2017年09月15日号
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artscapeレビュー

新聞家『白む』

2017年09月01日号

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会期:2017/07/20~2017/07/25

Buoy[東京都]

北千住の古いマンションの地下に降りる。コンクリートむき出しの会場に、円陣状の客席。扇風機が回る。クーラーなし。ペットボトルをもらって汗を拭う。村社祐太朗の演劇の特徴に毎回会場が変わるということがある。いわゆる劇場は用いない。美術ギャラリーなどが多い。環境は作品を変える。村社はそのことに自覚的だ。新聞家の劇は、そのデリカシーゆえに、演劇でありながら、絵画に見えたり、彫刻に見えたりする。会場が美術ギャラリーだからだけではなく、観客の「見ること」へ向けた作術が繊細であるが故のこと。例えば1年前の『帰る』では、ソファーに座る二人の男女が近代の肖像画のように見えた。絵画か彫刻のように見える演劇は、見ることの集中度が高くなり、見入ってしまう。今作は様子が違っていた。円陣状の客席に混じって、俳優も同じパイプ椅子に座り、座りながら話を始める。俳優の3人は1人ずつしばらく喋ると、交代する。内容は家族や恋人との思い出。思い出はレストランの名前とメニューとともに語られる。高級レストランもあれば、ファミレスも出てくる。誰かと食べた思い出。記憶にとどめられない分量の語りを観客は聞き続ける。古いマンションの片隅でしかも円陣の輪の中で聞いていると、まるで住民の管理組合の会議でメンバーの話に耳を傾けているような、なんというべきか「車座」感が出てくる。役者たちは絵画でも彫刻でもなく、生身の人間として「居る」、その感じが今作では強調されていた。そういえば、受付時に、赤い干しトマトが振舞われ、口にすると甘く、酸っぱい味がした。その経験を会場の観客たちは共有しているのだった。筆者は時間が取れず参加できなかったが、観客全員と行なう意見会も新聞家恒例の趣向で実施されている。ひとの話を聞き、自分の感想も語り、交互にそれが行なわれるという意見会で起きることは、上演中、役者と観客との間で起きている交感とさして変わらない、ということなのかもしれない(上演後も残れたらよかった)。であるならば、村社は、「話すこと」と「聞くこと」というきわめて基本的な、演劇的であり社会的でもある状況へと観客の意識を向けようとしている。ここに新聞家の真髄がある。それがはっきりとした。

2017/7/25(火)(木村覚)

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