artscapeレビュー

その他のジャンルに関するレビュー/プレビュー

高橋孝一 付録の構造

会期:2017/05/22~2017/06/16

株式会社紙宇宙 ショールーム[東京都]

雑誌の付録というものは、本来それを目当てに買うものではなく、必要なものでもないし、必ずしも実用的なものではなかったりするのだけれども、なにかが付いてくるということ自体にワクワクさせられるものがある。ただオマケだからということではなく、その企画でしか手に入らないオリジナルというところが心をくすぐるのかもしれない。本展は、高橋ペーパーデザインを主宰する「ペーパーアーキテクト」高橋孝一氏(1940-)が手がけた集英社の少女マンガ雑誌『りぼん』の付録デザインを紹介する展覧会。1994年に少女マンガ誌史上最高発行部数255万部を達成した『りぼん』の人気のひとつは、付録の存在であったともいわれている。高橋氏が『りぼん』の付録デザインを始めたのは昭和50年代。毎号数点が付属する付録のうち、高橋氏が手がけたのはペーパークラフトによる小物類だ。レターラック、ギフトボックス、ポケットティッシュケース、ペンケース等々、毎号工夫を凝らした付録が、組み立て前の紙の状態で挟み込まれ、子供たちは説明に従って自分たちで型を抜き、紙を折り、挟み込み、組み立てる。あらかじめ糊付けされたパーツが含まれる場合もあるが、制作にはハサミも糊も必要ない構造になっている。毎号5社ほどが数点ずつプレゼンテーションを行ない、採用が決まると編集部が漫画家にイラストを依頼し、実制作がスタートする。付録のデザインが決まるのは雑誌発行の半年も前。たとえばクリスマス用のギフトボックス「香澄ちゃんツリーボックス」(1986年12月号)のデザインは7月初めに決定されている。
展示品は、高橋氏が手がけた付録の実物、図面、プレゼン時の写真(図案はなく、構造のみのダミー)。なかには帯が付いたまま組み立てられていない付録もある。集英社から高橋氏のもとに送られてきた複数の完成品が、そのままの状態で大切に保存されているのだそうだ。そして今回の展示でなによりも素晴らしかったのは、展示されている付録を手にとり、もとの一枚の紙の状態に戻して再度組み立てる体験ができたことだ(それが可能なのは、高橋氏の作品が糊を使わずに組み立てる構造だからだ)。組み立ててゆくに従って、柔らかい紙が強度を持った構造に変化するさまには、今更ながら驚かされる。強度だけではない。たとえば「結ちゃんデイリーボックス」(1986年6月号)は、蓋を閉めるとカチンという気持ちの良い音がする。これが紙だけで、それも子供たちが簡単に組み立てられる構造として実現されているのだ。特殊な形をしたボックスでは紙の余白を無駄にせず、キャラクターを使った栞にする工夫もされている。
今回展示された作品は1980年から1988年までの23点で、高橋氏が手がけた『りぼん』の付録の3分の1程度。今後残りの作品の展覧会も計画しているとのことで、楽しみである。ちなみに『りぼん』最新号(2017年7月特大号)の付録を見てみると、ビニル製のポーチ、ミニメモ帳とペン、ヘアゴム、マスキングテープなどの小物類で、残念なことにペーパークラフトは含まれていない。8月号はパスケースだ。ペーパークラフトは流行らないのだろうか。ペーパークラフトには組み立て式であるがゆえに本誌よりもずっと大きな構造を付属できる利点、そしてなによりもそこにはつくる楽しみがあると思うのだが。[新川徳彦]


会場風景

2017/06/13(火)(SYNK)

サラダ・ドレッシング(salad Dressing)事務所訪問

[シンガポール]

モダンなデザインの競馬場を商業施設にリノベーションしたザ・グランドスタンドへ。最上部は観客席に向かって大きく庇を張り出す。最上階にあるランドスケープの事務所「サラダ・ドレッシング」を訪問した。多様な植物の育ち方や水質浄化の実験を行ないつつ、生態系から考えるプロジェクトを世界各地で進行している。

2017/06/12(月)(五十嵐太郎)

シンガポール建築群

[シンガポール]

都心に戻り、ピナクル・アット・ダクストン、オアシア・ホテル、マックスウェルチェンバーズ、東京海上のビルなどを見る。これらは前に訪れたときにはなかった建築群である。伊東豊雄が手がけた《キャピタ・グリーン》は赤い冠をいだく緑化ガラス建築で、地上のくねくねした部分はオラファー・エリアソンの作品だった。容積率の緩和が受けられるボーナス制度によって、多くのビルがパブリックアートを導入している。KPFによるビルは建設中で、仮囲いには世界的な建築事務所! のプロジェクト! と、大々的に宣伝していた。そこまで自慢して商品になる固有名なのか? という違和感もあるが、リベスキンドのコンドミニアムのときは、彼がピアノを演奏する販促のためのテレビ・コマーシャルもあったらしい。いやはや建築家はスター扱いである。

写真:左上2枚《キャピタ・グリーン》 左下=オラファー・エリアソンの作品 右上から=ピナクル・アット・ダクストン、オアシア・ホテル、東京海上のビル

2017/06/12(月)(五十嵐太郎)

移動する物質─ニューギニア民族資料

会期:2017/06/10~2017/07/02

京都市立芸術大学ギャラリー @KCUA[京都府]

「物質」としての「移動」に着目する展覧会シリーズの第一弾。京都市立芸術大学芸術資料館は、学生の卒業作品や美術工芸に関する資料を収蔵する施設である。その中の特殊なコレクションのひとつとして、1969年に美術調査隊によって収集されたニューギニア民族資料がある。ニューギニア島北東部のセピック川流域の神像や仮面、土器を中心としたコレクションだ。本展では、「文化人類学的な資料展示」のフレームを裏切る、斬新な展示構成が行なわれた。
薄暗い会場には、木製のダクトが天井からL字型に伸び、川のせせらぎのような流水音が聴こえてくる。その周囲にライトに照らされて佇むのは、「引き出し」や「輸送用クレート」だ。観客は、引き出しを自由に開けて、中を覗いて見ることができる。その中には、キャプションが一切ないまま、祭礼的なオブジェや装飾の施された銛のようなモノだけが収められており、薄紙で包まれたままのものもある。現地での聞き取りを断片的に記したテクストや写真も添えられ、聞き取った話からは、精霊信仰が根付く一方で、西洋文化や消費社会の流入の影響が伺える。しかしそれらは束ねられて重なり合い、一部しか見えない。ここでは、名称、地域や部族、年代、素材、用途などの情報を一切与えず、かと言ってオブジェとしての造形性を審美的に眼差すよう要請するのでもなく、「引き出しを開けて見る」という期待感とともに、「モノを元の文脈から切り離し、運搬し、収集・保管する」という営みの次元それ自体を見せているのだ。


撮影:松見拓也
提供:京都市立芸術大学


さらに、2階の展示室では、床を貫いて1階から続くようにダクトが直立し、壁に取り付けられた「引き出し」を開けると、中は空っぽで、スピーカーからさまざまな音声が聴こえてくる。呪文と歌の中間のような節回しの声、笛や打楽器の掛け合いのリズム……単調な反復はトランスを誘い、ガヤガヤとした話し声や子どもの歓声といった環境音も混じる。これらの録音音声にもキャプションはなく、全ては見る者の想像に委ねられる。つまりここは、「民族資料」としてのモノの収集からは決定的にこぼれ落ちてしまう、踊りや歌といった身体化された所作や周囲の環境などの記録・採取不可能なもの、持ち出せなかったもの、失われたものについて想起を促す空間なのだ。「物質」がこちらに移動し、一方、「想像」があちらに飛ぶという、時空間の対流が起きる。


撮影:松見拓也
提供:京都市立芸術大学


祭祀や狩猟の道具といったモノは、一定の時空間的な限定を受ける「行為」の次元に属すが、収集・保管の対象となったとき、生きられた時間の持続と密度からは切断され、隔離される(これは、パフォーマンスに用いられたオブジェや残存物をどう「保存」するかという問題とも通底する)。それは単に物理的な移動ではなく、ミュージアムという制度内への質的な移動でもある。本展の展示形態は、ミュージアムの制度(元の文脈からの切断と、「遺体安置所」としての収集・保管場所)そのものを提示し、物理的な/制度内への「移動」が内包せざるをえない欠落や空白を示しながら、その間隙を補完的情報によって埋めて中立性・客観性を偽装するのではなく、生じた空白を想起のための空間へと転化していた。
ただし、とりわけ「民族資料」の場合、このように一切のキャプションなしで展示する手法には、賛否両論があるだろう。「他者の文化を知り、理解する」という文化人類学の根本的態度は、他者への不寛容と異文化の排除が進行する現在、ますます重要性を増している。一方で、本展のあり方は、散漫で「間違った」解釈や想像が産み出される危うさを引き受けつつ、「他者の文化を一方的に簒奪しない」という倫理的な振る舞いをも示しているのではないだろうか。そこに、ミュージアムの制度批判のみにとどまらない、本展の意義がある。

2017/06/10(土)(高嶋慈)

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オープンスタジオ2017

会期:2017/06/09~2017/06/18

BankART Studio NYK[神奈川県]

BankARTの2、3階のほぼ全フロアをアーティストに貸し出すレジデンス・プログラム。今年は長期滞在アーティストも含めて計45組が参加、その成果発表が行なわれている。片岡純也+岩竹理恵は昨年もトボケた作品をつくってうならせてくれたが、今年も多彩な作品を見せてくれた。なかでも、浮世絵(春画)から使用済みの丸めたチリ紙の画像をピックアップして並べた作品が出色。なにが出てくるかわからないところが期待できる。
山田哲平はスピーカーを10台ほど下向きに吊り下げ、そこからたくさんの赤い糸を垂らし、中央に聴診器を置いている。中心に立って聴診器を胸に当てると、心臓の鼓動が増幅されてスピーカーから鳴り、赤い糸をリズミックに揺らす。赤い糸はまるで血流のようだ。これはよくできている。その隣の丸山純子は、コンビニ袋で花をつくったりプラスチックを溶かしたり石鹸を固めたり、いろいろやってきたが、最近は「の」の字型の渦巻きを紙にびっしり埋め尽くしていくドローイングを制作。なんだか草間彌生か真島直子に近づいてるようで怖い。
関川航平は壁いっぱいに文章を書いた紙を貼りつけていた。たしか、文字を書きながらその時々に思ったこと見たことなども書き連ねていく、というようなコンセプトだったと思う。単線的な文章=時間の進行を複線化する試みと理解したが、あまり読む気になれないし、読んでもおもしろくない。でもなにか表現することのためらいや恥じらいを感じさせる。陳亭君と鈴木紗也香はそれぞれ2階と3階にブースを借りて絵を描いていたが、画風こそ違えど、図らずも画中画のある室内風景をモチーフにしているところは同じ。どちらもアラサーと年齢も近く、各地でレジデンス経験を積んでいることも共通している。こんなことってあるんだ。

2017/06/09(金)(村田真)