artscapeレビュー
三田村陽「hiroshima element」
2015年09月15日号
会期:2015/07/21~2015/08/08
写真集『hiroshima element』の発刊に合わせて開催された個展。写真家の三田村陽は、約10年間にわたり、月1回のペースで広島に通いながら撮影を続けてきた。本展では、その中から57点が壁を覆うようにグリッド状に展示された。いずれも、広島という都市の日常風景や人々をカラーで撮ったスナップ写真。モノクロ写真にともすればつきまとう、悲劇性の強調や重厚さは、ない。また、写真家の眼差しは、被爆の痕跡を物語るフォトジェニックなモニュメントへと寄るのではなく、求心的な物語を紡ぐ代わりに、風景の中にあてどなく身を置くような散漫的ですらある視線、観光客のそれとは異質な視線を伴った歩行とともに、この地方都市の姿を切り取っていく。
平和記念公園やその周辺で撮られたとわかる写真もあれば、平凡で匿名的な一地方都市の街並みのワンシーンもある。原爆ドームはフレームの中心に収まることはなく、商業ビルの間や観光バスが連なる橋の彼方に小さく見えている。あるいは、平和記念式典のための椅子並べの設営や、公園内の清掃など裏方の作業をする人々。トラックの背面に描かれた非核を訴える原爆ドームの絵や原爆展のポスター。何気ない日常風景の中に、目を凝らすと異物のように差し挟まれた存在に気づくとき、場所の特異性へとその都度連れ戻される。
三田村の写真は、特定の場所や時系列に沿って編集されているわけではないが、寂れた商店街や再開発など、変化していく都市のダイナミズムの記録ともなっている。また、もうひとつの特徴として、携帯の写メや記念撮影など「撮影する人々」のスナップが点在することが挙げられる。「眼差しを向ける行為」を入れ子状に写すことで、眼差しが過剰に供される場であることを告げているのだ。
都市の住人/外部からの訪問者、日常/非日常(とりわけ8月6日という局所的な時空間への集中)の狭間に身を置いて、広島という都市を撮り続けること。その行為は、再開発など街の外面的な変化と、自らの眼差しと広島との距離という内面的変化とを同時に眼差し、記録する行為でもある。
時間や季節ごとに異なる表情を見せる美しい川辺。川は、広島という都市の指標のひとつであるとともに、流れゆく時間のメタファーとしても機能する。群衆の集う特定の一日を除けば、そこに流れている穏やかな日常の時間。しかし、三田村の写真と向かい合うときに思い至るのは、目を凝らせば遠景に原爆ドームの姿が視認されるということだけではない。アイコン的存在であるドーム以外にも、雑多な街並みや人混みの中には、フォーカスされていないだけで、被爆した建築物や樹木などの過去の痕跡が、実は画面内に写り込んでいるのかもしれない、という思いへと至るのだ。写真は、刻々と変化する「広島の現在」を記録するが、そこには記憶の磁場が潜在している。それらは不可視なのではなく、説明やフォーカスがなければ認識できない私たちの弱い視力の、解像度を上げていくことでしか接近できないのだ。それは、「可視性の政治」への抵抗の試みでもある。
三田村の写真は、写真という可視化する(ことが可能だと思われている)装置によって形成されてきた場所のアイデンティティを、いったん振り払う地点からもう一度風景を眺めること、そして獲得された新たなイメージの多層性の中から見えてくるものを、粘り強く解像度を上げて凝視することの可能性と困難を自覚的に引き受けながら、写真を見る者にもそうした態度へと誘っている。
2015/08/08(土)(高嶋慈)