artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
見世物大博覧会
会期:2016/09/08~2016/11/29
国立民族学博物館[大阪府]
関西旅行のメインディッシュはこれ、わざわざこれを見に関西まで来たのだ。なぜそんなに見世物に惹かれるのかというと、答えは簡単で、見世物というのは人の気を惹くようにつくられているからだ。でもぼくが惹かれるのはそれだけでなく、見世物は美術の隣接領域にあり、また美術と表裏の関係にもあるからだろう。つまり見世物のことを知ると、おのずと美術の輪郭も浮かび上がってくるような気がするのだ。展示は、見世物小屋を飾った絵看板をはじめ、曲芸、軽業、女相撲、人間ポンプなど出し物のチラシや道具や写真、籠や貝殻を使って人や動物の姿に似せる細工物、からくり人形、生人形、お化け人形、エレキテル、トラやワニの剥製、人魚のミイラ、明治初期の博覧会を描いた浮世絵、そして最後はなぜか寺山修司と天井桟敷の妖しげな世界の紹介で終わっている。こうしてみると、いまではスポーツ、演劇、パフォーマンス、工芸、科学、生物学、博覧会などに細分化されたジャンルが未分化のまま、スペクタクルな見世物として金を取って見られていたことがわかる。美術の隣接領域でいえば、絵看板、細工物、生人形などがあり、これらはいずれもモダンアートが切り捨ててきた胡散臭さやハリボテ感にあふれているが、じつはこうした胡散臭さこそが人を惹きつけてやまないフェロモンだったりするのだ。だからモダンアートが破綻して久しい現在、再びというか、胡散臭い見世物的アートがはびこっているのかもしれない。
2016/11/25(金)(村田真)
リビングルームII ミシェル・ブラジー展
会期:2016/09/16~2016/11/27
メゾンエルメス8階フォーラム[東京都]
リビングルームII ミシェル・ブラジー展へ。植物に覆われたスニーカー、プレイステーション、コーヒーメーカー、かたつむりの動く軌跡がのこるカーペット、箒+植木鉢のインスタレーション、染みのドローイングなど、自然の介入がつくる作品の数々。美術館のホワイトキューブでは許可がでにくい生ものを使うことで、アートへの批評にもなっている。
2016/11/24(木)(五十嵐太郎)
プレビュー:art trip vol.2 この世界の在り方 思考/芸術
会期:2016/12/10~2016/02/12
芦屋市立美術博物館[兵庫県]
芦屋市立美術博物館が、館蔵品とともに現代美術作品を紹介することをテーマに企画した展覧会の第2弾。今回は、河口龍夫、伊藤存、小沢裕子、前谷康太郎を招き、彼らとミーティングを重ねながら展示作品を選定、刺繍、彫刻、アニメーション、映像、光などを駆使する4人の作品のほか、ナウマン象の歯の化石、土器、小杉武久や菅野聖子の美術作品などが展示される。展覧会のテーマは「思考」だ。おびただしい情報が地球上を駆け巡る現在、われわれはさまざまな方法でそれらを取得し、正しい判断ができるよう努めているが、それでも無意識に情報の選択したり、一方的に決めつけている可能性がある。感性を高め、思考力を研ぎ澄ませることで、目に見える向こう側まで思いを馳せることができるのではないか。本展にはそのような意志が貫かれているのだ。国際情勢が混迷を深める現代、美術展を通して物事の見方をトレーニングするのも悪くないかもしれない。
2016/11/20(日)(小吹隆文)
ART PHOTO TOKYO edition zero
会期:2016/11/18~2016/11/20
茅場町共同ビルディング[東京都]
「ART PHOTO TOKYO」は吉井仁美(hiromiyoshii roppongi)をアートディレクターとして、今年からスタートした写真作品のアートフェア。東京・茅場町のもうすぐ取り壊しになるという古いビルの1~3階、8、9階を会場にするという意表をついたアイディアで、意外に面白い展示空間が成立していた。出品しているのは、G/P Gallery、Gallery Koyanagi、ShugoArts、Taka Ishii Gallery、小山登美夫ギャラリー、YUMIKO CHIBA ASSOCIATESなど、普段から写真作品の展示が多いギャラリーが中心だが、MIZUMA ART GALLERYや新宿眼科画廊などの現代美術系のギャラリーも写真を使う作家をラインナップしている。URANOの中島大輔、Gallery SIDE 2の田附勝、無人島プロダクションの朝海陽子など、総花的な展示ではなく1名~3名くらいの少人数に絞ったギャラリーが多かったのもよかった。廃ビルの小さな部屋を巡っていく視覚体験が、宝探しめいた喜びを与えてくれた。
もうひとつの特徴は、「ギャラリーが取り扱うファインアート」だけではなく「ファッションやコマーシャルフォトグラファーの作品も同じステージに」並んでいたことである。主に8、9階に集中して展示されていたレスリー・キー、宮本敬文、柿本ケンサク、桐島ローランド、若木信吾らの作品は、「ファインアート」の写真とそれほど違和感なく溶け込んで、会場全体を活気づける役目を果たしていた。
「edition zero」と銘打った今回の試みが、来年以降も継続されるかどうかはわからない。だが、思い切ったプランを実行できるという意味で、取り壊し前のビルをこうしたアートフェアの会場にするというアイデアは悪くない設定だ。次回もぜひ東京のどこかで実現してほしいものだ。
2016/11/20(飯沢耕太郎)
チャンネル7 髙橋耕平「街の仮縫い、個と歩み」
会期:2016/10/15~2016/11/20
兵庫県立美術館[兵庫県]
注目作家紹介シリーズ“チャンネル”7回目は、京都を拠点として主に映像作品を手がける髙橋耕平の個展。髙橋は、「複製」「反復とズレ」「同一性と差異」といった映像の構造に自己言及的な初期作品から、近年は、具体的な人物や場所に取材したドキュメンタリー的な作品へとシフトしている。この移行によって浮上したのが「記憶」という主題であり、「個人」の記憶から「場所」の記憶や地域の共同体へ、さらにそこにはらまれた歴史的時間へと、作品ごとにフィールドを拡張してきた。
本展での髙橋の関心は、21年前の阪神・淡路大震災の被災という、他者の経験や記憶にどうアプローチできるのかという問いへ向けられている。ただしそれは、被災経験それ自体の主題化ではなく、非当事者として完全な共有や追体験は不可能だからこそ、「誤読」がはらむ創造的な可能性があるのではないかという試みでもある。
展示室に入ってまず目につくのは、展示形態の仮設性、移動性だ。映像作品は広げた毛布や段ボールに投影され、プロジェクターを置く台や鑑賞者用の椅子は、水の入ったペットボトルにベニヤ板を被せた仮ごしらえのものだ。これらは「避難生活や救援物資」を強く連想させる。一方、映像の被写体やインタビュー内容には、震災との直接的な関係は見られない。電動車イスの男性、視覚・聴覚障害者が街を歩く様子や歩行訓練の風景が映され、髙橋は自らの身体を介入させて、彼らの知覚世界の疑似的なトレースを試みる。それは、障害者の歩行という近似値を通じて、快適な都市空間がスムーズな移動を妨げるものに変貌した被災経験へ接近しようとする試みだと理解できる。
一方、写真作品は、キャスター付きの台車の上に貼られて床置きされ、つまづいて蹴飛ばすとコロコロと転がり出しそうだ。鑑賞者の歩みを阻むように置かれたそれらをのぞき込むと、一枚の写真やチラシを地面の上に置いて入れ子状に撮影したものだとわかる。これらは、「阪神・淡路大震災記念 人と防災未来センター」が一般の人々から提供を受けて所蔵する被災資料(の複写)を、2016年現在の神戸や阪神間の路上に置いて撮影したものだ。例えば、《神戸市の路上─電線点検作業》では、電線に上る点検作業員を写した写真が、ひびの入ったアスファルトの上に置かれることで地面の亀裂と視覚的につながって見え、復旧された電線と「地震」の記号的な置換が意味の衝突を引き起こす。《神戸市の路上─積雪》では、地面を覆う雪の「白」が、現在の路上の白いペンキ跡とつながり、関連のない事象どうしが写真の中で等号で結ばれてしまう。また、求人広告や迷子犬の貼り紙などを、おそらくかつて貼られていた場所に置いて撮影したと思われる写真もある。ここでは、形態や色彩を読み替えの因子として元の写真の意味づけや文脈がズラされ、あるいは「かつてあった」場所に再配置されることで、過去が現在へと唐突にも「接ぎ木」されているのだ。
だがそれは、遊戯的で恣意的な次元に留まるものではない。「時間の接ぎ木」の提示は、「過去のある光景を写した写真」が「現在時において眺められる」という、常に遅れや時差を伴った写真の受容経験についての優れた批評である。またそれは、「将来、他人によってこのように眼差されるかもしれない」シミュレーションとして、「震災資料」の見方を「更新」することで、写真における解釈コードが無数に存在しうること、色彩や形態へと恣意的に還元されうる写真の二次元性、現実の場所・物理的コンテクストに根差しつつもそこから分離・切断される矛盾、といった写真がはらむ複数の性質を照射する、
写真についてのメタ的な考察でもある。
こうした髙橋の実践はまた、「震災資料のアーカイブ」をどう活用するか、という倫理的/創造的な問題も含む。通常は、美術作品(の素材)としては見なされない「震災資料」を美術館という場に持ち込むことで、単に「防災」「記憶の継承」といった観点を超えて、どのような創造的作用をもたらすのか。髙橋の試みが成功したのは、今回用いられた「資料」が、公的な記録ではなく、アマチュアの人々が撮影した写真という私的・個人的かつ匿名的なものであったことも大きい。もちろん、震災の経験や記憶それ自体は軽視できないが、元の文脈やキャプション(撮影者の意図、撮影場所、保管されていたアルバムなど)から引き剥がし、「震災資料のアーカイブ」というメタな文脈からも切断し、「震災の記録」として一元化する眼差しを解除して眺めたとき、写真は、その「意味」を決定できない揺らぎや綻びを取り戻し、新たな生を獲得して別の光を放ち始めるのである。
2016/11/19(土)(高嶋慈)