artscapeレビュー
飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー
清野健人「地獄谷の日本猿」
会期:2020/10/23~2020/11/03
ニコンサロン[東京都]
長野県下高井郡山ノ内町の地獄谷野猿公苑は、動物写真の愛好家にはよく知られた場所で、温泉に入る猿の群れや雪玉で遊ぶ子猿など、数々の名作が撮影されてきた。逆にいえば、新たなアプローチがむずかしい場所ともいえるのだが、清野健人はむしろ正攻法ともいえる撮り方を貫くことで、逆に新たな方向性を見出そうとしているように思える。
固有名詞化したボス猿、死んだ子を抱き続ける母猿、珍しい白毛の猿などをクローズアップで捉え、周囲の環境と猿の群れとの関係のあり方を手堅く押さえていく。やや珍しいのは、それらをすべてモノクロームで撮影・プリントしていることで、そのことでクラシックな、やや絵画的といえるような雰囲気が生まれてきていた。モノクロームを使ったのは、猿たちの個性を際立たせ、むしろ「肖像」として撮影したかったからだという。その狙いはうまくはまっていて、これまでの動物写真とは一味違う見え方になっていた。ただ、それは諸刃の剣で、抽象度が強すぎると、「地獄谷の日本猿」という具体性、固有性が薄れていってしまう。今後はカラー写真との併用も考えられそうだ。
何度かこの欄で触れたように、日本の自然写真(動物写真)は1980-90年代に岩合光昭、星野道夫、宮崎学、今森光彦らが登場することで、画期的な写真世界を確立した。だが、彼らの業績があまりにも大きかったために、それ以後の世代が霞んでしまったともいえる。だが、そろそろ新たな息吹が形をとってもいいのではないかと思う。1990年生まれの清野もまた、その一人として期待してもいいだろう。
2020/10/29(木)(飯沢耕太郎)
圓井義典「天象(アパリシオン)」
会期:2020/10/15~2020/12/05
PGI[東京都]
「天象(アパリシオン)」というやや聞き慣れない言葉は、圓井義典の解説によれば「星が生まれ、漆黒の闇の中に突如新しい光が出現する現象」なのだそうだ。圓井はそれを写真の出現のプロセスと重ね合わせようとしている。今回のPGIの個展に出品された同シリーズの作品を見て、彼が伝えようとしていることがおぼろげに浮かび上がってきた。
写っているものの多くは日常の事物である。花、空、顔の一部、部屋の片隅、影が落ちる昼下がりの街頭光景、それらは、彼のカメラの前に一瞬姿をあらわし、すぐにフレームの外へと消え失せてしまう。だが展示を見ると、天空の星々の偶然の配置が星座として認識されるように、それらの写真同士が見えない糸で結び合わされているような気がしてくる。圓井はこれまで「光をあつめる」(2011)、「点・閃光」(2016、2018)など、PGIで個展を重ねてきたが、写真の撮影・選択・配置の精度が、格段に上がってきている。
気になるのは展示作品の中に、画像を加工したものがいくつか含まれていることだ。写真の一部を切りとって拡大したり、画像の上のガラスの染みをそのまま写しとったりしたものはそれほど違和感がない。だが、プリント制作のプロセスに介入して、色味を加えた花の連作になると、「天象」を注意深く観察し、厳密に選択・配置する圓井の姿勢がやや崩れているように見えてしまう。このシリーズは、むしろ操作的な写真を省いた方が、すっきりと伝わるのではないだろうか。なお、展覧会に合わせて同名の写真集(私家版)が刊行された。
2020/10/28(水)(飯沢耕太郎)
中西敏貴「Kamuy」
会期:2020/09/19~2020/10/31
キヤノンギャラリーS[東京都]
昨年1月~3月にキヤノンギャラリーSで開催されたGOTO AKIの写真展「terra」を観た時にも感じたのだが、風景写真の新世代が胎動しつつあるようだ。彼らの仕事は、基本的に「花鳥風月」の美意識に則って、箱庭的な日本の自然を細やかに描写してきた前世代とは一味違うスケール感を備えている。今回「Kamuy(カムイ)」展を開催した中西敏貴も、その有力な作り手の一人といえるだろう。
1971年に大阪で生まれた中西は、1989年ごろから北海道に通うようになり、2012年に撮影の拠点を美瑛町に移した。それ以降に撮影された本シリーズは、北海道の森羅万象に先住民族のアイヌが信奉していたカムイ(神)の存在を感じるという彼の思いを、「気配の集積としての風景」として投影した厚みのある作品群となった。
注目すべきなのは、彼が原生林で見出した木の肌、地衣類、菌類などが作り上げる自然のパターンを、アイヌや縄文人の造形物の紋様と結びつけて撮影していることだ。たしかに太古の昔から、人々は自然の造形を彼らの土器や織物や装飾物に取り入れてきたわけで、中西の試みは写真を通じてその歴史を辿り直そうとしているようにも見える。このところ、日本の先史時代への注目が増していることでもあり、中西の仕事も、自然環境だけではなく民族学や文化人類学の領域に伸びていってもいいのではないだろうか。北海道という魅力的なトポスに根ざした、より広がりと深みを備えた写真の世界をめざしていってほしい。
2020/10/24(土)(飯沢耕太郎)
吉川直哉「Family Album」
会期:2020/10/12~2020/10/24
ギャラリーナユタ[東京都]
吉川直哉のような1950-60年代生まれの世代は、家族アルバムに強い思い入れがあるのではないだろうか。父親が折に触れて家族の写真を撮り、母親がそれらにキャプションを付して、アルバムのページに貼りつける。そんな分厚い家族アルバムが、どんな家にも1冊や2冊はあったものだ。だが、1980年代頃から写真を撮る量が増えてくると、アルバムに貼る余裕もなくなり、90年代以降はデジタル化によってプリントすらされなくなった。だから、吉川が母親の死や東日本大震災を契機として、自分の家のアルバムの写真を複写し、「自分についての物語」を確認しようとした気持ちはよくわかる。家族アルバムが、記憶をつなぎとめておくアーカイブの役目を果たしてきたのだ。
だが、今回ギャラリーナユタで展示された「Family Album」シリーズは、単純な複写ではない。写真を斜めに傾け、その一部にピントを合わせて残りをボカしたり、画像の一部だけを切りとったりすることによって、家族の記憶は再構築され、新たな「物語」が立ち上がってくる。それは優れて批評的な写真読解の試みといえるだろう。もうひとつ重要なのは、この「Family Album」が、今年6月に東京・松原の半山ギャラリーで展示された「HOME 家」シリーズと対になる作品だということだ。そちらの展示は見逃してしまったが、展覧会に合わせて刊行された写真集『Family Album』(私家版)には、両シリーズが掲載された。もはや家族の住処ではなくなった奈良市の「家」にカメラを向けた「HOME」では、吉川は、いわば記憶の器としての「家」そのものの姿を浮かび上がらせるように、その細部を克明に描写している。
大阪芸術大学写真学科で教鞭を執り、2016年には韓国・大邱の大邱写真ビエンナーレの芸術監督を務めた吉川は、今回の連続展示で、写真家としての新たな水脈を見出したようだ。
関連レビュー
吉川直哉 展 ファミリーアルバム|小吹隆文:artscapeレビュー(2014年11月01日号)
2020/10/24(土)(飯沢耕太郎)
光─呼吸 時をすくう5人
会期:2020/09/19~2021/01/11
原美術館[東京都]
見に行く前は、出品作家の人選と展示意図がうまく呑み込めなかったのだが、実際に会場を回って、とてもよく練り上げられた展覧会であることがわかった。「手に余る世界の情勢に翻弄され、日々のささやかな出来事や感情を記憶する間もなく過ぎ去ってしまいそうな2020年。慌ただしさの中で視界から外れてしまうものに眼差しを注ぎ、心に留め置くことはできないか」というコメントがチラシに記されていたが、たしかにそのような思いを抱いている人は多いのではないだろうか。「コロナの年」として記憶されるはずの今年は、日常がアーティストにもたらす「ささやか」だが大切な促しがあらためてクローズアップされた年でもあった。その時代の気分を掬いとった本展はまた、40年の歴史を持つ原美術館の最後の展覧会(2021年1月に閉館)にふさわしいものであるともいえる。
出品作家は今井智己、城戸保、佐藤時啓、佐藤雅晴、リー・キットの5名。作風はバラバラだが、日常のディテールに目を凝らし、細やかに定着しようという点では共通点がある。展覧会の総題にもなっている、ペンライトや鏡の反射の光を長時間露光で捉えた佐藤時啓の「光—呼吸」や、福島第一原子力発電所の遠景を30キロ圏内の山頂から撮影した今井智己の「Semicircle Law」シリーズは以前も見ているが、城戸保や佐藤雅晴の作品は初めて見たので印象が強かった。「突然の無意味」をカラー写真で探求し続ける城戸の試みは、さらなる「無意味」へとエスカレートしていってほしい。佐藤雅晴が東京の日常の光景を撮影し、その一部をアニメーションで忠実にトレースした「東京尾行」シリーズは、実写とアニメーションとの微妙なズレが絶妙な異化効果として作用している。昨年、まだ40歳代で逝去したとのことで、惜しい才能だったと思う。
原美術館とハラ ミュージアム アークの建物を題材にした佐藤時啓の「こんな夢をみた─親指と人さし指は、網目のすき間の旅をする─」には、別な意味で可能性を感じる。ドローンで撮影した風景をデジタル変換で3D化して、現実世界と仮想世界との両方に足を掛けることで、ぐにゃぐにゃの軟体動物を思わせる奇妙な眺めが出現してきていた。
2020/10/23(金)(飯沢耕太郎)