artscapeレビュー
飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー
なかしま さや展「Mirror, mirror」
会期:2021/08/04~2021/08/11
ギャラリー ヨクト[東京都]
なかしまさやは「深層心理学や集合的無意識に強い関心があり、スイスでユング派心理学を学んだ」という経歴の持ち主。現在は日本写真芸術専門学校に在学中だが、3月にKiyoyuki Kuwabara AGで個展を開催するなど、このところ積極的に作品を発表し始めている。今回のギャラリーヨクトの展示では、「自己愛性人格障害の母親との葛藤を娘の視点から」描くというテーマ設定で、10点の作品を出品していた。
経歴はユニークだし、発想、技術もしっかりしている。一点一点を丁寧に作っており、数は少ないが作品相互の関連づけた配置もきちんと考えられていた。ただ、全体的にこれを見せたいという切実感に乏しく、絵解きに終わってしまっている作品が多いように感じた。キー・イメージとして設定されているのは、タイトル通り「Mirror(鏡)」なのだが、花などと組み合わせたその描写が、広告写真のブツ撮りのようでリアリティに乏しい。鏡のもつ多義的な役割がうまく表現されている写真もあるので、作品の選択、配置にもう少し気を配って、点数をもっと多めにすれば、一皮剥けたいい作品になるのではないだろうか。
なかしまのような、個性的なバックグラウンドをもった作家は、きっかけひとつで大きく成長する可能性を秘めている。小出しにしないで、自分の内から発するテーマに精神を集中し、一回りも二回りもスケールの大きな作品を見せてほしいものだ。
2021/08/09(月)(飯沢耕太郎)
岸幸太「連荘 1」
会期:2021/07/26~2021/08/08
興味深いことに、岸幸太の個展「連荘 1」に出品されたのもカラー写真だった。岸も渡辺兼人と同様に、これまで多くの作品を黒白写真で発表してきた。15年あまり撮り続けた大阪・釜ヶ崎、東京・山谷、横浜・寿町などの「ドヤ街」の写真を集成して3月に刊行した写真集『傷、見た目』(写真公園林)も、全ページがモノクロームの図版である。
今回の個展からスタートする「連荘」シリーズも、撮影場所、被写体の選択、撮り方はそのまま踏襲されている。「ドヤ街」の街路や建物、路上にちらばり、積み上げられているゴミと現代美術のオブジェの中間形態のような事物、その間を浮遊するように行き来し、所在なげにたたずむ人物たち……。それらをストレートに切り出してくる眼差しのあり方は、黒白写真でもカラー写真でも変わりはない。だが、これまた渡辺兼人の写真と同じく、それらを包み込む空気感が、丸ごと写り込んでいることに大きな違いがある。そのことによって、写真家と被写体の間の距離感がより縮まり、観客(読者)は、岸とともに「ドヤ街」のなかに踏み込んでいくような臨場感を共有することができるようになった。このシリーズも、写真集『傷、見た目』のようにまとまるには時間がかかりそうだが、新たな視覚的体験が期待できそうだ。
これまで黒白写真を中心に発表していた写真家が、カラー写真に移行することが多くなってきた理由のひとつとして、カラープリント、特にデジタル処理によるカラープリントの精度が、以前と比較して飛躍的に上がってきたということも大きいのではないだろうか。モノクロームプリント並みの画像コントロールが可能になることで、その表現の可能性はより高まりつつある。なお、展覧会に合わせて、KULAから同名の写真集も刊行されている。
2021/07/29(木)(飯沢耕太郎)
渡辺兼人 写真展「墨は色」
会期:2021/07/19~2021/07/31
巷房・2[東京都]
記憶している限り、これまで渡辺兼人がカラー作品を発表したことはないはずだ。街歩きのあいだに見出した被写体を、画面上に厳密に配置し、ぎりぎりまでシャープに、しかも濃密かつ豊かなグラデーションで描き切った、ハードエッジな黒白写真こそが渡辺の真骨頂であり、それらを見るたびにいつでも「写真表現の極北」という言葉を思い浮かべていた。その渡辺がカラー作品を発表するということで、期待と不安が交錯するような気持ちで会場に足を運んだ。
そこに出品されていた20点の8×10インチ判のプリントは、「渡辺兼人のカラー写真」そのものだった。被写体も、それらを矩形の画面におさめる手つきも、黒白写真の作品とほぼ変わりはない。いうまでもなく、大きな違いは色がついているかいないかだが、それもあまり気にならない。網膜を刺激するような、原色に近い色味の被写体を注意深く避けているためだろう。
それだけでなく、渡辺は今回のシリーズで、明らかにある意図をもって写真を選んでいる。20点のうち、かなり多くの作品に「雨に濡れたアスファルトの地面」が写っているのだ。その墨のように黒々とした色面に目が引き寄せられる。水に濡れた箇所や水たまりは光を反射し、そのぬめりのある触感が強調されている。むろん、モノクロームでも「雨に濡れたアスファルトの地面」を描写することはできるが、カラー写真のように、風景から生起してくる、官能的とさえいえるような空気感を捉えるのは無理だろう。渡辺はそのことに気がつき、まさに「墨は色」であることの写真的な表明をもくろんで、このシリーズに取り組んだのではないだろうか。
2021/07/29(木)(飯沢耕太郎)
小林紀晴「深い沈黙」
会期:2021/07/20~2021/08/16
ニコンプラザ東京 THE GALLERY[東京都]
小林紀晴は長野県の諏訪盆地の出身であり、子供の頃から冬の山を間近に見て育った。秋から冬にかけて、次第に雪に覆われていくその景色は、もの寂しく、死の匂いを感じさせたが、見続けていると、同時に不思議な安らぎをも感じさせるのだった。そんな「原風景」としての冬山の眺めがずっと気になっていたのだが、ある時ヴァルター・ベンヤミンの以下の言葉を読んで、腑に落ちるものがあったという。
「植物がわずかに葉の音をたてているところにさえ、つねにその嘆きが共鳴している。自然は黙するがゆえに悲しむのである。」 (「言語一般および人間の言語について」[『ベンヤミン・コレクション1 近代の意味』久保哲司訳、ちくま学芸文庫、1995])
小林は、その植物の「深い沈黙」を、自らの記憶や体験を踏まえて捉えようと試みる。こうして、長野だけでなく、福島、山形、青森、北海道などの冬山を撮影した写真シリーズが形をとっていった。今回の展覧会には、そこから11点が厳選され、モノクロームの大判プリントで展示されていた。その選択、レイアウトはとてもうまくいっていたと思う。数が多いと繰り返しが避けられないし、小さなプリントでは、彼が冬山に対峙しているときの思いの深さが伝わりにくいからだ。画面上のグレートーンと漆黒の配合も、繊細かつ丁寧に詰められていた。
このシリーズが、小林の写真家としての軌跡のなかでどのような意味をもつのかはまだわからないが、ひとつの区切りとなる作品となることは間違いない。なお、ふげん社から同名の写真集が刊行された。また、本展は9月30日~10月13日にニコンプラザ大阪 THE GALLRYに巡回する。
2021/07/22(木)(飯沢耕太郎)
大和田良 写真展「宣言下日誌」
会期:2021/07/22~2021/08/15
Roll[東京都]
新型コロナウィルス感染症の拡大にともなう緊急事態宣言は、2021年8月後半現在も、東京をはじめ各地で発令中である。とはいえワクチン接種の加速化もあって、感染者数は増えているものの、昨年4月から5月に第1回目の緊急事態宣言が出された当時の緊張感はもうない。いまふり返ってみると、あの時期に「パンデミック」という多くの日本人にとっては初めての経験にどんなふうに対応したのかは、写真家たちにとってもかなり重要なテーマなのではないだろうか。
今回の「宣言下日誌」展は、そのことにいち早く取り組んだ作例といえる。大和田良は、当時ほとんどの仕事がキャンセルかリモートになり、「巣ごもり」を余儀なくされた。そのことで、逆に「『写真とはなにか』という本来的な関心」に立ち戻らざるを得なくなる。日々の出来事を記したテキストを書き、写真を撮影し(当然、家の中や身近な環境が多くなる)、それらをプリントし、配列していくことで、彼もまた多くの写真家たち同様に「原点回帰」を意識するようになった。
この時期に撮影した写真を、古典技法であるサイアノタイプでプリントしたのもそのためだろう。自分で調合した感光乳剤を紙に塗ってプリントすることによって、手作業を重視してきた写真のあり方を再考することができた。さらに、このプリント技法によって得られる深い青味を帯びたトーンが、当時の気分にぴったり合っていたということもありそうだ。
今回の展覧会は、藤木洋介がプロデュースする新ギャラリーRollのお披露目を兼ねていた。会場には大和田の旧作も並んでおり、そのために企画意図がやや拡散してしまったことは否定できない。「宣言下日誌」だけに絞った方が、よりすっきりとした展示になったのではないだろうか。
2021/07/22(木)(飯沢耕太郎)