2017年11月15日号
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artscapeレビュー

Face Forward

2015年09月15日号

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会期:2015/08/22~2015/08/30

KUNST ARZT[京都府]

日本とオーストリアで活動する11作家による、自身の身体を題材に用いた作品で構成されたグループ展。「身体」はまずもって個を構成する物質的基盤であり、触覚を通して他人を含めた外界を感知する場であり、痛みの感覚は逆説的な生の実感と、時には自身の身体が異物化される感覚ももたらす。また、身体の加工や「第二の皮膚」である衣服をまとうことによって、アイデンティティの表出や書き換えが行なわれ、差異が読まれる場としての身体が現われる。ジェンダー、人種や民族、社会的立場などの差異を表わすとともに、様々な社会的規制や抑圧を受ける場でもある身体。そうした身体への抵抗は、ボディ・アートやフェミニズム・アートの諸実践が示すように、身体それ自体をポリティカルな闘争の場として用いて行なわれてきた。本展出品作においても、身体の題材化が喚起するそうした様々なトピックが提出されている。
例えば、松根充和は、剃った眉毛を髭として貼り付けたセルフポートレートと、その顔写真で取得したパスポートを作品として発表し、身体(の構成要素)が自分の所有物であることの自明性と社会的制度との関係の曖昧さについて問う。岡本光博は、人種の坩堝と言われるニューヨークで購入した絆創膏のパッケージと、その絆創膏を自分の腕に貼った写真を並べた作品を発表。白人用、ヒスパニック用、黒人用など様々な「皮膚の色」に合わせ「人種的に配慮した」商品と、そこから排除された東洋人としての自身の身体を浮かび上がらせる。
また、作家自身の身体を用いてジェンダーの問題に言及するのがヤコブ・レーナ・クネーべルとアンナ・イェルモラエヴァ。クネーべルは、自身の裸体にピカソの女性像を描いたセルフ・ポートレートを発表し、イェルモラエヴァは裸体の上にミニカーを走らせ、丘を登ったり下りたりするようなミニカーの様子が愛撫のようにも見える映像作品を発表。両者はともに、男性中心の眼差しによって形成されてきたアートや文化における、女性身体の物象化に対して批評的に介入する。
さらに、身体の露出や排泄など、身体をめぐるタブーや社会的規範に対して、ユーモアをもって自由さや抵抗を表明するのが、高嶺格と池内美絵。高嶺は、肛門を口に見立て、臀部の筋肉を動かすことで、肛門=口がポップソングを歌っているように見えるコミカルな映像を制作。また池内は、ミニチュア人形を飲み込み、排泄後、バラバラになったパーツを組み立てた人形を美しい宝石箱のような箱に収めて展示することで、内と外、美と醜、身体表面を飾って他人の眼を惹きつけるものと他人の眼から排除されるもの、といった様々な境界を撹乱する。
このように本展では、身体の直接的な提示やパフォーマンスの記録が中心であったが、その中で、「不在」によって身体の存在感をより強く感じさせたのが、井上結理の写真作品《ヌケガラ》である。衣服、靴、アクセサリー、下着に至るまで、その日に身に付けていたもの全てを脱いで床に置いて撮影し、床の上に展示することで、脱いだ時の状態を再提示する作品であり、作家によれば撮影は日課のように10年以上続けているという。衣服や靴を脱ぐ行為自体は、誰もが毎日行っている日常的な行為であり、脱ぎ捨てられた衣服や靴が原寸大でプリントされ床に置かれることで、観客は、脱いだものを見下ろす視点を作家と共有する。そのとき、身体を包む衣服の形、とりわけ脱いだ後にできた皺や立体感は、かつて身体がそこにあった痕跡を示すがゆえに、存在の不在感を逆説的に強調する。そこに、「下着」までが写されることで、身に付けていたのが若い女性であることを示すとともに、下着が被写体として成立する背後にある欲望のコードの存在をほのめかす。この時、井上の写真作品が「その上を踏んで歩いてかまわない」という展示条件は、日常的な眼差しの共有を超えて批評性を発動させる。偶然にも、ある男性の観客の靴が写真の上を踏んでいる瞬間を目撃したとき、(不在の女性の)身体に外部から加えられる暴力がはからずも具現化して現われたように見え、戦慄を覚えた。


左:池内美絵《アリス》 右:井上結理《ヌケガラ》

2015/08/22(土)(高嶋慈)

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