本多孝義。商業施設が主導して製作した映画自体珍しいが、その中身もそれぞれ面白い。
ありていに言って、商業施設と芸術の相性はあまりよくない。店舗などを活用した展覧会の場合、広告ディスプレイを阻害する美術作品は歓迎されないことが多いし、たとえ展示が許されたとしても、それらはおおむね広告の空間に埋没しがちである。美術の自立性は、ほとんどの場合、消費のための空間においては通用しないのである。
ところが、本作では商業施設と芸術の幸福な関係性を見出すことができた。というのも、本作には商業施設が敬遠しがちな外部や他者が正面から描写されていたからである。例えば『元気屋の戯言 マーガレットブルース』(元気屋エイジ監督)では「ヤクザ」、『私は知ってる、私は知らない』(澤田サンダー監督)では「幽霊」、『Make My Day』(完山京洪監督)では「(化粧品売り場における)怪しい男性客」などが物語を構成する重要な登場人物として描写されている。とりわけ、『SAMURAI MODE~拙者カジュアル~』(堀井彩監督)では「侍」や「オタク」が登場するばかりか、見方によってはショップ店員を揶揄しているように見える演出すらある。ようするに、この短編オムニバス映画には、ヒカリエに一貫しているおしゃれなイメージを損ないかねない要素がふんだんに盛り込まれているのである。
映画であろうと美術であろうと、外部や他者を欠落させた表現は退屈である。表現が到達するリーチが必然的に短くなるし、表現が内蔵するひろがりを殺してしまうからだ。とりわけ『Make My Day』は、化粧品売り場にとっての外部以外の何者でもない男性客をユーモラスに描写しながら、同時に、化粧する女性販売員の内側を巧みにあぶり出した。見終わったあと、不思議と幸福な心持ちになるほどの快作である。
本作は、企業イメージの向上ばかりを性急に求める企業メセナの現状に対する、ひとつの批判的かつ生産的な提案として評価できる。
2013/05/06(月)(福住廉)
三喜徹雄/GERDEN
会期:2013/04/16~2013/05/12
楓ギャラリー[大阪府]
1967年の結成以来、関西を拠点にしながら野外での表現活動を一貫して継続している前衛芸術運動「THE PLAY」。その主要なメンバーである三喜徹雄の個展。「THE PLAY」と同様、三喜個人の表現活動も海岸や山間部などで催しているが、本展も画廊の軒先と庭に作品を展示した。
緑が生い茂る庭に設置されていたのは、巨大な球状のオブジェ。最低限の竹を湾曲させながら組み合わせているため、後景を見通すことができるほど、量塊性には乏しい。けれども、背景に溶け込むかのような物体のありようは、求心的な造形によって自然と対峙する西欧彫刻の伝統とは異なる立体表現の可能性を示していた。しかも、西欧彫刻の伝統とは異なる立体表現を志向したにもかかわらず、依然として重力に従順だったもの派とは対照的に、その圏外からも軽やかに脱出する遠心性を造形化していたところがすばらしい。文字どおり、庭からも転がっていくような自在な運動性が感じられたのだ。
その身軽な運動性は、形式的にも内容的にも、三喜徹雄の表現活動の全般に通底する大きな特徴だが、軒先にずらりと展示されたこれまでの作品を記録した資料を通覧すると、そこには現代アートに対する根源的な批評性が含まれていることに気づく。それは、私たち鑑賞者のなかに認められる、美術作品と美術家を同一視する視線である。
私たちは、美術家の内的な必然性にしたがって表現された造形を美術作品として考える傾向がある。美術家は自らの思想なりメッセージを作品に埋め込んでおり、それゆえ私たち鑑賞者は想像力を駆使してそれらを掘り起こし、読み解かなければならないというわけだ。これは一見すると当たり前の考え方のようだが、じつは近代という時代に特有の芸術観念にすぎない。軒先の壁に貼りつけられたノートに記された三喜徹雄の次の言葉は、その芸術観念に毒された私たちの脳天を揺さぶるほどの強い衝撃があるに違いない。
「よく『意味』など聞いてくるアホもおるけど、意味なんかおまえが考えろと返事することにしてます。もしそいつに意味などというもんがあるんやったら、それはおまえの中にあるんであって、俺に聞くな!!」
2013/04/20(土)(福住廉)
極限芸術~死刑囚の表現~
会期:2013/04/20~2013/06/23
鞆の津ミュージアム[広島県]
死刑囚たちが描いた絵画を集めた展覧会。実名と匿名合わせて37名によるおよそ300点の作品が一挙に展示された。同類の展覧会としては、例えば「獄中画の世界 25人のアウトサイダーアート展」(Gallery TEN、2010年)などが先行しているが、これだけ大規模な展覧会はおそらく初めての試みではないか。
会場を一巡してたちまち理解できるのは、いずれの作品も「死刑囚」という不自由な境遇で描写された絵画であること。画材はほとんど色鉛筆やボールペンであり、支持体もノートや色紙などに限られている。いずれも絵画のサイズが決して大きくないことも、その不自由の象徴だろう。いつ訪れるともわからない死刑執行への不安や恐怖がそれぞれの絵画の根底にひそんでいることも、大きな共通点だ。
とはいえ、そのようにして表現された絵画は、じつに多種多様。死刑囚である自分を具象的に描く者がいれば、抽象的に描く者もいるし、あるいは漫画として表現する者さえいる。死刑制度への反対を訴えるポスターもあれば、死刑によって命を落とす自分を象徴的に描く者もいる。技術的な面でも、稚拙なものから職人的な完成度を備えているものまで、さまざまだ。
例えば、林眞須美の《青空泥棒》。青い背景に黒い枠組みが描かれ、その中に赤い丸が一点置かれた、じつにシンプルな絵である。タイトルが暗示しているように、この赤い丸が青空から隔離された作者自身であることは、想像に難くない。青空の見えない三畳一間で365日を送る非人間的な日常。それを、直接的に描写したのであれば、とくに感慨も想像も生まれたなかったに違いない。情緒性を一切排除した抽象的な記号表現だからこそ、私たちはそれらの奥に向かって具体的に思いを馳せるのである。
あるいは、闇鏡の《100拝》は、ノートを日付によって分割し、それぞれの枠に野菜などのイラストを3つずつ記したもの。ネギ、大根、ナス、じゃがいも、豆腐などのイラストが細かく並んだ絵は、「死刑囚」という条件が連想させるシリアスなイメージとは裏腹に、何ともかわいらしい。これは、その日の食事で供された味噌汁の具材を記録したものだという。死刑囚による絵画表現には、考現学的な調査報告も含まれていたのだ。
本展で浮き彫りになっていたのは、単に死刑囚という特殊な境遇にある者が描いたアウトサイダーアートではない。それは、むしろ人が絵を描く原初的な動機である。これほど、切実に、純粋に、真正面から、絵を描くことができるアーティストが、現在どれだけいるだろうか。アートマーケットなどには目もくれず、アイロニーという逃げ道を拵えることもなく、絵画を理論武装するわけでもない。ただただ、絵を描きたかったのだ。いや、描かざるをえなかったのだ。そのあまりにも透明度の高い絵画は、私たちの不純な視線をあらわにする鏡のようでもあった。思わずたじろぐ私たちを、彼らはどんなふうに想像しているのだろうか。
2013/04/20(土)(福住廉)