2024年03月01日号
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artscapeレビュー

松田修展「みんなほんとはわかってる」

2017年09月01日号

会期:2017/07/15~2017/08/12

無人島プロダクション[東京都]

先ごろ神奈川県立近代美術館葉山館で萬鉄五郎の回顧展がおよそ20年ぶりに開催された(9月3日まで。その後、新潟県立近代美術館に巡回)。萬といえば日本にフォーヴィスムを導入した立役者のひとりとして評価されているが、本展で強調されていたのは初期に学んだ水墨画や南画風に描かれた土着的な風景画などで、在野のモダニストとして一面的に語られがちな画家の多面性をあますことなく伝えていた。
松田修は東京藝術大学出身のアーティストだが、現在は特にペインターを自称しているわけでもないので、出身校以外に萬との共通点があるわけではない。だが、萬の代表作のひとつ《雲のある自画像》(1912)を見ると、松田との強い関連性を痛感しないわけにはいかない。暗く陰鬱な表情や顔立ちが似ているというだけではない。頭上に雲(と断定してよいものかどうかわからないが)を抱いた男という謎めいた主題が、松田の作品に感じる独特の気配と著しく通底しているように感じられるからだ。
今回発表された新作の映像作品《さよならシュギシャ》は、まさしく松田ならではの気配が濃厚に漂う作品である。カメラの前で松田自身が演じているのは、主義主張が異なるさまざまな主義者。マルクス主義者、フェミニスト、ペシミスト、ナルシシスト、新自由主義者、レイシスト、ナチュラリスト、ポピュリスト、ファシスト、アナキストなど、いかにも発言しそうな言葉をいかにもな身ぶりと声色で簡潔に語ってみせる芸は、ややふざけすぎている印象が強いとはいえ、それを徹底している点で見事である。最後を「オサムちゃん」で締めるなど、構成も素晴らしい。
むろん、ここにはあらゆる主義者を徹底的に小馬鹿にする批評性がないわけではない。政治的なイデオロギーは何であれ、特定の主義者にアイデンティティーを置く者が見れば、自らが嘲笑されたとして烈火の如く怒り狂うかもしれない。あるいは逆に、自らと敵対する主義者がネタにされているのを見て「ざまあみろ」と喝采を送った者もいるだろう。だが、かりにそうだとしても、来場者の脳内に一抹の疑問が残ることは否定できない。では松田自身は何主義者なのかと。
《さよならシュギシャ》という作品名から察すると、あらゆる主義主張を批判的に相対化する相対主義者のようにも見えるし、どんなイデオロギーであれすべてを笑いに還元する道化に徹しているという点では、虚無主義者のようでもある。松田はステイトメントにおいて既成のレッテルやカテゴリーへの批判的な問題意識を表明しているが、結果として「相対主義者」や「虚無主義者」に回収されているように見えかねない点は、あるいはこの作品の本質を突いているのかもしれない。
おそらく松田自身は知っているのだ。自分がどんな主義者にもなりきれないことを。だからこそどんな主義者にも等しくなりきる演技ができるのだろう(時折視線を落として手元の原稿を読んでいるような演技は、それが演技であることを鑑賞者に訴えるためのメタ演技である)。しかしその一方で、彼はなんらかの主義者を演じることを余儀なくされることもまた十分に熟知している。「オサムちゃん」にしても、たまたま同じ名前であるという理由だけで例の芸をやらざるをえない役割期待の重圧を物語る格好の例証だろう。その不可能性と役割期待とのあいだで自由に身動きが取れないまま生きてゆかざるをえないところに、彼はやるせないほどのリアリティを置いているのではなかったか。
松田はその暗澹たる気配を直接的に視覚化しているわけではない。その気配の質が直接的な表現を決して許容しないからだ。松田修の頭上に何かが浮かんでいるとすれば、それは萬鉄五郎の「雲」のように暗い内面の鬱勃の現われというより、むしろ自らの表現を抑圧してやまない「塊」なのではなかったか。彼の作品に強く醸し出されている、乾いた、そして醒めたユーモアは、その「塊」から生まれた生存様式なのだ。

2017/07/21(金)(福住廉)

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