artscapeレビュー

2017年09月01日号のレビュー/プレビュー

岡本太郎と遊ぶ

会期:2017/07/15~2017/10/15

川崎市岡本太郎美術館[神奈川県]

「遊び」を切り口として岡本太郎の作品を紹介するとともに、現代アーティストが岡本太郎の作品「と」遊ぶ展覧会。本展に出品されている岡本太郎の作品の中でデザインという視点から興味惹かれるのは「遊ぶ字」。画集『遊ぶ字』(日本芸術出版社、1981)に収録された字など、太郎の「遊ぶ字」は、読めるか読めないかといえば、ちゃんと読める字として描かれれている。書というよりも、絵画というよりも、多分にグラフィック的。その仕事はしばしば商業的あるいは非営利のポスターにも用いられている。誰が見ても岡本太郎の作品であることは一目瞭然なのだが、他方でその字はそのポスターとしっかり結びついて、人々に記憶されている。すなわち、正しくロゴタイプとして機能しているのだ。野沢温泉の「湯」の字(1983)はその典型だろう(考えてみれば、岡本太郎の彫刻作品もまた太郎の作品であると同時に、その土地のランドマークともなっている)。「岡本太郎と遊ぶ」という点では、ドローイングと作品を比較させてみたり、畳敷きに座って作品を見たり、彫刻に触れたり、《梵鐘・歓喜の鐘》を叩いて音を聞いたり、匂いから岡本太郎の作品をイメージさせる作品など、参加型の展示がある。夏休みらしい、それでいて大人も楽しめる鑑賞のための工夫がいい。参加アーティストは、チーム☆TARO (NPO ARDA)、酒井貴史(美術作家)、BBモフラン(打楽器奏者)、たたら康恵(音楽療法士)、田中庸介(詩人)、横山裕一(漫画家/美術家)、井上尚子(美術作家)。[新川徳彦]

2017/07/14(金)(SYNK)

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カミナリとアート 光/電気/神さま

会期:2017/07/15~2017/09/03

群馬県立館林美術館[群馬県]

文字どおり雷をテーマとした企画展。自然現象としての稲妻を主題とした絵画や写真、雷神像など信仰心から生まれた民俗学的な資料、さらには雷を構成する光、音、そして電気などで表現された現代美術の作品など、69点が展示された。
同館がある関東平野の北部は、もともと雷が多発する地域として知られているが、昨今の異常気象は雷の脅威が特定の地域に限定されないことを如実に物語っている。ただ、その閃光と雷鳴が人々の恐怖を駆り立てることは事実だとしても、大地に轟くような音とともに空を走る稲妻の光線にある種の美しさや高揚感を感じることもまた否定できない。人間にとって雷とは両義的な自然現象であり、それゆえ崇高の対象であると言えるかもしれない。
バークやカントが練り上げた崇高論の要諦は、それを美と切り離しつつも、その根底にある種の逆転構造を見出した点にある。すなわち不快の経験がいつのまにか快楽のそれに転じること。アルプスの険しい山岳にせよドーバー海峡の荒々しい大海原にせよ、人間の生存を脅かしかねないほど強大な自然の猛威を目の当たりにした人々は、それに慄きながらも、同時に、それに惹きつけられる矛盾した心情を抱いた。自然への畏怖が時として畏敬の念に転じるような逆転する美学的概念こそが崇高にほかならない。
そのような観点から本展を鑑賞してみると、いわゆる「美術」の作品と「民俗」学的な資料とのあいだに歴然とした差を痛感せざるをえない。後者が崇高的な両義性を内包しているように感じられる反面、前者はおよそ一面的であるように感じられるからだ。富士山の前に立ち込めた暗雲の中に走る稲妻を描いた《怒る富士》(1944)であれ、白髪一雄の《普門品雷鼓制電》(1980)であれ、確かに雷の恐ろしさや激烈なエネルギーを体感することはできるが、崇高的な逆転構造を見出すことは難しい。それに対して、前近代の絵師たちが描いた風神雷神図はおおむねユーモラスに描写することによって、そのような逆転構造をよりいっそう強調しているように見える。一見すると雷の壮大な脅威にはそぐわないようだが、風神雷神をチャーミングなキャラクターとして描写することが、じつのところ雷の暴力性を逆照しているからだ。雷が恐ろしい現象であることが前提となっているからこそ、それをあえて脱力したキャラクターとして形象化していると言ってもいい。
現代社会から遠のいてゆく崇高──。むろんバークやカントが想定していた自然の崇高は、今日の都市社会においては、さほど大きなリアリティをもっているとは言い難い。その対象を人工的な都市社会に差し替えた「テクノロジー的崇高」なる概念が捻出されたこともあったが、前近代の人々と比べれば、現代人が雷の脅威に直面する機会は乏しいことに変わりはない。
ところが唯一の例外として考えられるが、ストーム・チェイサーこと青木豊である。嵐を追跡して観測・撮影するプロフェッショナルで、特に現代美術のアーティストというわけではないし、現代写真のフォトグラファーというわけでもないのだろうが、青木こそ、今日の崇高を体現する希少なクリエイターではなかったか。なぜなら彼が撮影した写真には、稲妻の美しさと恐ろしさが渾然一体となって写し出されていることが一目瞭然であるからだ。しかし、それだけではない。その写真には、本来であれば一目散に逃げ出さなければならないはずの雷を、逆に率先して発見して追い求める、異常なまでの執着心がにじみ出ている。あるいは、恐ろしさの痕跡が抹消されているように感じられるほど美しさが際立っている。こう言ってよければ、その狂気をはらんだ熱意に恐ろしさを感じるのだ。
不快の経験から快感のそれを導くのでなく、逆に、快感の経験を突き詰めることによって不快のそれを引き出す。やや大げさに言い換えれば、青木豊の仕事はバークやカントの逆転構造をさらに逆転させているのではないか。そこにこそ今日の崇高が立ち現われている。

2017/07/20(木)(福住廉)

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手塚夏子『漂流瓶プロジェクト第一弾 ~それは3つの地点から始まる~』

会期:2017/07/21~2017/07/23

STスポット[神奈川県]

「漂流瓶」とは、手塚夏子が誰かに委ねる指示書(振付のスコア?)のこと。手塚本人、韓国のYeongRan Suh、スリランカのVenuri Pereraの3人が指示書に従ったパフォーマンスを上演した。指示書には5項目の指示がある。そこでは、西欧近代化の影響を受け価値観の変動があったと自認する非西欧の作家に、価値観の変動が起きた以前の文化的な行為を取り上げ、実演してもらい、そこでの深い反省を経て、ゴールとして現代の芸能や祭りを構想するまでのプロセスが要請されている。「漂流瓶」とはつまり、手塚によるパフォーマンスのアイディアのアーカイヴ化であり、それを他者に委ねるという意味でアーカイヴの活用の試みであり、西欧近代化に巻き込まれた非西欧の国の文化を再考し、再構築を目指すチャレンジのことである。
手塚は綱引きの綱を体に巻きつけ登場、綱の反対の先には萩原雄太(かもめマシーン)がいて、「どうしたらまっとうな大人になるよう子どもを教育できますか?」などといった「成熟(西欧的価値の香りが漂う)」をめぐる問いかけを手塚にし続ける。手塚は途中から、言葉が飲み込めないようになって、何度も吃り始める。手塚が綱を思いっきり引っ張ると、萩原は舞台に現れ、観客も巻き込んだ綱引き大会になった。YeongRanのパフォーマンスは、より本格的に観客参加型で、観客は席を立つよう指示されると、韓国、日本、アメリカ合衆国、イスラエルの旗を渡され、質問に従って、旗を上げ下げするよう求められる。質問は、どの国が一番好きか、どの国が一番民主的だと思うか、など。好きな国別に分かれて、リーダーを決め、リーダーが質問を受けると、その回答に指示できるか、旗を振って答える、なんて場面にまで進むと、観客は「旗を振ること」「リーダーを作る、それを支持(非支持)すること」などの意味に自問自答するようになる。Venuriは、スリランカが極めて「弱い」パスポートの国で、また他国のビザの獲得が非常に困難であり、ゆえに「ビザ・ゴッド」に祈りを捧げることが流行っていると観客に説明すると、伝統的な祈祷の儀式をベースにしているらしい「ビザ・ゴッド」への祈りの儀式を実演した。3作家のパフォーマンスを見て「スコア」の可能性にあらためて気づかされた。スコアは民主的だ。誰でもアクセスでき、誰でもスコアの力を借りて、感性的で知的な反省の機会を得ることができる。しかも、観客の参加を促すパフォーマンスの形式では、観客もまた傍観者ではいられずに、何かの役割を生きることになる。こういう民主的なアイディアの実践に、観客の側が習熟する先に何か新しい未来的な上演の空間があると思わされる。「道場破り」と称した、ダンスの手法の交換を実践し、交換した手法で対決する企画を行なったこともある手塚夏子らしい挑戦だ。第二弾にも期待したい。

2017/07/21(金)(木村覚)

怖い絵展

会期:2017/07/22~2017/09/18

兵庫県立美術館[兵庫県]

ドイツ文学者の中野京子が2007年に上梓したベストセラー『怖い絵』。同シリーズの第1巻発行から10周年を記念して開催された同展では、約80点ものヨーロッパ近代絵画や版画が展示された。本展の功績は「恐怖」を切り口に、絵画を「読み解く」楽しみを観客に伝えたことだ。もちろんこれまでの展覧会でも作品のそばにキャプションを添えて簡単な解説を行なってきた。しかし、美術鑑賞の大前提として、観客の自由な感性による美術鑑賞を最優先し、説明は最小限に控えるべき、という価値観があったのではないか。本展ではその大前提を覆して、作品が持つストーリーや背景を積極的に紹介していた。特に神話画、宗教画、歴史画など、日本人に縁の薄い西洋画ジャンルでは、この方法が有効だ。今後の西洋美術展の見せ方にも影響を与えるのではなかろうか。また本展を通じて知ったもうひとつの驚きは、神話画や歴史画のダイナミックな表現が、後のハリウッド映画に少なからず影響を与えていたということ。これは音楽にもいえることで、19世紀ロマン派のクラシック音楽を現代に継承しているのはハリウッド映画だ。芸術がもともと持っていた娯楽性の部分を映画に譲ったことが、20世紀の難解な前衛芸術を招いた原因のひとつなのかも。そのような推論を巡らせながら本展を見ると、さらに興味がそそられた。

2017/07/21(金)(小吹隆文)

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松田修展「みんなほんとはわかってる」

会期:2017/07/15~2017/08/12

無人島プロダクション[東京都]

先ごろ神奈川県立近代美術館葉山館で萬鉄五郎の回顧展がおよそ20年ぶりに開催された(9月3日まで。その後、新潟県立近代美術館に巡回)。萬といえば日本にフォーヴィスムを導入した立役者のひとりとして評価されているが、本展で強調されていたのは初期に学んだ水墨画や南画風に描かれた土着的な風景画などで、在野のモダニストとして一面的に語られがちな画家の多面性をあますことなく伝えていた。
松田修は東京藝術大学出身のアーティストだが、現在は特にペインターを自称しているわけでもないので、出身校以外に萬との共通点があるわけではない。だが、萬の代表作のひとつ《雲のある自画像》(1912)を見ると、松田との強い関連性を痛感しないわけにはいかない。暗く陰鬱な表情や顔立ちが似ているというだけではない。頭上に雲(と断定してよいものかどうかわからないが)を抱いた男という謎めいた主題が、松田の作品に感じる独特の気配と著しく通底しているように感じられるからだ。
今回発表された新作の映像作品《さよならシュギシャ》は、まさしく松田ならではの気配が濃厚に漂う作品である。カメラの前で松田自身が演じているのは、主義主張が異なるさまざまな主義者。マルクス主義者、フェミニスト、ペシミスト、ナルシシスト、新自由主義者、レイシスト、ナチュラリスト、ポピュリスト、ファシスト、アナキストなど、いかにも発言しそうな言葉をいかにもな身ぶりと声色で簡潔に語ってみせる芸は、ややふざけすぎている印象が強いとはいえ、それを徹底している点で見事である。最後を「オサムちゃん」で締めるなど、構成も素晴らしい。
むろん、ここにはあらゆる主義者を徹底的に小馬鹿にする批評性がないわけではない。政治的なイデオロギーは何であれ、特定の主義者にアイデンティティーを置く者が見れば、自らが嘲笑されたとして烈火の如く怒り狂うかもしれない。あるいは逆に、自らと敵対する主義者がネタにされているのを見て「ざまあみろ」と喝采を送った者もいるだろう。だが、かりにそうだとしても、来場者の脳内に一抹の疑問が残ることは否定できない。では松田自身は何主義者なのかと。
《さよならシュギシャ》という作品名から察すると、あらゆる主義主張を批判的に相対化する相対主義者のようにも見えるし、どんなイデオロギーであれすべてを笑いに還元する道化に徹しているという点では、虚無主義者のようでもある。松田はステイトメントにおいて既成のレッテルやカテゴリーへの批判的な問題意識を表明しているが、結果として「相対主義者」や「虚無主義者」に回収されているように見えかねない点は、あるいはこの作品の本質を突いているのかもしれない。
おそらく松田自身は知っているのだ。自分がどんな主義者にもなりきれないことを。だからこそどんな主義者にも等しくなりきる演技ができるのだろう(時折視線を落として手元の原稿を読んでいるような演技は、それが演技であることを鑑賞者に訴えるためのメタ演技である)。しかしその一方で、彼はなんらかの主義者を演じることを余儀なくされることもまた十分に熟知している。「オサムちゃん」にしても、たまたま同じ名前であるという理由だけで例の芸をやらざるをえない役割期待の重圧を物語る格好の例証だろう。その不可能性と役割期待とのあいだで自由に身動きが取れないまま生きてゆかざるをえないところに、彼はやるせないほどのリアリティを置いているのではなかったか。
松田はその暗澹たる気配を直接的に視覚化しているわけではない。その気配の質が直接的な表現を決して許容しないからだ。松田修の頭上に何かが浮かんでいるとすれば、それは萬鉄五郎の「雲」のように暗い内面の鬱勃の現われというより、むしろ自らの表現を抑圧してやまない「塊」なのではなかったか。彼の作品に強く醸し出されている、乾いた、そして醒めたユーモアは、その「塊」から生まれた生存様式なのだ。

2017/07/21(金)(福住廉)

2017年09月01日号の
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