2017年11月15日号
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artscapeレビュー

命短し恋せよ乙女~マツオヒロミ×大正恋愛事件簿

2017年09月01日号

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会期:2017/07/01~2017/09/24

弥生美術館[東京都]

「貴女、もう地獄に落ちてますよ」。シンガーソングライター・吉澤嘉代子の《地獄タクシー》(2017)は、女性解放を唄った名曲である。タクシーに乗り込んで空港へ向かう女は、「レースの手袋に滲んだ赤黒い染みを隠して、重い鞄を抱きしめた」。鞄の中に詰められているのは、亭主の首。だが、「窓の外を見遣ると、豊かな麦畑の黄金がそれはそれは美し」く見えるほど、女の気分はじつに晴れやかだった。抑圧からの解放と破滅の道が表裏一体であること。吉澤が軽やかに歌い上げているのは、地獄の釜の底に自由と解放を見出さずにはいられない女の切実な心情である。
本展は、明治大正時代の文学者や画家、詩人や俳人らの恋愛事件を当時の新聞記事や写真、小説など、数々の資料によって振り返ったもの。文学士・森田草平との心中未遂の後、洋画家・奥村博史と「結婚」ではなく「共同生活」をした、女性解放論者の平塚らいてう。そのらいてうが創刊した『青鞜』に執筆し、夫の田村松魚がいながら、『青鞜』の表紙絵を描いた長沼智恵子(後の高村智恵子)との恋仲が噂された、バイセクシュアルの小説家・田村俊子。そして二度目の駆け落ちでソ連に亡命し、スパイの容疑で収監、刑期を終えた後、ソ連でアナウンサーや演劇の仕事につき、当地で生涯を終えた女優・岡田嘉子。いずれも現在の姦しい不倫騒動が霞んで見えるほど劇的かつ濃厚、まさしく「事実は小説より奇なり」とも言うべき事件簿ばかりで、いちいち面白い。
展示で強調されていたのは、現在とは比べ物にならないほど頑強な「家制度」の力。家長たる男子を絶対視する家制度においては、個人の自由恋愛はそれを蔑ろにするご法度として罪悪視されていた。恋愛から結婚ではなく結婚から恋愛という手順が自明視されていた時代だからこそ、ある者は家制度の束縛に身を滅ぼすほど煩悶し、ある者はそれからの離脱に人生を賭けたのだった。言い換えれば、家制度が社会の核心に蔓延っていたがゆえに、それをよしとしない者たちは、たとえその外部が地獄だとしても、その釜の底を歩む道を選び取ったのである。
翻って現在、家制度の権勢は失われ、自由恋愛を阻む障壁の一切は取り払われたかのように見える。しかし、そうであるがゆえに、いわば地獄行きのタクシーに乗り込むような覚悟と情熱もまた、大きく損なわれてしまったのではなかったか。おびただしい数の資料群とともに展示されていたマツオヒロミによるイラストレーションは、竹久夢二や徳田秋聲との恋愛で知られる山田順子や前述した田村俊子を主題にしたものだが、流麗な線と艶やかな色彩によって女性の柔らかな肢体や着物の柄を丹念に描き出す力量は見事というほかない。あわせて展示されたラフ原稿を見ると、完成作の線とほとんど大差ないことにも驚かされる。だがその一方で、その耽美的な絵肌にいささか物足りない印象を覚えたのも事実である。というのも、マツオが描き出す女性像は、いずれも妖艶な魅力を確かに備えている反面、本展で詳しく紹介されている女性たちが醸し出す「業」を、ほとんど見出すことができないからだ。言ってみれば、天国で優雅に佇むような美しさは湛えているが、地獄の底を這いつくばりながら歯を食いしばって生きるような根性は到底望めないのである。
むろん、それは個人を疎外してやまない家制度の束縛から解き放たれ、自由恋愛を謳歌する現代の女性たちの等身大の姿なのかもしれない。彼女たちが100年以上も前の人間模様にある種の親近感を覚えることができるようにするための工夫とも考えられる。だが、かりにそうだとしても、そのようにして展示に含められた現代性を看過することはできない。なぜなら、そのような現代性は明治大正時代の展示構成にも少なからず暗い影を落としているように思われるからだ。
その暗い影とは、本展における伊藤野枝と阿部定の欠落である。前者は、言うまでもなく、雑誌『青鞜』に寄稿していた婦人解放運動家にして大杉栄と並ぶ無政府主義者で、事実、平塚らいてうと同様、野枝は結婚制度を拒否しつつ、大杉とのあいだに4人の子どもを設けたが、関東大震災の混乱に乗じた憲兵隊によって大杉とともに虐殺された。同じく『青鞜』に寄稿していた神近市子が大杉の喉元を刃物で刺した「葉山日陰茶屋事件」で野枝の名前を知る人も少なくないだろう。後者は、前者よりやや年少の芸妓・娼妓で、昭和11年(1936)に、性交中の愛人の男性を絞殺したうえ、男性器を切断して持ち逃げた「阿部定事件」で知られている。両者はともに家制度から逃れながら自由恋愛を実践し、結果として社会の大きな注目を集める事件を引き起こした点で共通しており、その意味で言えば、本展で紹介される資格を十分に備えているが、どういうわけか本展には含まれていない。厳密に言えば、阿部定事件があったのは昭和だから、明治大正時代の恋愛事件簿を取り扱う本展にはそぐわなかったのかもしれない。だが、平塚らいてうがいて伊藤野枝がいないのはどう考えても不自然であるし、自然主義文学運動を牽引した島村抱月と愛人関係にあった女優の松井須磨子がスペイン風邪で亡くなった抱月の後追い自殺を遂げた事件や、『婦人公論』の記者・波多野秋子と不倫関係にあった文学者の有島武郎が軽井沢の山荘で心中した事件を目の当たりにした以上、来場者の想像力が情死の極致とも言うべき阿部定事件に及ぶのは、至極当然の成りゆきではないか。
政治性とセクシュアリティ──。伊藤野枝と阿部定が本展からあからさまに排除されたのは、おそらく彼女たちが近代の美術館が露骨に忌避するこの2つの条件をものの見事に体現しているからだ。前者はアナキズムの運動家という点であまりにも政治的であり、後者は男根を直接的に連想させるという点であまりにも性的にすぎる。明治大正時代の恋愛事件簿を総覧した本展は、基本的にはその醍醐味をあますことなく伝えることに成功していると言えるが、伊藤野枝と阿部定を等閑視することによって、結果的にその本質的な魅力を半減させてしまっているのではないか。平成を視野に収めすぎたがゆえに、明治大正の濃厚な色彩がいくぶん脱色されてしまっていると言ってもいい。
ところが、改めて確認するまでもなく、男であれ女であれ、人は誰しも性的存在であり、なおかつ「個人的なことは政治的なことである」というフェミニズムの大前提を持ち出すまでもなく、抑圧された女性が解放を求めるとき、政治性とセクシュアリティを無視することは決してできない。それらは、ある種の生きにくさを痛感させられているあらゆる人々にとっての問題のありかを示す道標であり、同時に、解放のための闘争の現場でもある。とりわけ戦後の現代美術が、こうした基本的な問題設定を忘却の彼方に沈めてきたことを思えば、地獄行きのタクシーに乗らなければならないのは、もしかしたら「美術」そのものなのかもしれない。

2017/07/22(土)(福住廉)

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