2018年04月15日号
次回5月15日更新予定

artscapeレビュー

村田真のレビュー/プレビュー

石内都 肌理と写真

会期:2017/12/09~2018/03/04

横浜美術館[神奈川県]

石内都の写真はシリーズごとには何度も見たことがあるけど、まとめて見る機会はなかった。こうして初期から通して見て初めて「なるほど」と納得した。展示は横浜のアパートを撮ったシリーズから始まるが、しばらく見ていくと塗装のはげた壁や床を執拗なまでに撮っている写真に出くわし、ここでひとり合点したのだった。それは石内が、人であれ建物であれ年季の入ったものの表面に関心がある、というより、そのテクスチュアにフェティッシュな欲望を感じているんじゃないかということだ。例えば、はがれそうな塗装とかはがれそうな皮膚とか見ると、はがさずにはいられないような皮膚感覚。それが彼女の写真を貫く美学なのだと勝手に理解したのだった。大野一雄のしわくちゃの肌を撮った《1906 to the skin》も、女性の傷跡ばかり追った《Innocence》も、母の遺品を記録した《Mother’s》も、被爆者の衣類を写した《ひろしま》も、絹の着物を追った《絹の夢》も《幼き衣へ》も《阿波人形浄瑠璃》も、すべて皮膚および、皮膚に触れる衣のテクスチュア(テキスタイルと同じ語源)を印画紙に定着させたものにほかならない。そういえば、石内は多摩美の染織(テキスタイル)専攻だった。

2017/12/22(金)(村田真)

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ジャネット・カーディフ & ジョージ・ビュレス・ミラー

会期:2017/11/25~2018/03/11

金沢21世紀美術館[石川県]

ジャネット・カーディフ&ジョージ・ビュレス・ミラーの作品は、ドクメンタやミュンスター、越後妻有、札幌などの国際展で何度か見たことあるけど、大規模な個展を見るのは初めて。最初の部屋には修道院の模型が置かれ、なかをのぞくと、どこかで見たような情景がミニチュア模型で再現されている。《アントネロとの対話》と題されているので、15世紀の画家アントネロ・ダ・メッシーナの油彩画《書斎の聖ヒエロニムス》だとわかる。よくできているけど、これだけだったら単に絵画を立体化したトリックアートと変わらない。しばらく見ていると照明や音が少しずつ変化していき、朝から夜まで1日の時の流れを再現しようとしていることに気づく。つまり2次元の絵画が3次元に立体化され、さらに時間を加えて4次元化しているのだ。これはおもしろい。

ほかにもレコードとスピーカーで埋まった部屋、不気味な音と光を発して回るメリーゴーランド、引出しを引くと異なる音が出る棚、たくさんの操り人形を乗せたキャンピングカーなど、ほとんどの作品は箱状の装置が各展示室の中央に1点ずつ置かれ、その周囲を観客が囲んで見るという仕組み。いずれも音や光を発したり動いたりしながら、それぞれレトロ調の物語を紡いでいく。ちなみに、操り人形やメリーゴーランドというのは子供が楽しむ遊びだが、それが静止していると寂しさや不気味さを感じ、勝手に動いたりすると恐怖の対象にすらなる。そんな楽しさと恐ろしさを同時に秘めたエモい作品群。ああ見てよかった。

2017/12/16(土)(村田真)

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国際シンポジウム:「複合媒材」の保存と修復を考える

会期:2017/12/16

金沢21世紀美術館[石川県]

タイトルの「複合媒材」は「ミクスト・メディア」といったほうがわかりやすいかもしれない。要するに絵画・彫刻といった従来の形式から外れたメディアアートやインスタレーションなど、後先を考えずにつくられた現代美術の保存と修復を巡るシンポジウム。朝から夕方まで半日がかりの長丁場だが、全部聞いたのはもちろんヒマだったこともあるけど、それ以上に現代美術を保存・修復する行為に矛盾というか違和感を感じていたからだ。午前中はボストン美術館のフラヴィア・ペルジーニの基調講演があり、昼休みを挟んで午後から韓国のサムスン美術館リウムの柳蘭伊(リュウ・ナニ)、香港に開館予定のM+(エムプラス)のクリステル・ペスメ、21世紀美術館の内呂博之がそれぞれ事例報告を行なった。いずれも作品の保存・修復を担当するコンサベーターの肩書きを持つ。

まずペルジーニがボストン美術館の取り組みを紹介。同館は古代から現代まで45万点のコレクションを誇る世界屈指の総合的ミュージアムだけあって、コンサベーション部門だけで30人もいるというから驚く。なかでも現代美術の保存・修復は、媒材が多様なうえ規格が更新されていくため苦労するらしい。特に光や音を出したり動いたりする機械仕掛けの作品は、時がたつにつれ技術が陳腐化していくため、部品が製造中止で入手できず動かなくなるといった問題が生じる。そのためコピーをつくって展示し、オリジナルを保存するなどいろいろ工夫しているという。そこまでして残す価値はあるのか、それこそ裸の王様ではないかと疑念が浮かぶ。

柳はサムスンが購入したナムジュン・パイクの《20世紀のための32台の自動車》という屋外インスタレーションを中心に、リキテンスタインの屋外彫刻、宮島達男のLEDを用いた作品の修復例を報告。ペスメは高温多湿、台風が多くて海も近いという美術品にとっては厳しい環境の香港で建設中の美術館の取り組みを紹介。内呂は21世紀美術館のように人の入りやすい美術館は、外のホコリや菌が持ち込まれやすいため作品にとってリスクが大きいというジレンマを打ち明け、また日本の国公立美術館でコンサベーターを抱えているところは10館にも満たず、現代美術にいたってはほとんどいないという現状を訴えた。最後のディスカッションで記憶に残ったのは、作品やオリジナリティの概念自体が大きく変わった現代美術にあって、かつての保存・修復の技術や考えでは対応できなくなっていることだ。むしろモノとしての作品を無理に残すより、作者の意図、作品のコンセプトを保存すべきではないか、という意見には賛同する。

2017/12/16(土)(村田真)

《鈴木大拙館》

鈴木大拙館[石川県]

21世紀美術館のシンポジウムの昼休みが2時間あったので、徒歩10分ほどの《鈴木大拙館》へ行ってみる。鈴木大拙はいわずと知れた「禅」を世界中に広めた仏教哲学者で、同館の近くで生まれた縁で建てられたらしい。館の設計は谷口吉生。敷地全体に比べて、書籍や原稿、書などのコレクションを公開する展示室は小さく、「水鏡の庭」と名づけた屋外の池と、その池をながめながら思索するキューブ状の「思索空間」の比重が大きい。記念館と銘打たなかったのはそのためだろう、大拙の思想を象徴的に表わそうとした建築だ。2011年の竣工だからまだ新しく、垂直・水平の直線だけで構成されたミニマルなデザインは、ほかの目立ちたがりの建築とは比べようもないほど端正で気品にあふれている。思索空間でしばし呆ける。


《鈴木大拙館》(奥は思索空間)

2017/12/16(土)(村田真)

素材と対話するアートとデザイン

会期:2017/01/16~2018/01/08

富山県美術館[富山県]

北陸ひとり旅。つーか妻子がハワイにトンヅラこいたので、ひとり寂しく美術館でも見に行こうって話だ。まず訪れたのが富山県美術館。ぴあ時代、たしか初めて地方に出張させてもらったのが富山県立近代美術館の開館時の取材で、1981年のことだった。開館記念展として「富山国際現代美術展」が開かれ、出品作家のダニエル・ビュレンや彦坂尚嘉らが出席。日本では東京ビエンナーレ70「人間と物質」以来の国際展として、華々しい門出を飾ったものだ。当時はまだ公立美術館が少なく、特に「近代美術館」という名称が輝いていた時代、日本海側の富山がいきなり海も山も越えてアートワールドに直結してしまったわけで、とまどいも少なくなかった。オープニングに駆り出された通訳はアートのアの字も知らない地元の英語教師たちで、招聘アーティストとの会話のチグハグさに英語を解さないぼくでさえ唖然としたのを覚えている。そんな土着文化とアートとの摩擦が表面化したのが、86年の「とやまの美術」展を機に起きた表現の抑圧を巡る事件だったのかもしれない。

なんでこんな昔話を蒸し返したのかというと、一昨年末その県立近代美術館が閉館し、昨年の夏、富山駅の反対側にあらたに富山県美術館として再スタートを切ったからだ。公立の「近代美術館」が盛んに建てられたのはおもに70-80年代。神奈川県立近代美術館(51)を嚆矢として、兵庫県(70)、和歌山県(70)、群馬県(74)、北海道(77)、富山県(81)、埼玉県(82)、滋賀県(84)、茨城県(88)、徳島県(90)、新潟県(93)と続き、秋田県(94)を最後に近代を冠した美術館は途絶える。バブルが崩壊し、ポストモダニズムがひと段落した時期で、「近代」という言葉がいささか時代遅れに感じられるようになったからだろう。そのかわりに現代美術館とか21世紀美術館とか未来志向のネーミングか、さもなければ地名+美術館のシンプルな名称が増えていく。そして21世紀になって、震災で被災した兵庫県立近代美術館が「近代」を外して兵庫県立美術館に、富山県立近代美術館も富山県美術館に後退(とあえていいたい)してしまうのだ。

近代美術館というのはMoMAが最初に示したように、本来扱う作品が近代であることよりも、美術館のあり方が近代的であろうとする態度表明ではなかったか。つまり「近代美術の館」ではなく「近代的な美術館」という解釈だ。だとするなら「近代」を外すことは美術館の姿勢としてやはり後退といわざるをえないだろう。富山県立近代美術館が近代を外した理由は知らないけれど、富山県美術館になって明確に打ち出したことがある。それは英語名のToyama Prefectual Museum of Art and Design(通称TAD)にあるように、アートとデザインを館の2本柱に据えたことだ。富山は以前から「世界ポスター・トリエンナーレ」を開いたり、デザインチェアを収集したり、デザインに力を入れていた。それは隣県の金沢が工芸の街で、21世紀美術館も現代工芸を推進しているため、デザインで対抗しようとしているのかもしれない。ならば近代美術館のままでよかったはずだし、いっそ富山アート&デザイン館としたほうがストレートだった。

長々と書いてしまった。美術館は富山駅の北、富岩運河環水公園に面して建つ。南東が全面ガラス張りになっていて、眼下の公園のはるか向こうに立山連峰を望む絶好のロケーションだ。設計は《茨城県天心記念五浦美術館》や《島根県芸術文化センター》などを手がけた内藤廣。いちおう美術館そのものを見に来たので、開催中の「素材と対話するアートとデザイン」展はほとんど素通りしてしまったが、併催されていた「ワールド工芸100選」のほうは足が止まった。文字どおり世界の現代工芸を集めたもので(金沢のお家芸じゃなかったか)、およそ伝統を重んじる工芸の概念とは無縁の、微に入り細をうがち奇をてらったマニエリスティックな作品の数々が並んでいるのだ。なかでもLee Seunghee(なんて読む?)の《タオ2016》は、陶磁器を陶磁器で描くという離れ技をやってのけている。画中画ならぬ陶中陶。


富山県美術館

2017/12/15(金)(村田真)

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