2018年10月15日号
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artscapeレビュー

没後50年 ”日本のルソー” 横井弘三の世界展

2016年07月01日号

会期:2016/04/17~2016/06/05

練馬区立美術館[東京都]

横井弘三(1889-1965)の回顧展。長野県飯田市に生まれ、上京した後、独学で絵を学び、二科展に出品して第1回の樗牛賞を受賞して将来が期待されるも、関東大震災以後は二科展をはじめとする既成画壇と決別し、長野市に移住してからも素人画家として数多くの絵画を制作した。本展は、そうした横井の長い画業を200点あまりの作品と資料によって辿ったもの。横井については信州新町美術館がすでに数多くの作品を所蔵しているが、本展は時系列を軸に展示を構成することで、より体系的かつ網羅的にその画業を俯瞰した。
「日本のルソー」というフレーズが示しているように、横井弘三の絵画は素朴派として位置づけられることが多い。事実、石井柏亭はその画風の特徴を「素人画の稚拙さを保っている」点に見出していた。また、より厳密にその絵画を分析するならば、類型的な描写を反復させながら画面の隅々まで絵の具で執拗に埋め尽くした点は、いわゆるナイーヴ・アートの特徴と通底している。来るべき東京オリンピックを前に、ある種の「危険分子」が周到に排除されつつあるアウトサイダー・アートやアール・ブリュットと同じように、本展は明らかに横井作品の「人を微笑ませるのびやかな」(本展図録、p.5)純粋性を強調していたのである。
しかし横井弘三には、素朴派とは到底言い難い、別の一面もあった。本展ではわずかに言及されているだけだったが、それは既成団体と正面から格闘する、ある種のアクティヴィストとしての横井という一面である。1926年、関東大震災からの帝都復興を記念して、上野に東京府美術館が開館したが、その開館記念として催された「聖徳太子奉賛記念展」(5月1日〜6月10日)は、既成画壇の重鎮ばかりを優遇し、とりわけ洋画部門に限っては一般公募をせず、新人作家を締め出していた(ちなみに西洋画部門に出品したのは、古賀春江や神原泰である)。横井はこれに大いに激怒した。
「聖徳太子を奉讃する総合展を開くなれば、規定をつくる前に委員と目したものを全部集めて、皆の意見をきき、それを総合して規定をつくるべきが至當である。所が奉賛會は老朽の顧問なるものを僅か集め、それらの連中によつて、勝手キマゝの不都合横暴千萬の規定をこさへた。(中略)『但西洋畫に限り一般公募せず』なる最も非民衆的の塀をつくつて、有名作畫家のみが、いゝ氣持ちになつて、東京府美術館の、一番乗りの占領をし面白がらうとするのである」(横井弘三「大花火を打さ上げろ」『マヴォ』1925年7月号)。
つまり、横井はあくまでも民主的であるべきだと主張したのである。そのため、横井は奉賛展の旧態依然とした封建的なあり方に強く抗議する一方で、民主的な展覧会を自ら企画する。それが、奉賛展とほぼ同じ時期に(5月1日〜10日)、同じく上野の東京自治会館で催した「第一回理想大展覧会」である。これは、ある種のアンデパンダン展で、「日本畫、洋畫のへだてなく、新派舊派の別もなく、文字、彫塑、ダダ、構成作等、又、新案日用生活品から、發明品構築物、其他、各出品者が、創造したあらゆる、造型を出陳する、抱擁力」(横井弘三「理想・展覧会・規約」)を誇っていた。
日本におけるアンデパンダン展といえば、1919年の黒耀会によるものが嚆矢として知られているし、理想展の直前には、画家の中原實が画廊九段で催した「首都美術展覧会」(1924)や「無選首都展」(1925)などがすでにあった。だが、理想展がそれらのアンデパンダン展と一線を画していたのは、横井の主張に見受けられるように、あらゆる人々の、あらゆる造型を受け入れ、実際に展示する、その間口の圧倒的な広さにある。事実、理想展にはじつに106名が参加したが、その内訳は村山知義や岡田龍夫らマヴォの面々をはじめ、会社員、看板屋、画学生、百姓、高等遊民、労働者、小学生、コック、官吏、青物問屋、職工、写真業、乞食、僧侶、煙草屋、デットアラメ宗宗主など、怪しげな者も含む、文字どおり多種多様な人々だった。決して大きくはない空間のいたるところに展示された333点の出品作も、絵画をはじめ、詩、看板、小学生の自由画、漫画、はたまた手相による運命鑑定、バケツを叩きながらの美術の革命歌の合唱、吃又の芝居、さまざまなダダ的パフォーマンス、さらには「『リングパイプ』と名づけた金属製の新案指輪煙草ハサミだのこれ亦新案特許を得てゐる室内遊戯具『コロコロ』を大型な野外運動具に拵え直したもの」、「中には『犬小屋』藝術をほこる男もあればアメリカ帰りの富山直子夫人が創作的な『お料理』を出さうと言う騒ぎ」(『読売新聞』1926年3月23日朝刊3頁)。つまり現在はもちろん、当時の基準からしても、到底「美術」とは考えられないような、文字どおりあらゆる造型や行為が披露されたのである。初日の5月1日はメーデーであったことから、日比谷公園から上野公園に流れてきたおびただしい労働者たちが会場に押し寄せたことも、理想展の混沌とした魅力を倍増させたようだ。
「人を喰つた美術の革命展」(『読売新聞』1926年5月6日朝刊2頁)、「葉櫻の上野に珍奇な對照 五色のうづまく奉賛展 人を喰つた理想展」(『やまと新聞』1926年5月2日朝刊2頁)。当時の新聞記事を見ると、横井のねらいどおり、理想展は奉賛展に対するアンチテーゼとして報じられていたことがよくわかる。むろん、その挑戦は美術の体制を転覆するほどの革命的な力を発揮したとは言い難い。けれども敵対勢力を言論上で批判するだけでなく、それらとの接触領域を、一時的とはいえ、現実的に出現させた点は、大いに評価されるべきである。なぜなら、あの「読売アンデパンダン展」ですら、あるいはその後の「アンデパンダン’64展」ですら、過激な表現行為を繰り出したことは事実だとしても、これほど直接的な敵対関係に基づいてはいなかったからだ。60年代のアンデパンダン展は、既成画壇と敵対しながらも、それとの接触領域ではなく、むしろそれと隔絶した自律的領域を構築した。対照的に、20年代のアンデパンダン展を組織した横井は、例えば数人の仲間たちとともに隣接する東京府美術館にわざわざ出向き、その前で理想展の目録をどんどん配布して叱られたという(横井弘三「理想郷の理想展祭り」『美の國』1926年6月号)。横井は東京府美術館という権威的な空間の傍らに、まことに民主的な美術の理想郷を建設しただけでなく、その理想郷を権威的な美術館と接触させることで、そこにある種の生々しい生命感を生んだのだ。
アート・アクティヴィストとしての横井弘三。これは、あくまでもナイーヴ・アートとしての横井に焦点を当てることに終止した本展からは見えにくいが、しかし、横井にとってはもっとも本質的な、すなわちもっとも魂が躍動した、まことに芸術的な経験だったにちがいない。既存のオーソドックスな展示構成に呪縛されるあまり、このような横井弘三の真骨頂を大々的に取り上げることができない公立美術館には、いったいどんな接触領域が有効なのだろうか。

2016/06/03(金)(福住廉)

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