artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

ニッポンのマンガ*アニメ*ゲーム展

会期:2015/06/24~2015/08/31

国立新美術館[東京都]

戦後日本のマンガ・アニメを牽引してきた手塚治虫が亡くなったのは、1989年のこと。同展はそれ以降の日本のマンガ、アニメ、ゲームを概観するもので、これはそのまま平成のサブカルチャー史に重なる。ま、どっちにしろ鉄腕アトム世代のぼくにはほとんど無縁の世界だが、そんなおやじの目で見ると、いまはどのマンガもアニメも似たり寄ったりの絵に見えてしまう。テーマやストーリーは恐ろしく多様化してるはずなのに、絵が均質化しているように思えてならないのだ。それは、なにか売れ線の平均像みたいなものが設定されて、それ以下が切り捨てられ、表現の幅が結果的に狭ばめられてるからじゃないか。玉石混淆だった昔とは違い、いまのメディアに登場する絵はあらかじめ淘汰された優良種だけなのだ。さて、展示に関していうと、この展覧会に限ったことではないけれど、空間の使い方がもったいないなあという気がする。もともとマンガやアニメは美術館で展示したり、原画を公開したりすることを前提につくられてないんで、見せ方にもっと工夫が必要でしょうね。

2015/06/23(火)(村田真)

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Konohana's Eye #8 森村誠「Argleton -far from Konohana-」

会期:2015/06/05~2015/07/20

the three konohana[大阪府]

書籍や新聞などの印刷物や辞書といった情報媒体から、一定のルールに従って、ある文字を修正液で消したり、カッターで切り取った作品を制作してきた森村誠。個展タイトルの「Argleton(アーグルトン)」とは、2008年にGoogleマップ上で発見された実在しないイギリスの町のこと。現地の店舗などの情報が書き込まれたことで、この架空の町が実在するかのような状況がインターネット上に出現した。本個展で森村は、関西圏の地図、分譲住宅のチラシ、タウンページといった様々な情報媒体を素材に用いて、断片の接合と情報の消去という操作を加えることで、「架空の町」を出現させている。
出品作のなかでも秀逸なのが、《OTW》(「on the way」の省略)と題されたシリーズ。地図の断片をJRの路線だけが繋がるように縫い合わせ、それ以外の路線や文字情報は全て修正液で白く塗りつぶされている。「on the way(途中で)」というタイトルが示すように、この架空の地図作成の作業はまだ未完成であるようなポーズが取られている。縫い合わされた地図は刺繍枠にはめ込まれたままであり、糸の通った針がぶら下がっているのだ。それは、想像の世界をどこまでも延びていく夢の線路という楽しげな連想を誘うとともに、不動産事業や土地開発、マイホームの夢とともに際限なく拡大していく郊外の姿を思わせ、情報の更新や修正によって現在の地図が将来的には「虚構」へと転じていく可能性を示唆する。
だが、インターネット上の情報とは異なり、白い修正液の消し跡は、何らかの情報の削除を視覚的痕跡として残してしまう。「図」として浮かび上がる路線の背後に存在する、白い点の連なりや、血管のように絡まり合う白い線。それらは、もう一つの架空の地図を亡霊のように浮かび上がらせるとともに、情報の削除や隠蔽という行為が行なわれたことを(不在によって)物語る。それは、例えば軍事関連施設の情報が消された地図のように、権力による情報管理をほのめかす。あるいは、近代以降の鉄道網の整備や拡張もまた、経済的発展とともに軍事的要請と強く結びついていた。そうした視点から《OTW》シリーズの作品を見たとき、国家の領土という巨大な身体を流れる血管として、人や物質を運搬する鉄道網が張り巡らされ、そのほかの周囲の情報はすべて隠されていくという不穏さを感じてしまう。
手仕事の繊細さや法則性の発見の面白さに加えて、情報の不確かさや更新にともなう虚構との境界線の曖昧さ、さらには地図や鉄道網をめぐる情報管理への言及を潜ませた展示だった。

2015/06/21(日)(高嶋慈)

Ludwig Goes Pop

会期:2015/02/12~2015/09/13

mumok[オーストリア、ウィーン]

続いて、mumokへ。これも外と内の印象が違い、入るとファサードの皮膜性を露わにする空間が視界に広がる。「Ludwig Goes Pop」展は、ポップアートの教科書のような展示である。当時のアーティストとロックの関わりから、ビートルズの「サージェント・ペパーズ」やローリング・ストーンズなどのアルバムジャケットも紹介する。むしろ印象に残ったのは、ウィーン・アクショニズムの展示企画だった。知識としては彼らの過激な身体表現を知っていたが、これだけまとまった映像と写真で見るのは初めてである。ぐちゃぐちゃ、エログロ、自傷、裸体、内蔵、スプラッタ、糞尿まみれ。彼らの活動を超えるのは大変だろう。若き日のアブラモヴィッチの姿もあった。

2015/06/20(土)(五十嵐太郎)

山本浩貴「他者の表象 あるいは 表象の他者」

会期:2015/06/20~2015/07/05

京都芸術センター[京都府]

京都芸術センターのアーティスト・イン・レジデンス・プログラム2015の成果発表展。「移住」をテーマに、約1ヶ月間の京都滞在でのリサーチに基づく作品が発表された。宗教社会学専攻という出自を持つ山本は、ロンドンの大学で学びつつ、国内外でのレジデンスを経験するなど、彼自身が複数の国や文化圏を「移動」しつつ制作してきた。
出品作《移動する人々と街を歩く》は、作家が「様々な国や文化圏の人たちに3つのお願い」をして制作された。(1)作家を京都で自分の好きな場所に案内し、その様子を自由に撮影する、(2)自分が撮りたい人物のポートレートを撮影する、(3)京都市国際交流協会の職員やボランティアの方に自由にインタビューする、というのが依頼内容である。(1)・(3)の記録映像と(2)のポートレート写真が、3つの壁面に1セットずつ展示された。
山本は、カメラとともに撮影の主体性を協力者たちに委ねる。だが画面上には、彼/彼女たちの姿は一切映らない(映されない)。加えて、彼/彼女たちが何者であるかは、(会話内容から部分的に推測されうるものの)明示されない。ポートレートもまた然り。キャプションが一切ないため、国籍、性別、年齢、社会的立場に関する情報はすべて伏せられている。何者かわからない、帰属先を明確にカテゴライズできない「他者」の存在や思考に向き合うことは可能か。作品の要請をまずはこのように解釈できるだろう。
だが本展で気になったのは、展示方法の形式的側面である。計6つのモニターの映像にはヘッドホンが用意されていないため、それぞれの音声が混じり合い、展示室に入ると雑踏のざわめきのなかに足を踏み入れたかのように感じるのだ。それは、複数の異質な声が重なり合い干渉し合う、一種の擬似的な公共空間を展示室の中に呼び入れようとする戦略だろう。しかしその一方で、一つひとつの「声」は非常に聴き取りにくくなってしまう(スピーカーを使わず、モニターから流れる音声であることも一因)。したがって、会話の内容を把握するためには、「日本語字幕」に頼らざるをえない。彼/彼女らから発せられる肉声、とりわけ非-母語での発話行為が含むニュアンス(言葉を選んで言いよどむ時間やアクセントの微妙な差異など)は捨象され、情報として整えられた「字幕」を読む行為に還元されてしまうのだ。結果として、表象によるカテゴライズを介さない「他者」への困難な接近は、滑らかに表面を漂う「日本語字幕」によってバリアーのようにはね返され、モニター越しに隔てる境界線が引かれてしまったのではないか。

2015/06/20(土)(高嶋慈)

金サジ「STORY」

会期:2015/06/16~2015/06/21

アートスペース虹[京都府]

斬られた首から溢れんばかりの赤い花がこぼれ落ち、傷口から新たな生命を生み出すニワトリ。斧を構える半裸の男は、縄やワラ、垂れ下がる白い紙で頭部を覆われ、半人半神のような呪術的な雰囲気をまとって立つ。美しい刺繍の髪飾りとチマチョゴリを身に付けた少女は、クマの頭をしている。不気味な形の枝を持ってたたずむ、中性的な容貌のシャーマン。セミの抜け殻の山から生え出た、一輪のハスの花。黒い背景に浮かび上がる彼らは、生/死、動物/植物、人間/動物、人間/神、男性/女性など、二つのものを媒介する使者のような存在だ。
写真家の金サジは、緻密に構成した神話的世界を、西洋絵画における肖像画や宗教画を思わせる図像として差し出す。フレスコジクレープリントという特殊なプリント技法によるマットな質感が、絵画的な効果をより高めている。一方で、克明に写し取られた布地の陰影や細部のディティールにより、彼女の描く物語世界の登場人物たちは、黒い背景のなかから強い実在感とともに浮かび上がる。これら象徴性と謎を合わせ持ったイメージは、さまざまな連想を誘い、いくつもの神話や民話のなかのイメージと断片的に響き合いながら、汎東洋的とも言うべき混淆的な世界を形づくる。作家によれば、直感や夢で見たイメージ、かつて読んだ物語の記憶などが混ざり合った、自身のための「創世の物語」であるという。
「神話」や「民話」は、ある共同体の形成と密接に関わるものであり、時にナショナリズムを強固に構築する母体ともなってきた。だが金は、自身が身を置く複数の文化の記憶に触れながら、そこに私的な記憶や空想を織り交ぜることで、特定の「国」「民族」の枠組みに囚われることのない、死と生命、再生についての根源的な物語を紡ぐことの可能性を告げている。そこでは、さまざまな境界が混じり合ってイメージの強度を立ち上げ、生と死もまた反転しながら繋がり合っているのだ。

2015/06/20(土)(高嶋慈)