トークシリーズ:「Artwords」で読み解く現在形
4. 写真美術館の誕生と写真状況
──東京都写真美術館の開館は、その後の写真シーンにどんな影響があったとお考えですか?
飯沢──写真美術館は1995年に開館したわけですが、実際は1990年に第一次開館があり、第二次開館が95年なので、基本的には僕は90年を起点として考えた方がよいと思います。
小原──その前史として、「写真100年──日本人による写真表現の歴史」展 があると思います。この時の調査で日本中から出てきた膨大な写真群によって写真美術館の必要性というものが関係者に意識されたわけでしょう。この展覧会によって、写真の収蔵と日本写真史が意識化されたわけですから。
飯沢──そうですね。歴史を言えば、「写真100年──日本人による写真表現の歴史」展は大きかったと思います。日本写真家協会が本気になって写真を集め始めましたし、写真美術館設立運動が、あの展覧会を起点として起きました。いろいろな美術館に働きかけていきましたが、そのひとつが東京国立近代美術館でした。そこではなかなかできないということで、方針転換した時に、川崎市民ミュージアムと横浜美術館に写真部門が新しくできるということがわかりました。1988年に最初に写真部門ができたのが川崎市民ミュージアムで、89年に横浜美術館です。そして、90年に本格的な映像の専門施設として東京都写真美術館が第一次開館したというのが大まかな流れですね。
写真関係者にとってはある種の悲願でした。19世紀以来「写真は芸術なのか」ということが言われ続け、美術館の写真の収蔵にはやはり大きなモチベーションがあったと思います。今でもあると思いますが。それが本当にかたちになってくるのが80年代後半です。そのことで何が変わったのかはいろいろあるような気がします。まず、写真家の意識が変わりましたよね。つまり、目標が変わった。それまでの写真家たちの目標はやはり印刷媒体でした。まずは『カメラ毎日』 のような雑誌に発表し、その最終形態は写真集だと思います。連載していったものを写真集としてまとめるというモチベーションが東松照明、奈良原一高 、細江英公 らのVIVO (1959-61)以降の写真家には必ずありました。おそらく80年代まではずっと続いていたと思います。ところが、それ以降、美術館ができると、最終目的として写真集よりは、展示に向かっていった。それと写真のアートマーケットの設立がくっついていて、ギャラリーで写真を扱い始めるというのもほとんど同時期です。
美術館で展覧会をやって作品を売るというモチベーションになっていくという変わり目ははっきりありますよね。
小原──今でこそ、印刷原稿としてのオリジナルプリントや、ヴィンテージプリントという概念がありますが、かつては雑誌や写真集のような印刷媒体しかなかったので、今ヴィンテージと呼ばれている写真の多くは印刷原稿ですよね。荒木経惟さんの写真集展 をIZU PHOTO MUSEUMで開催した時も、そうした日本独自の写真集文化を見せたかったからです。日本写真はアートマーケットではなく印刷媒体の中で発展してきたことは重要なことだと思います。「私小説」ならぬ「私写真」としての写真という言い方にも現れていますが、荒木経惟という写真家は日本的な出版文化から生まれたと言えます。
飯沢──実際、出版社に預けた原稿がそのままなくなってしまっていたり、編集者がずっと持っていて、だいぶ後に出てくるという話も意外とありますからね。
若い人たちの目標は写真集をつくること。それも、日本の場合はなかなか商業出版として成り立たないので自費出版ですね。70年代以降の日本の重要な写真集のほとんどはそうです。いまはZineなどがつくられていますが、今の若い人たちにとって、それは目指すような目標ではない。なので、写真家の意識を大きく変えた出来事として、アートマーケットの成立と写真美術館という空間の成立がパラレルに起きたことがあります。もうひとつは、観客の意識が変わったのではないか。これまで写真を見るという体験が、僕自身のことを考えてもやはり写真集が基本で、それはいまだにそうだと言いたいところもありますが、必ずしもそうではなくなってきていますね。やはり、90年代以降、展覧会での体験が大きな部分を占め始めした。それは、artscapeで書いている原稿が証明していると思います。写真集についてももちろん書いていますが、中心は展覧会です。それは、僕だけではなくて、特に若い人たちは、最初から展覧会なのではないでしょうか。
小原──あまり写真集が買われなくなってきたかもしれないですね。
飯沢──出版業界からすれば由々しき問題ですね。では、写真集は終わったのか。
土屋──終わってはいませんよ。新しいことはそれほどないかもしれませんが、やはり写真集の文化は定着していて、今後も続くと思います。
小原──買ってますか?
土屋──いや、私はあまり、写真集は買わないのだけど(笑)。
小原──土屋さんのような人が買わないのなら、誰が買うんだという話ですが(笑)。
土屋──たまたま先日、大橋仁 の写真集『そこにすわろうとおもう』の書評を書いたのですが、やはり写真家はああいうものを出したいという欲望をいまだに持っているのだと思います。
飯沢──写真集におけるビッグ・ピクチャーですね。
土屋──やはり彼は豪華版写真集を出したいんです。要するに物量で勝負したい。僕はあまり彼を評価していませんが、そういう写真集がいまだに出版されるのはある種のロマンなのかもしれない。
飯沢──信仰とかね。日本の特殊事情かもしれません、日本の写真集はかなり特殊ですよ。
小原──海外から評価されるのは当然ですよね。あれが作品で最終形態の作品なわけだから。
飯沢──そうですね。マーティン・パー の『写真集:歴史(The Photobook: A History)』(2004)を見てもよくわかりますが、大雑把な話をすれば、やはり海外の写真集はカタログです。展覧会を最初から最後まで並べていくような感じです。一方、日本の写真家たちの写真集に対する意識は単純なカタログではなく、それがひとつの世界になっています。これは他にあまりないのではないかと思います。たとえば去年の「パリ・フォト」の「APERTURE PHOTO AWARD」などに出てきていた写真集は、僕の印象ですが、レイアウトの仕方や印刷の仕方が日本の写真集のパクリです。荒木経惟さん、森山大道さんたちは写真の「群れ」を写真集にする時に、ページをめくっていくと次々に違う世界が現れてきて、広がっていくような作り方をしました。日本の写真家以外にそんな例はほとんどない。エルスケン も違うし、ウイリアム・クライン の『ニューヨーク』(1956) は日本の写真家も影響を受けたくらいのすごい写真集ですが、あれは例外ですよね。突然写真シーンに現れて、それに反応して、まともに引き継いだのが日本の写真家たちです。だからやっぱり特殊なんですよ。なので、これからも日本の写真家たちが、その特殊性を守り続ける覚悟を決めれば相当おもしろいことができると思います。
小原──アートマーケットが確立されなかった後進国だったということが印刷媒体としての写真集を発展させたわけですね。
飯沢──よいか悪いかは別にして、写真集と写真文化に関しては非常に幸いだった。要するに、写真がプリントとして売れなかった。
小原──あと、新聞社などがバックについたカメラ雑誌があったことと、世界有数のカメラメーカーの存在も大きいですね。例えばニコンやコニカなどのメーカーもギャラリーを持っていましたし。カメラ雑誌も膨大な数のアマチュアカメラマンに支えられていました。
飯沢──質の高い写真集なんか、メーカーが出していましたからね。
それともうひとつは、日本のグラフィックデザイナーたちの写真集に対する取り組み方も、少し異常だと思います。もちろんアメリカのアレクセイ・ブロドヴィッチ とか、マーヴィン・イスラエル という人たちもいますが、それもまた特殊な例で、杉浦康平 以来、町口覚 に連なる日本のグラフィックデザイナーの系譜はかなり異常だと思う。写真集に非常に情熱を傾けています。
小原──中島英樹 さんもそうですね。
飯沢──写真集フェチ。それは欧米の書店の写真集コーナーと日本のナディフなどの写真集コーナーを比べるとよくわかる。「なんでこんな変な写真集があるんだ」。その特殊性を逆手にとっていけるということもある気がします。
土屋──最近のZineの流行もその流れにあるかもしれない。
飯沢──確かに、あれだけいろいろ工夫を凝らしながら様々に分裂していくという状況は珍しい。
小原──自費出版もそうですが、photographers'
gallery など、写真家の自主運営ギャラリーも特殊ですよね。キュレーターや編集者、評論家たち発表や出版の場を作るのではなく、写真家が自分たちでそういう場を維持し、さらにハイクオリティな批評誌まで出してしまう。
飯沢──やはり1970年代以降の日本の写真の世界の貧しさが、よい方に作用したひとつの例ですよね。
小原──発表の場や媒体がないなら自分たちでつくってしまおうという。これは素晴らしいことだと思います。写真に限らず、ほかのアーティストもやった方がいい。
飯沢──他のアジアの国でも、同じような状況はあったと思いますが、日本のような発達の仕方ではありません。90年代以降、中国や韓国に行く機会が増えたのですが、彼らはやはり欧米的なギャラリーのスタイルになってしまいます。いきなり何もないところから商業ギャラリーが立ち上がっていますから。
小原──おそらく最初の例は、アルフレッド・スティーグリッツ たちの活動が挙げられるでしょうね。
飯沢──アメリカではそうですね。ニューヨークの291ギャラリーなどは自主運営ギャラリーの走りみたいなものですが、すぐ商業資本に取り込まれてしまった。
小原──それが日本で花開くのは、不思議ですね。貧しさがポジティブに転化していくというか。
飯沢──僕が見てきた限りでは、自主運営ギャラリーもデジタル化以降、曲がり角に達しているような気もします。photographers' galleryは2001年のスタートで、やってきたことはものすごく評価できる。しかし、最近あまり新しい展開がないと思います。メンバーが少しずつ変わっていますが、新しいメンバーと以前のメンバーのエネルギーとの差が出てきているということもあるようです。やはり、自主的なギャラリーの持っている運営形態の運命があると思います。5〜6年のサイクルで難しい状況がやってくる。自主運営ギャラリー走りは1970年代の「CAMP」 「PUT」 「プリズム」 などありましたが、どこも2〜3年です。「CAMP」だけは長くて、10年くらい続きましたね。しかし、やはり初期と比べると後期は明らかにボルテージが下がってきています。場としてのクオリティとエネルギーを維持し続けるのは相当難しいですよね。一方で、新しいギャラリーがどんどんできて、どんどん交代していく状況です
小原──細胞分裂を繰り返しているわけですね。そう考えると東松照明さんの存在というのは大きいですね。WORKSHOP写真学校の卒業生たちがそうした自主運営ギャラリーに流れ、活躍していくわけですから。
飯沢──全体として見てみると、自主運営ギャラリーも、写真集と同じく、決して尽きているわけではなく、不思議なかたちで残り続けるだろうと思います。