artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
村上仁一『雲隠れ温泉行』
発行所:roshin books
発行日:2015年6月1日
「雲隠れ」という言葉を辞書で引くと「人が隠れて見えなくなること。行方をくらますこと」とある。失踪、蒸発、遁世、いろいろと言い換えられそうだが、社会的なしがらみから逃れて、どこか見も知らぬ土地を、気の向くままに漂泊してみたいという欲求は、日本人のDNAに刻みつけられているのかもしれない。そしてその欲求にぴったりと応えてくれる場所こそ、地方のひなびた湯治場ということになるのだろう。
村上仁一にも、どうやら20代後半の一時期に「俗世間からの失踪願望」があったようだ。休みを利用して全国各地の温泉をほっつき歩いては「とりとめもなく」写真を撮り続けた。それらは2000年の第16回写真ひとつぼ展でグランプリを受賞し、2007年には第5回ビジュアルアーツフォトアワードを受賞して、写真集『雲隠れ温泉行』(発売=青幻舎)が刊行された。村上はその後、カメラ雑誌の編集者として仕事をするようになるが、「温泉行」のシリーズは撮り続けられ、じわじわと数を増していった。それを再編集してまとめたのが、今回roshin booksから刊行されたニューヴァージョンの『雲隠れ温泉行』である。
白黒のコントラストを強調し、粒子を荒らした画像は、1960年代後半の「アレ・ブレ・ボケ」の時代から受け継がれてきたもので、もはや古典的にすら見える。だが、それが時空を超越したような湯治場の光景にあまりにもぴったりしていることに、あらためて感動を覚えた。村上がここまで徹底して「途方もない憧れの念」を形にしているのを見せられると、単純なアナクロニズムでは片づけられなくなってくる。僕らの世代だけではなく、つげ義春や『プロヴォーク』を知らない世代でも、ざらついた銀粒子に身体的なレベルで反応してしまうのではないかと思えてくるのだ。
2015/06/25(木)(飯沢耕太郎)
内海聖史「moonwalk」
会期:2015/06/19~2015/07/12
六本木ヒルズA/Dギャラリー[東京都]
入口から斜め奥に向かって両側に絵を描いたパネルが立てられ、突き当たると急角度で折れ曲がり、奥まで続いてる。つまりV字型に設けられた2枚のパネルのあいだを歩きながら見ていくかたち。パネルには黄色い花か葉が咲き乱れるように描かれ、絢爛たる屏風絵を彷彿とさせる。タブローではなく、かといって固定された壁画でもない、絵画によるインスタレーションの可能性を示唆している。
2015/06/24(水)(村田真)
スター・ウォーズ展
会期:2015/04/29~2015/06/28
東京シティビュー[東京都]
シリーズの衣装や小道具もあるが、ハイライトは、ジョージ・ルーカスが世界中のアーティストに対し「スター・ウォーズ」にインスピレーションを得て描くよう依頼したという絵画。大半がキャンバスに油彩またはアクリルで、写真を見て描いてるせいかスーパーリアルなイラスト風が多い。舞台設定は未来というか宇宙なのに描き方は古典的、というギャップがおもしろい。敵味方が入り乱れる戦闘シーンは、飛び道具こそハイテクだが、構図は昔ながらの戦争画を踏襲している。おまけに年代ものの額縁までついていて、とてもキッチュだ。ケッサクは、デュシャンの《階段を下りる裸婦》をロボットに置き換えたジョン・マットスの《階段を下りるC-3PO》、若き日のジャバに会えるC.F.ペインの《ジャバ・ザ・ハット:高校の同窓会》。この後、札幌芸術の森美術館、愛媛県美術館、静岡市美術館などを巡回するという。公立美術館でやるなよ。
2015/06/24(水)(村田真)
シンプルなかたち展
会期:2015/04/25~2015/07/05
森美術館[東京都]
内覧会のときは気づかなかったけど、今回あらためて見回してみて、これは「博物学」だなと思った。先史時代の石器からモノリス、ダチョウの卵からリンガ、プロペラからブランクーシの彫刻、雪舟の水墨画から杉本博司の写真まで、自然、人工、機械、芸術といったカテゴリーを超越して「シンプルなかたち」を集め、「形而上学的風景」「宇宙と月」「幾何学的なかたち」「動物と人間」などに分類し直し、新たな秩序を構築しようとしている。これは矛盾してるようだが、洗練された「ヴンダーカマー」の試みだ。
2015/06/24(水)(村田真)
畠山直哉『陸前高田 2011-2014』
発行所:河出書房新社
発行日:2015年5月30日
本書の巻末におさめられた畠山直哉のエッセイ「バイオグラフィカル・ランドスケイプ」を読んで、東日本大震災の過酷な体験が彼に与えた傷口の大きさと、それを契機にした彼自身の変化についてあらためて思いを巡らせた。「大津波によって、僕は自分が、なんだか以前より複雑な人間になったと感じている」と彼は書く。このややシニカルにも聞こえかねない言い方は、当然彼の写真にもあらわれてきている。写真もまた「より複雑」になり「気むずかしい」ものになっているのだ。
一見すると、震災後の故郷、岩手県陸前高田市の風景を淡々と記録し続けた写真の集積のようだが、「20110319」から「20141207」まで、日付が小さく右下に付された写真集のページを繰っていくと、写真家が何を見てシャッターを切っているのか(逆にいえば、何を写さないようにしているのか)、その選択の積み重ねが、息苦しいほどの緊張感をともなって感じられてくる。震災直後の凄惨なカオスの状況は、半年も経つと日常化し、「ほっかほっか亭」や「希望のかけ橋」が出現し、2012年8月には「気仙川川開き」の行事が復活してくる。とはいえ、むろん故郷が震災前に戻ったわけではない。視界には根こそぎすべてが流失してしまった海沿いの土地と、低い土地から移転するために山を崩して造成されつつある空虚な空間が、黴のように広がっている。それらを見ながら、われわれもまた畠山とともに「わからない。わからないけど……」と自問自答せざるを得ない。いや、むしろ「わからない」ことを何度でも確認するために、過去の記録として整理され、忘れ去られていくことを潔癖に拒否し続けるためにこそ、この写真集が編まれたといってもよいだろう。
震災という大きな出来事と畠山自身の「個人史」、それらを「膠着」させ、分かちがたいものとし、彼にとっても読者にとっても「手に負えないもの」として保持し続けようという強い意志が本書には貫かれている。震災が決して終わらない(続いている)のと同様に、この陸前高田を舞台とする「バイオグラフィカル・ランドスケイプ」もまだ続いていくのだろう。それを見続け、考え続けていきたい。
2015/06/24(水)(飯沢耕太郎)