artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
荒木経惟「Birthday 75齢 2015.5.25 写狂老人A 鏡の中のKaoRi」
会期:2015/05/25~2015/06/20
タカ・イシイギャラリー フォトグラフィー/フィルム[東京都]
恒例の荒木経惟のタカ・イシイギャラリーでの「Birthday」写真展である。今年は例年に増して意欲作が並んでいた。
展示作品は、室内でオブジェを中心に撮影したカラー作品53点と、日付入りコンパクトカメラによるモノクロームの「私日記」119点。鏡文字のタイトルにあわせるように、プリントもすべて左右逆になっている。つまり「鏡の中」の世界を撮影したということだが、実際にはプリントする時にネガを「裏焼き」しただけのようだ。とはいえ、この単純な仕掛けによって、虚実が逆転して奇妙な浮遊感を感じさせる反世界に引き込まれるような気がしてくる。モノクローム作品には、さらに工夫が凝らされていて、画像は全部反転しているのに、日付だけが正像、しかもすべて「25 2 21’」になっている。この日付をどうやっていれたのかが、どうもよくわからない。「’12 2 52」と入れて撮影したのかと思ったのだが、「2」を鏡文字で入力するやり方がわからないのだ。小さな思いつきを積み重ねていきながら、見る者をいつの間にか魔術的な世界に引き込んでいく荒木の手腕が、いつも以上に絶妙に発揮された作品群といえるのではないだろうか。昨年以来の創作意欲の高まりが、まだ続いているということだろう。
なお、展示にあわせて『アサヒカメラ』6月号が荒木特集を組んでいる。また、タカ・イシイギャラリーから同名の写真集も刊行された。352ページ、173点を収録。小ぶりなソフトカバー写真集だが、町口覚のデザインワークが冴え渡っている。
(タイトルは鏡文字)
2015/06/18(木)(飯沢耕太郎)
江戸の悪
会期:2015/06/02~2015/06/26
太田記念美術館[東京都]
大盗賊や侠客、そして悪女や毒婦。本展は、浮世絵に描かれた「悪人」に焦点を当てた企画展。三代歌川豊国、歌川国芳、月岡芳年らによる80点あまりが展示された。いずれも意匠性の高い浮世絵によって悪の魅力が凝縮した展覧会で、たいへん見応えがあった。
注目したのは、悪人たちによる悪行の数々を描写した作品がある一方で、捕らえられた彼らが公開の場で厳しく処罰される様子が描かれた作品も数多いという事実である。石川五右衛門が釜茹の刑に処されたことはよく知られているが、歌川国芳による《木下曽我恵砂路》を見ると、わが子を両手で抱えながら断末魔の雄叫びを上げる五右衛門を大勢の人々が見守っているのがわかる。いや、見守っているというより、見物しているというべきかもしれない。事実、同じ国芳による《恋模様振袖妹背》には、お縄を頂戴した八百屋お七を取り囲む大勢の民衆が描かれているが、彼らの視線は明らかに好奇と憐憫、侮蔑が含まれている。
悪人を処罰する現場を可視化したうえで共有すること。これは一方では、前近代的な、つまり非常に野蛮で恥ずべき文化的習俗のひとつなのかもしれない。だが他方で、これは、そうすることによって正と悪を峻別する境界線を共同体の構成員のあいだで確認し、結果として社会秩序を更新する儀式としても考えられる。そして、このような現場を劇的に描写したこれらの浮世絵が、そうした儀式を象徴的に再生産する社会的装置として機能していたことも想像に難くない。
だが、浮世絵は社会の異分子を排除する政治学を実践していただけではない。それは、悪人への共感といえば言い過ぎになるかもしれないが、ある種の魅力を隠さないメディアでもあった。なによりも悪人たちが着こなす着物が、小粋でかっこいい。悪人たちは明らかに審美的な対象として描写されていたのだ。だが、それだけではない。月岡芳年による《新撰東錦絵 鬼神於松四郎三郎を害す図》は、女盗賊のお松による復讐劇を描いた作品。旅の道中で巡り会った仇敵の四郎三郎の親切心につけ込み、彼の背に乗って川を渡るが、突然小刀を振りかざして彼の首元を狙う。気配を察して恐怖に慄く四郎三郎の歪んだ顔とは対照的に、当のお松はいたって冷静な表情を保っているが、激しく波打つ川面やそこから慌てて飛び立つ2匹の水鳥がお松の並々ならぬ激情を代弁しているかのようだ。ここには悪人の悪行を咎める一面はまったく見受けられず、むしろ積年の怨みを果たす復讐劇のカタルシスがあるとさえ言える。
悪への戒めと赦し。本展で発表された浮世絵のなかには、悪に対する両義性がはっきりと現われていた。これを日本人独特の精神性と断言することは早計にすぎよう。しかし、改めて本展に展示された浮世絵を見直してみると、そこにはそのような両義性を可能にする幅と厚みのある世界観が通底しているように思われた。例えば三代歌川豊国による《梨園侠客伝喧嘩屋五郎吉》は主題である侠客の肉体に描かれた鮮やかな花と、その背景に描かれた小鳥と草花が、それぞれ有機的に結びつき、一体化しているように見えた。同じ豊国の《梨園侠客伝朝比奈藤兵衛》にしても、着物の中の小鳥が、背景に走る雷に慄いているようにしか見えない。近代的な思考法によれば、地と図は明快に切り分けられるが、浮世絵においては双方の境界線はそれほど厳密ではなく、互いに重複し、融合し、ひとつの全体を構成しているのである。
竹内整一が的確に指摘したように、日本語においては受動性を表わす「自ずから」と能動性を表わす「自ら」が同じ「自」という言葉に由来する。このような言語環境のもとに浮世絵があったことを考えると、悪に対する両義性が論理的にも心情的にも成立していたことは想像に難くない。悪が悪であることに変わりはないし、悪を社会から排除する必要性も揺るがない。しかし、その悪が、時と場合によっては、こちらにも及んでくることを、浮世絵を嗜んでいた当時の人々は、経験的に知っていたのではあるまいか。路上の片隅から政治の中枢まで悪がはびこる現在、こうした経験から学ぶことは多い。
2015/06/18(木)(福住廉)
鈴木崇「Form-Philia」
会期:2015/05/29~2015/07/12
IMAギャラリー[東京都]
これはどこから説明していけばいいのか。微視的レベルからいえば、さまざまな色とかたちのスポンジを組み合わせた写真で、背景は真っ黒。それが縦10センチほどの小さなパネル仕立てになっていて、長さ10メートルほどの壁に300点近く並んでいる。個々のイメージは構成主義的でありながらカワイイし、小さな箱のような1点1点の作品もフェティッシュな欲望を刺激し、全体のインスタレーションもミニマルで美しい。3段階に楽しめる作品だ。その横には建築や都市風景を横につなげた写真や、ペットボトルの影のような写真もあって、3人展かと思ったら個展だった。建築的思考も備えた写真家だ。
2015/06/17(水)(村田真)
深瀬昌久「救いようのないエゴイスト」
会期:2015/05/29~2015/08/14
DIESEL ART GALLERY[東京都]
深瀬昌久は2012年に78歳で亡くなった。1992年に事故で倒れて以来、ずっと療養生活を送っていたのだが、ついに社会復帰はかなわなかったのだ。その間、深瀬の作品の管理は「深瀬昌久エステート」がおこなってきたが、複雑な事情を抱えて機能不全に陥っていたため、展覧会や写真集の出版などの活動も途絶えがちになっていた。深瀬の没後、遺族の元にネガとプリントがいったん返却されることになり、準備期間を経て、その管理団体としてあらためて発足したのが「合同会社深瀬昌久アーカイブス」である。今回、東京・渋谷のDIESEL ARTGALLERYで開催された「救いようのないエゴイスト」展は、そのお披露目として開催されたものだ。
展示は「屠」(1963年)、「烏・夢遊飛行」(1980年)、「家族」(1971年~89年)、「私景」(1990~91年)、「ブクブク」(1991年)、「猫」(1974~90年)の6部構成、82点。代表作だけでなく、カラー多重露光による「烏」シリーズの異色作「烏・夢遊飛行」や、のびやかなカメラワークが楽しめる「猫」など、ほぼ未発表の作品も並んでいる。今回の展示のタイトルである「救いようのないエゴイスト」というのは、「アーカイブス」のメンバーでもある深瀬の元夫人、深瀬洋子(現姓は三好)が『カメラ毎日』別冊『写真家100人 顔と作品』(1973年)に書いたエッセイに由来する。だが逆に「エゴイスト」に徹することで、ここまで凄みのある作品に到達できたことがよくわかった。
「深瀬昌久アーカイブス」は、今後展示活動だけでなく、出版なども積極的におこなっていくという。今回の展示にあわせて、SUPER LABOから写真集『屠』が、roshin booksから猫の写真集『Wonderful Days』が刊行された。海外での展示も、今年のアルル国際写真フェスティバル、来年のテート・モダンでのグループ展参加などが決まっている。深瀬昌久の作品世界が、若い世代を含めて、より大きな広がりを持って受け入れられていくことを期待したい。
2015/06/17(水)(飯沢耕太郎)
原田賢幸×山田裕介「あったもの。なくなったもの。おもいだせないもの。」
会期:2015/06/06~2015/06/28
高架下スタジオ・サイトAギャラリー[神奈川県]
ふたりの作品が混在しているが、全体でひとつの作品というわけではなさそうだ。原田は冷蔵庫の上半分を台の上に載せ、時間が来るとドアが開き、4カ所のスピーカから間延びした声が聞こえてくるというインスタレーション。山田は計4点の出品で、サイズも形も異なる4枚の鏡を壁から少し離して吊るし、モーターでわずかに動かしたり、壁に窓をつくって奥にモニターを仕掛け、映像を流したりしている。なにかおもしろそうなんだが、作品に没入する以前にコードが見えたり、窓枠が少しズレてたりするところが気になってしまう。この仕上がりの甘さこそ山田が大物であることの証かもしれないが。
2015/06/16(火)(村田真)