2020年11月15日号
次回12月1日更新予定

artscapeレビュー

2020年11月15日号のレビュー/プレビュー

mimacul『孤独な散歩者の白夜』

会期:2020/10/03

京都市京セラ美術館[京都府]

10月の第一土曜の夜に毎年開催される文化イヴェント「ニュイ・ブランシュ(白夜祭) KYOTO」。京都市内の美術館やアートスペースの夜間開館とともに、現代アートの展示、パフォーマンス、映像上映やDJ、コンサートなど各種イヴェントで賑わう。「ニュイ・ブランシュ KYOTO 2020」同時開催プログラムとして京都市京セラ美術館で開催された「ナイト・ウィズ・アート2020」では、mimaculによるツアーパフォーマンス『孤独な散歩者の白夜』が行なわれた。mimaculは、ダンサー・文筆家の増田美佳が主宰するユニットであり、本作は、パフォーマンス、小説と俳句、美術館の空間の探索、サウンドインスタレーションといったさまざまなメディウムの駆使と、「身体を見る視線とジェンダー」への問いで構成されていた。

観客にはマップと小説の小冊子が配られ、順路と指示にしたがって、今春リニューアルオープンした美術館の空間を進む。小説を一章ずつ読み進めながら、物語の展開と交錯する「イヴェントの発生」を館内各所で体験していく、パラレルな仕掛けに満ちた二重構造だ。小説は、会場自身を思わせる美術館を舞台に、画家の男が、美術大学の同級生の女に再会し、2人の会話を中心に展開する。戦後GHQに接収され、歴史的な展覧会が開催された「この美術館」の記憶や空間の痕跡。「ここに来ると、ムソルグスキーの『展覧会の絵』が脳内で再生される」と男は語り、現実空間ではパフォーマーがハミングで奏でるその旋律が響く。小説のなかで2人は収蔵品の展示を見て回り、恥じらう裸婦モデルを描いた竹内栖鳳の絵を鑑賞し、女は絵をやめてモデルの仕事をしていたこと、「裸」と性的なイメージの境界について語る。一方、観客は、パフォーマーと筆談で対話し、「美術館によく来るのか」「どんな絵が好きか」「『裸』という言葉にどんなイメージを持つか」などの質問を問いかけられる。隣の小部屋では、ソファに横たわった女性モデルを、男性がデッサンしている(私の参加回では会話の流れや時間制限のため、使用されなかったが、「ヌードを主題にした絵画」の図版を集めたシートも用意されていた)。さらに地下に下りると、「ヌードモデルを務める女性」の映像がほぼ等身大のスクリーンに映され、フレーム外の男性画家との会話が流れる。小説の「再現」を思わせるが、彼女はカメラを一心に見つめ、「一方的な視線の対象から見つめ返される」という眼差しの抵抗は、(とりわけ男性観客を)居心地悪くさせる。



[撮影:金成基 提供:京都市京セラ美術館]


一方、終盤は「俳句」が浮上。小説内では女が「白夜」を季語に俳句を詠み、観客は渡された鍵でコインロッカーを開け、「俳句」の短冊を宝探しのように見つける。さらに屋外の庭園を通って解放感のある屋上に出ると、さまざまな声が詠んだ「白夜の俳句」が聴こえてくる。ライトアップされた美術館の建築が、非日常性を増幅させる。


小説と現実空間の入れ子状の仕掛けに加え、美術館の空間の探索、「ヌード」とパフォーマンスの対比、1対1のコミュニケーション、俳句、サウンドインスタレーションと盛りだくさんの内容だった一方、「身体を見る視線とジェンダー」というテーマは拡散してしまった印象を受けた。美術館という制度化された空間の中に生身の身体を持ち込み、「展示」することが、「見る視線」そのものを相対化して問い直す契機になりえるかどうかが問われている。



[撮影:金成基 提供:京都市京セラ美術館]


2020/10/03(土)(高嶋慈)

奈義町の建築をまわる

[岡山県]

公共交通機関だと、かなり時間がかかるため、いつも断念していた磯崎新の《奈義町現代美術館》(1994)をついに訪問した。第三世代の美術館論で知られる建築であり、やや観念的な作品だと思っていたが、実空間は想像以上によかった。特に宮脇愛子、岡崎和郎、荒川修作+マドリン・ギンズのアートとの絡みが緊張感を伴い、素晴らしい。21世紀に入り、サイトスペシフィックなアートは、各地の芸術祭で当たり前になったが、《奈義町現代美術館》は、こうした動向を先駆けている。実際、インスタ映えを目的にした若いカップルの来場者が多かった。

現在、おいしいピザ屋が入る別棟のレストランは、eurekaがリノベーションを担当し、開放的な空間になっている。彼らは奈義町の街づくりに関わっており、景観のコード策定に協力したり、《しごとスタンド》(旧ガソリンスタンド、2017)などを手がけた。これは高さの違う間仕切りを入れ、通路部分をむしろ子供スペースとする逆転の計画である。限られた予算のなかで、サインも工夫している。



磯崎新《奈義町現代美術館》



ガソリンスタンドをEurekaが改装した《奈義町現代美術館》レストラン棟



ナギカラ、熊本大学景観デザイン研究室、Eureka、Tetor、ktmm《しごとスタンド》


eurekaとTetorによる《ナギテラス》(2018)は、特筆すべきプロジェクトである、これはバスや通学など、交通の結節点にたつ、多世代が交流する公共施設だ。異なる向きの小さい屋根の連なりに分節し、さまざまな高さの視点場を設けながら、ランドスケープと連動して、中央を貫通する坂道をつくる。新築というよりは、増改築を重ねて、生まれたようなデザインにも見える。



稲垣淳弥+佐野哲史+永井拓生+堀英祐/Eureka、山田裕貴+山本良太/Tetor《奈義町多世代交流広場 ナギテラス》


奈義町では、思いがけない建築や人物とも遭遇した。アーティストの花房徳夫が、セルフビルドによって工場を改造した《gallery FIXA》(2017)と《café calme》(2020)も、とてもカッコいい空間だった。ここの壁に飾られていた絵になんとなく見覚えがあり、聞いてみると、鈴木紗也香の作品だと判明する。愛知芸文センターにおけるアーツ・チャレンジ2013の展示で、壁紙と絵画が不思議な関係をつくる彼女の絵を見ており、窓学的にも面白い作品だったことから印象に残っていたからだ。実際、窓がある室内の絵を多く描き、図と地の関係が曖昧になる独特の平面性を構築している。現在、鈴木はカフェの隣にアトリエを構え、そこで絵画教室も開いているという。



花房徳夫がセルフビルドで工場を改造した《café calme》



《café calme》の隣にある鈴木紗也香のアトリエ



アーツ・チャレンジ2013に展示されていた鈴木紗也香の作品群

2020/10/03(土)(五十嵐太郎)

青年団若手自主企画vol.84 櫻内企画『マッチ売りの少女』

会期:2020/09/26~2020/10/04

アトリエ春風舎[東京都]

青年団若手自主企画vol.84として櫻内企画『マッチ売りの少女』が上演された。櫻内企画は青年団・お布団に所属し技術スタッフとして活動する櫻内憧海が「公演ごとに異なる演出家とタッグを組み、既成戯曲の上演を行う個人企画」。企画第一弾となる今回は1966年に早稲田小劇場の杮落としとして鈴木忠志の演出で初演された別役実『マッチ売りの少女』を橋本清の演出で上演した。

『マッチ売りの少女』は大晦日の晩、ある男(串尾一輝)とその妻(畠山峻)が夜のお茶をはじめようとしたところに女が訪ねてくるところからはじまる。市役所から来たという女(新田佑梨)の来訪の目的は判然としない。やがて女は自分はあなたたちの娘なのだと言い出すが、夫婦の娘は七つのときに電車にひかれて死んだはずである。さらに、女は外で待っている弟も呼んでいいかと問うが、そもそも夫婦に息子はいない──。

[撮影:三浦雨林]

女がマッチを売っていたのは20年前、彼女が七つの頃のことだという。この戯曲が初演された1966年から20年前と言えば戦後間もない頃だ。「男の声」によって回想されるその頃の情景も戦後の日本のそれと重なる。女はマッチを売るだけでなく、お客相手に「マッチを一本すって、それが消えるまでの間」「その貧しいスカートを持ちあげてみせ」るようなこともしていたらしい。「ささやかな罪におののく人々、ささやかな罪をも犯し切れない人々、それらのふるえる指が、毎夜毎夜マッチをすった」と男の声は語るが、その罪はもちろん「ささやか」などではない。自分たちを「この上なく善良な、しかも模範的な市民」だと言う男は「あの頃のことは忘れることです。みんな忘れちまったのです。私も忘れちまいました」などと言う。しかし終幕に至って女が発する「許して、お父様。許して下さい。マッチを、マッチをすらないで……」という言葉は、男もまた加害者であることを強く示唆している。

[撮影:三浦雨林]

過去から蘇る、闇に葬り去ったはずの罪。戦後の日本はさまざまな犠牲のうえに存在している。それはいまも変わっていない。だが、戦争を経験した世代が亡くなっていくにつれ忘却は加速し、自分にとって都合のいい過去だけを信じる者はますます増えている。だからこそ、この戯曲は(残念ながら)いまなおアクチュアルなものとしてある。

橋本は妻役に男性俳優を配し、弟役を声のみの出演とすることで、この戯曲の現代性をより鋭く浮かび上がらせてみせた。舞台上にあるのは現在と過去との対立であると同時に上の世代から下の世代への加害、下の世代から上の世代への糾弾でもあり、それはつまり現在と未来の対立でもある。そして上の世代、いや、「現在」は過去の加害にもかかわらず未だに男性中心主義に支配されている。上の世代を象徴する夫婦がともに男性俳優によって演じられているのはそれゆえだろう。

[撮影:三浦雨林]

声だけの存在である弟の立場はさらに弱い。生まれてさえいないはずの弟は、かつて男に暴行されていたのだと体に残るアザを見せる。しかしもちろん、そのアザを観客が視認することはできない。夫婦の反応からは弟の言葉は根拠のないデタラメなものであるような印象も受ける(それは実体のないフェイクニュースのようでもある)。だが、忘れてしまった罪と異なり、認識さえしていない罪を思い出すことはほとんど不可能だ。

女には四つと二つの二人の子供がいる。舞台には登場しない彼らの存在は、女の話と、「市の防災班」の男の「寝息が聞こえます。小さいのが二つ」という言葉によってのみ示される。この作品は、もっとも若い、その言葉さえも聞くことのできない子供たちの寝息が聞こえなくところで終わる。新年の朝に潰える命。過去の罪を認めまいと足掻く大人たちの傍らで、いくつもの未来の可能性がひっそりと閉じられている。その罪もまた、多くは認識されないのだろう。

[撮影:三浦雨林]


公式サイト:http://www.komaba-agora.com/play/10592

2020/10/03(土)(山﨑健太)

声のTRANCE つむぎね『モ リ ニ ハ イ ル』

会期:2020/10/03~2020/10/04

豊中市立文化芸術センター[大阪府]

作曲家の宮内康乃が2008年に結成した、女性たちによる音楽パフォーマンスグループ、つむぎね。楽譜ではなく、呼吸の身体的リズムを元にしたルールに則り、声、そして息を吹き込む鍵盤ハーモニカを主に用いて、個々が発する音が重なり合う音響世界を紡いでいくのが特徴だ。2月に出演予定だった「TRANCE MUSIC FESTIVAL2020 -the body-」がコロナ禍で中止となり、代替公演として本作が発表された。感染症対策を演出に組み込み、ファイバーアート・イノベーターのカヨサトーによるインスタレーション空間の中でパフォーマンスが行なわれた。



[撮影:山城大督]


会場に入ると、仄暗い空間に、薄いベールのような白い布が、森の樹々や氷柱のように天井から垂れ下がっている。その合間を縫うように現われたパフォーマーたちは、深い森奥でさえずる鳥のように鳴き交わし、深呼吸の音は梢を渡る風を思わせ、単音のハミングの重なり合いがホーメイや原始的な宗教音楽を思わせる荘厳な響きに昇華されていく。一人ひとりが受け持つ単純なアカペラの節回しは、相手からの応答を受けて少しずつ変化し、寄せては返す波の無限の連なりのなかに身を浸しているような感覚に包まれる。中盤、パフォーマーたちは、布で結界のように区切られた空間の中に集い、歌詞のない母音の短いフレーズと打楽器のリズムをそれぞれに発し、掛け合いながら反復/変奏させ、複雑に変化する有機的な音響を立ち上げていく。のたうつように激しく踊るダンサー。ベール越しに透けて見える秘儀のような、緊張感に満ちた熱狂と陶酔。終盤、パフォーマーたちは、再び訪れた静寂のなか、鳥の鳴き声を口々に鳴き交わし、消えていった。

鳥や動物の鳴き声、風の音といった自然界の音の模倣から、「求愛や敵の警告」といったコミュニケーションの要素や反復的な規則性を抽出し、互いが発する音を聴き合うことで音響を有機的に変化させ、複雑化させていく。「音楽はどこから始まったのか」という問いが、つむぎねの根幹を駆動させている。

同時にそこには、定式化されたルールに基づく演奏というアルゴリズミック・コンポジション、指揮者という中心性の欠如、楽譜の不在、集団性という現代音楽の実験性がある。ここで同様の例として想起されるのは、アルゴリズムを用いてコンピュータ・シミュレーション上で作曲した楽曲を、あえて「生身」の人間が集団で演奏する、三輪眞弘の「逆シミュレーション音楽」である。三輪の場合も、「音楽の始原」への欲望として、初期の代表作品《またりさま》と《村松ギヤ》ではそれぞれ、「秘境マタリの谷に伝わる伝統芸能」「ロシア系先住民ギヤック族の祭事」という「捏造された物語」が付けられている。また、《またりさま》には「求愛を兼ねて未婚男女が奉納する」、《村松ギヤ》には「外側の女性たちの円と内側の男性たちの円で構成する儀式」という「設定」もあり、演奏行為の「オン/オフ」「0/1」に加え、パフォーマーの「男/女」というジェンダーにおいてもきわめて厳格なバイナリー・二元論的世界が構築されている。

一方、つむぎねは、アルゴリズミック・コンポジションを採用しつつ、「呼吸」を単位とすることで揺らぎを与え、(パフォーマーのジェンダー規定も含めて)非バイナリーな世界を開こうとしているのではないか。「音楽の始原への接近」という共通項を持ちつつ、師として先行世代である三輪との対比についても考えさせられる機会となった。



[撮影:山城大督]



[撮影:山城大督]

2020/10/04(日)(高嶋慈)

旧閑谷学校と岡山大学構内の建築

[岡山県]

前々から訪れたかった岡山県備前市の《旧閑谷学校》をついに見学した。ここは17世紀に創設され、1701年に現在の建築群が完成している。講堂は本来、禅宗様とともに導入された花頭窓のモチーフを各面においてひたすら反復したことが大きな特徴だ。それゆえ、訪問前は記号的なイメージが強い建築だと思っていたが、実物は清々しい空間である。門や石塀、創始者を祀る閑谷神社、孔子像を設置する聖廟、文庫なども、よく観察すると、ユニークな細部があちこちに散りばめられている。


《旧閑谷学校》の講堂


《旧閑谷学校》講堂内部の様子


《旧閑谷学校》の石塀

また併設の《閑谷学校資料館》は、明治時代の私立中学を転用したものである。沿革を知ると、教育を重視し、多数の手習い所をつくり、学校を創設した当時の岡山藩主・池田光政に感心させられる。つまり、学問を大事にした統治者だった。一方、彼を継いだ息子は勉強嫌いで、親に怒られている文書が残っているのだが、現代の政治家の二世、三世を思わせるエピソードであり、苦笑した。もっとも今の素晴らしい建築群は、財政を立て直した息子の時代に建てられたものである。


《閑谷学校資料館》

岡山市内に戻り、岡山大学の各キャンパスに建てられたSANAA(妹島和世+西沢立衛)の建築をまわった。医学部にある《Junko Fukutakeホール 》(2013)は、ふわっと屋根が浮いた、軽やかな建築だ。入り組んだ7枚の大小の傾いた屋根を細い鋼管群が支え、壁はわずかで、ほとんどはガラスにおおわれ、視線が貫通する。はっきりとした正面をもたず、周囲を歩くと、どこからでも内部が見え、屋根が折り重なる外観の形状は変化していく。内部は全体として大きなワンルームのようにつながる感覚を与えながら、同時にそれぞれの屋根の下、外部の広場、エントランス、ホワイエ、ホール、講義室、会議室など、多様な場をつくりだす。


妹島和世+西澤立衛/SANAA《Junko Fukutakeホール 》(2013)

また津島キャンパスには、交流広場の《パーゴラ》(2013)と正門すぐそばの《Jテラスカフェ》(2014)がある。前者は上下しながら、ぐにゃぐにゃとカーブを描く、薄い屋根を細い柱で支える構築物だ。後者は不定形なフォルムの屋根とガラスの壁によるパヴィリオンであり(訪問時はコロナ下のため休業)、もともと塀がないことによって、道路沿いの開放感を増している。SANAAの2人が教鞭をとる横浜国立大学でさえ彼らの建築がないのに、岡山大学では、こうした地域に開かれた現代建築が3つも存在しているのだ。


妹島和世+西澤立衛/SANAA《パーゴラ》(2013)


妹島和世+西澤立衛/SANAA 《Jテラスカフェ》(2014)

2020/10/04(日)(五十嵐太郎)

2020年11月15日号の
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