artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
中島麦「カオスモス ペインティング」
会期:2015/06/29~2015/07/11
GALLERY AMI-KANOKO[大阪府]
大阪・千日前の、酒場や風俗店が居並ぶ界隈に位置するGALLERY AMI-KANOKOで、中島麦が個展を開催した。彼が近年手掛けている《カオスモスペインティング》は、カラフルなドリッピング作品と単色の作品を、一対あるいは複数の組み合わせで構成した絵画シリーズである。中島は同作を、1階のホワイトキューブと2階の床の間に配置。絶妙なバランス感覚を発揮して、この場でしかありえない美しい空間を創出した。特に床の間の展示が素晴らしかったが、これは和室の基本単位である3尺×6尺を基に作品サイズを定めたことが奏功したと思われる。また本展では、画廊周辺の店舗や廃屋にも作品が掛けられた。画廊(あるいは美術)という制度の境界をなし崩しにするこの試みも、千日前の猥雑な土地柄と相性が良く、とても効果的だった。
2015/06/29(月)(小吹隆文)
大石茉莉香「Q0Q0Q0Q0Q0Q0Q0Q0Q0…」
会期:2015/06/23~2015/06/28
KUNST ARZT[京都府]
大石茉莉香はこれまで、崩壊する世界貿易センタービルや市街地を飲み込む津波など、メディアに大量に流通した報道写真を巨大に引き延ばし、解像度の粗い画像の上に銀色のペンキでペインティングする作品を発表してきた。本個展のタイトルは、画像の構成単位であるセルやドットを、Questionを意味する「Q」の形へと変換する行為を意味すると考えられる。
出品作に用いられているのは、東日本大震災直後に「ひび割れた日の丸」のイメージを表紙に掲載した米誌「ブルームバーグ・ビジネスウィーク」の画像と、それに対する在ニューヨーク総領事館の抗議を伝える新聞記事。外部からの客観的な視線と、共同体内部での象徴的存在。同じ記号をめぐる反対の視点を効果的に対置し、その視差を浮かび上がらせる。だが、メタリックな銀色のペンキの滴りで覆われたそれらは、下に隠されたものを「見たい」欲望をかき立てつつ、光の反射によって見ることは阻まれてしまう。
また、壊れたTVに、「日の丸」の映像、地上波放送、電源ONの状態の画面が映し出されるインスタレーションも展示された。液晶が死んだ部分が黒くなり、ひび割れのようなラインが走り、色とりどりのバーに浸食されていく画面。地上波放送を流しているはずの画面は、サイケデリックな映像の波と化す。瀕死状態の画面は、メディアの末期症状への比喩となる。メディアの透明性への疑いを、美しくすらある壊れ方で示すこと。TV番組を流す画面を磁石で変調させた、ナム・ジュン・パイクのヴィデオ・アート作品《プリペアドTV》を想起させる。
「社会的共有」を目指して配信され、「情報」として浸透したイメージの表面に裂け目を入れ、印刷されたドットやセルの集合、電気信号で構成されていることを露呈すること。物質性へと還元しつつ、そこに美的な相を見出すこと。大石の作品は、描画という身体的行為/機械の故障による偶然性の介入という2つの方法を用いて、メディアの透明性に対する批評の強度を獲得していた。
2015/06/28(日)(高嶋慈)
「視点の先、視線の場所」展
会期:2015/06/21~2015/07/05
実在する場所に赴いてフィールドワークやリサーチを行ない、場所の認識や眼差しの向けられ方について絵画/写真というそれぞれの媒体において考察している、来田広大と吉本和樹。二人展という枠組みによって、両者の問題意識の共通点と差異がクリアに浮かび上がった好企画。
来田の絵画が対象とするのは、富士山と会津磐梯山という「山」。実在物としても私たちの認識においても「山」という具体的で堅固な存在は、視点の空間的移動によって、複数の見え方を獲得する(Google Earthの衛星写真を元に描かれた真上からの俯瞰図、それぞれ反対側から描いた同じ山並みを表/裏に配した絵画、360度のパノラマを分割した画面)。だがそれらは、複数の視点の並置によって同一性を引き裂かれつつ、身体性という契機によって再び実在感をともなって迫ってくる。ストロークの痕跡を露わに残し、画家の身体性を強く感じさせるチョークを用いて描かれ、また添えられた写真やスケッチが「現地に行った」ことの証左となるからだ。
一方、吉本は、「ヒロシマ」として半ば記号化され、歴史的意味の重圧を負わされた広島という場所に向けられる視線を、写真を用いて批評的に問い直す。吉本は、「平和記念公園」という特殊な場所を、植物、建築物、人間という3つの要素に分解し、図鑑のように即物的に撮影し、採取する。モニュメントや彫像と異なり、ほとんど視線を向けられることのない公園内の樹木や植え込みを丁寧に撮影してみること。原爆死没者慰霊碑を、アーチの奥に原爆ドームを臨むおなじみのアングルではなく、真横から即物的に撮ってみること。特に秀逸なのが、「原爆ドームを撮影する人」の後ろ姿を撮影したシリーズである。思い思いにカメラを向ける人々の背中と裏腹に、彼らの視線の先にある「原爆ドーム」自体は写されず、フレームの外に放逐されている。吉本は、眼差す行為それ自体にメタ的に言及し、「(過剰なまでの)眼差しを向けられる場」であることを示しつつ、眼差しの対象を再びイメージとして奪取することを拒絶する。それは、表象として切り取り固定化しようとする政治性への抗いであるとともに、被爆から70年が経過した現在、被爆という歴史的事実の「遠さ」「見えにくさ」を指し示す。ちょうど、補修工事のために鉄骨の骨組みで覆われ、「見えにくい」原爆ドームを写した写真が暗示するように。
2015/06/28(日)(高嶋慈)
月が水面にゆれるとき
会期:2015/06/27~2015/08/22
京都市立芸術大学ギャラリー@KCUA[京都府]
木藤純子、曽谷朝絵、中村牧子、和田真由子が出品した本展。チラシの文面によると、本展のきっかけは「全国的に美大で女子学生の割合が増加しているのに、女性アーティストが顕著に増加していないのは何故だろう」、「美大を卒業した女性アーティストたちは何処へ向かおうとしているのか」(筆者要約)という素朴な疑問であるようだ。しかし、実際の展示はテーマ主義ではなく、各作家がそれぞれのスペースで自作を披露するオーソドックスな形式が取られていた。上記の問題意識への言及は、もっぱらトークイベントでフォローされていたようだ。4作家のうち3作家はすでに何度も作品を見たことがあるが、東京を拠点とする曽谷朝絵だけは詳しく知らなかった。彼女は絵画6点と《宙(そら)》と題した映像インスタレーションなどを出展したが、作品はどれも素晴らしく、彼女の作品を知ったことが私にとっての成果であった。
2015/06/27(土)(小吹隆文)
舟越桂「私の中のスフィンクス」
会期:2015/06/27~2015/08/30
兵庫県立美術館[兵庫県]
筆者が舟越桂の作品を知ったのは1990年前後だが、そのときの驚きをいまも新鮮に覚えている。その木彫の半身像は、自分たちと同じような髪形をし、服を着ていた。彫刻なのに着色され、遠くを見つめる目には透き通った玉眼が嵌められていた。つまり舟越の作品には、同時代の等身大の価値観と日本の木彫の伝統が違和感なく同居していたのである。その後は断片的にしか彼の作品に接することがなく、進行する異形化を前に途方に暮れることもあったが、本展によりやっと彼のキャリアを一本の線として捉えることができた。展示はほぼ時系列で構成され、胴体が山のようになっていく過程やスフィンクス登場の必然性がおのずと理解できる。また、木彫作品の周囲には関連するドローイングが配置され、木彫とドローイングの深い関係も理解できた。総点数は、彫刻約30点、ドローイングなど約40点。少ないかと思ったが、実際はこれで十分、お腹がいっぱいになった。やはり彫刻の展示は空間を贅沢に取るべきだと、改めて実感した。
2015/06/27(土)(小吹隆文)