artscapeレビュー
飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー
鵜川真由子「LAUNDROMAT」
会期:2021/01/29~2021/02/11
富士フイルムフォトサロン東京 スペース2[東京都]
鵜川真由子は10代の最後の年に初めてニューヨークを訪れ、街や人と共存しているアートのあり方に強い印象を受けた。2015年に仕事で再訪したのをきっかけに、マンハッタン島西部からクィーンズに向かう地下鉄7号線の沿線の街に惹かれるようになる。その辺りはアジアやラテンアメリカ諸国からの移民が多く、それぞれの宗教や文化をバックグラウンドにした、独特の雰囲気を醸し出していたからだ。
2018年からはコインランドリーを集中して撮影し始めた。ニューヨークでは洗濯機のない家が多く、コインランドリーを使う習慣が根づいている。カラフルなバッグに洗濯物を入れてランドリーに通い、洗濯が終わるまでの時間をリラックスしてすごす。店に洗濯物を預け、衣服を畳んでバッグに詰めてもらって持ち帰ることもできる。鵜川は、自分も洗濯しながら、店に来る人たちに話しかけて写真を撮影し始めた。そうやって撮りためた写真をまとめたのが、今回富士フイルムフォトサロン東京で開催された「LAUNDROMAT」展である。
洗濯というのはごく日常的な行為で、普通は家の中で行なわれる。コインランドリーを利用することで、その行為が外に開かれることになる。下着などを含む洗濯物を人目に晒すのは恥ずかしいことのはずだが、ランドリーではあまり気にしなくなる。つまりランドリーは、内向きの顔と外向きの顔とが交錯する面白い場所である。さらに、7号線の沿線のように多様な人種が混淆する地域では、普段は出会いにくい人たちにもカメラを向けることができる。着眼点のいい作品と言えるだろう。ただ、コロナ禍で最後の詰めの撮影ができなかったことの影響は、かなり大きかったようだ。ドキュメンタリーに徹するのか、より個人的な体験に比重を置くのかという選択が、やや曖昧になってしまった。逆にこのシリーズは、さらに展開できる可能性を孕んでいるともいえる。
なお同時期に、東京・青山のNine Galleryでは、ランドリー以外のニューヨークのスナップ写真による「WONDERLAUND」展(2月2日〜7日)が開催された。両展覧会の写真をおさめた写真集『WONDERLAUND』(自費出版)も刊行されている。
2021/02/05(金)(飯沢耕太郎)
写真家 ドアノー/音楽/パリ
会期:2021/02/05~2021/03/31
Bunkamuraザ・ミュージアム[東京都]
ロベール・ドアノーは若い頃、自動車製造のルノー社に雇われていたこともあり、基本的には依頼された仕事をきちんとこなすプロフェッショナルな写真家だった。戦後も雑誌の写真の仕事をずっと続け、有名な《パリ市庁舎前のキス》も『ライフ』誌の注文で撮影した演出写真だった。にもかかわらず、彼の写真には常に自発的、能動的な撮ることの歓びが溢れているように見える。自分の好きな写真を好きなように撮るという、むしろアマチュア的な精神を保ち続けていたという点では、日本でいえば植田正治に近いといえそうだ。
今回の「写真家 ドアノー/音楽/パリ」展には、そんなドアノーの姿勢がよくあらわれた写真が並んでいた。2018年末〜19年にかけて、ドアノーの孫にあたるクレモンティーヌ・ドルディルの企画で、パリ19区のフィルハーモニー・ド・パリ付属の音楽博物館で開催された展覧会を元に、約200点の作品で構成された本展のテーマは、いうまでもなく「音楽」である。「街角」「歌手」「ビストロ、キャバレー」「ジャズとロマ音楽」「スタジオ」「ビュッフェ・クランポンのクラリネット工房」「オペラ」「モーリス・バケ」「1980年代-90年代」の9パートで構成された展示を見ると、ドアノーが「耳の人」でもあったことがよくわかる。写真家だから、当然視覚的な世界に鋭敏に反応するのは当然だが、聴覚も同時に働かせ、いわば全身の感覚を総動員してシャッターを切っていたのではないだろうか。見ることと聞くこととが見事に融合した写真の世界を堪能することができた。
なお小学館から、小ぶりだが目に馴染む、B6変型のカタログ(デザイン・おおうちおさむ/有村菜月)が刊行されている。
2021/02/04(木)(飯沢耕太郎)
川田喜久治「エンドレス マップ」
会期:2021/01/20~2021/03/13
PGI[東京都]
かつて写真集として刊行したり、写真展で発表したりした作品を「改訂」し続ける写真家がいる。東松照明もその一人で、『〈11時02分〉NAGASAKI』(写真同人社、1966)や『太陽の鉛筆』(毎日新聞社、1975)に収録した写真を再プリントし、その掲載順、レイアウトなどを変更し続けた。1959年に、東松ともに写真家グループVIVOを結成した川田喜久治にも、どうやら同じ傾向があるようで、彼の代表作『地図』(美術出版社、1965)を何度となく「改訂」してきた。東松や川田は、新たな解釈によって、作品が生き物のようにメタモルフォーゼしていくこと自体に喜びを感じているのではないだろうか。
川田が今回の「エンドレス マップ」展のリーフレットに掲載した「光と時の寓話―2021」によれば、「地図 The Map」シリーズのプリントは、以下のように変貌していった。「半世紀ほどまえ、まず暗室で薄い複写用紙から始まる。それから、ゼラチン・シルバーにセレン調色、さらにプラチナ・プリントへ、(西丸雅之氏による)つづいて、バライタ紙にピグメント・インクジェット・プリント。いま、手漉きの和紙にピグメント・プリントを試みる。2019年から、3台の違ったインクジェット・プリンターで行われた」。80歳を越えた川田の、新たな可能性を求め続ける無尽蔵のエネルギーには驚くしかない。
結果的に「手漉きの和紙にピグメント・プリント」によって、同シリーズのイメージは大きく変わった。以前のプリントでは、黒白のコントラストを強調することで、画像情報がかなり損なわれていたのだが、高精度のスキャナーとインクジェット・プリンターを使うことで、その細部が浮かびあがってきている。そのことで、写り込んでいるモノの質感、例えば神経繊維を思わせる金属コイルや壁の染みなどの見え方がまったく違ってきた。さらに今回、川田は写真集『地図』に収録されたものだけでなく、アザー・カットを10点ほどプリントしている。トリミングを変更した写真もある。以前の見え方の方がよかったという反応も、当然出てくると思うが、新たなチャレンジによって、まさに「エンドレス」に更新を繰り返す「地図 The Map」の姿が、はっきりと見えてきたのではないかと思う。
2021/01/29(金)(飯沢耕太郎)
下瀬信雄「鬼魅易犬馬難(きみはやすしけんばはかたし)」
会期:2021/01/19~2021/02/01
ニコンサロン[東京都]
タイトルの「鬼魅易犬馬難(きみはやすしけんばはかたし)」というのは『韓非子』に出てくる言葉で、斉王が画工に絵に描くのが難しいものは何かと尋ねたところ、こう答えたのだという。つまり「鬼やもののけ」の類は簡単だが、犬や馬のような当たり前なものを描くのは逆に難しいということで、下瀬はそれが写真にも通じると考えた。たしかに今回のニコンサロンの展示では、日常(犬や馬)のなかに「鬼魅」を見出したような写真が目につく。それらは「街中至る所に出現」しており、しかも「どこか懐かしく、過去の何かに似ている」のだという。街を散策しながら、そんな被写体を見つけ出しては、嬉々として撮影している下瀬の姿を想像すると、展示されている写真がより面白く見えてくる。
本欄でも何度か紹介しているように、下瀬は1944年生まれで、山口県萩市在住のベテラン写真家である。ニコンサロンでも何度となく個展を開催し、「結界」シリーズで、2005年に第30回伊奈信男賞、2015年には第34回土門拳賞を受賞している。だが、常に新たな領域にチャレンジしようとしており、今回もすべてデジタルカメラで撮影しただけでなく、被写体をかなり大胆にシフトしていた。好んで「鬼魅」にカメラを向け、街中で出会った女性たちやマネキン人形の写真などには、強烈なエロティシズムが漂っている。スナップ写真によって、「写された事によって立ち上がる不思議さ」を引き出そうとする意図がはっきりと見えてきた。このシリーズ、さらに続けていくと、彼の写真の世界に別な一面が加わるのではないだろうか。
2021/01/27(水)(飯沢耕太郎)
あざみ野フォト・アニュアル とどまってみえるもの
会期:2021/01/23~2021/02/14
横浜市民ギャラリーあざみ野 展示室1[神奈川県]
毎年開催されている「あざみ野フォト・アニュアル」の一環として、今年は写真家7人による展示が実現した。出品作家は宇田川直寛、川島崇志、木原結花、チバガク、新居上実、平本成海、吉田志穂である。「コ・キュレーター」として1990年代から写真「ひとつぼ展」とその後身の「1_WALL展」をコーディネートしていた菅沼比呂志が加わっていることもあり、両公募企画のグランプリ受賞者、ファイナリストが多い。だが、企画意図としてはデジタルテクノロジーの進展によって、「写真表現の独自性を集約することすら不可能な時代」における、1980年代〜90年代生まれの写真を使うアーティストたちの動向に焦点を絞った企画といえるだろう。同時に、彼らが「コロナ禍という例外的な状況」にどう対応しようとしているかも大きなテーマとなっていた。
ペイントしたダンボールを「風景」に見立てて撮影する宇田川、震災や火山などの「カタストロフィの断片的な物語」を再構築する川島、「行旅死亡人」の架空の肖像をフォトモンタージュで作成する木原、デジタルツールで日常空間の再編成をもくろむチバ、コロナ禍の状況において「ミニチュアハウス」のイメージを増殖させる新居、地方新聞に掲載された写真で「固有名詞を持たない像をつくる」平本、インターネット上の情報や画像と実際に訪れた「山」のイメージとを重ね合わせる吉田――どの作品もさまざまな手法を用いて、よく練り上げられたインスタレーション展示を構築していた。だが、正直あまり面白くない。彼らそれぞれに、作品制作の意欲と動機があるはずなのだが、それがうまく伝わってこないのだ。 出品作家7人に共通しているのは、これまで「写真表現の独自性」と捉えられてきた制作の原理、例えば現実世界の実在性、一回性、個別性などをとりあえず括弧に入れ、操作可能なイメージの束と見なして再構築するという姿勢だろう。いうまでもなく、デジタル化を所与のものとして受け入れることから写真家としての活動を開始した彼らにとって、それはごく自然な選択だったはずだ。だが、デジタル画像がむしろ一般化してしまった現在では、手法のみが一人歩きして、何かを生み出したいという肝心要な動機づけが希薄になっているように感じる。今や「若手」から「中堅」に成りつつある彼らには、殻をもうひとつ破っていくような仕事を期待したいものだ。
2021/01/23(土)(飯沢耕太郎)