artscapeレビュー

福住廉のレビュー/プレビュー

太田遼 武政朋子 箕輪亜希子「From the nothing, with love. ─虚無より愛をこめて─」

会期:2014/05/21~2014/06/01

シャトー小金井[東京都]

「絵画」や「彫刻」、「建築」を根本的に疑うこと。それぞれのジャンルに内在する文法や文脈を無邪気に踏襲して「新しさ」を吹聴するのではなく、それらを内側から徹底的に再検証すること。昨今あまり見かけなくなった仕事に熱心に取り組んでいるのが、太田遼と武政朋子、そして箕輪亜希子の3人である。
会場に入ると、白い通路が一直線に伸びている。一方の壁にはいくつかのドアが設えられているが、大半はこの会場にはなかったものだ。作品のありかを探しあぐねていると、長い通路を回りこんだところで合点がいった。通路に見えたのは仮設の壁面で、裏側には木材が剥き出しのまま、いくつかの絵画作品が展示されていた。ドアもフェイクだから、もちろん開かない。通常であれば絵画は白い壁面に展示されるが、この場合はむしろ裏と表が逆転しているわけだ。空間の内側と外側を巧みに反転させる太田遼ならではの快作である。
その剥き出しの壁面に展示されていた武政朋子の作品は、一見すると茫漠とした色面が広がる抽象画のようだが、よく見ると不規則な点線が描かれている。これらはもともと武政が描いた過去の絵画作品の表面を削りとり、点によってトレースしたもの。とりわけ際立つ十字のようなかたちは、キャンバスを裏側で支える木枠の痕跡だという。自らの絵画を分解して再構成すると言えば聞こえはいいが、そのような安易な形容を許さないほど強い身体性を感じさせている。文字どおり「身を削る」ような彫刻的身ぶりによって、武政は絵画を更新しようとしたのかもしれない。
彫刻の箕輪亜希子が発表したのは、写真作品。日常的な風景を切り取ったスナップ写真だが、それらの画面は人の顔の造作に見えなくもない。無機的な風景に人の顔を重ねて見る写真は多いが、箕輪の写真はその重複をわずかにずらしているから、たんに偶然の一致を喜ぶような写真ではない。他の作品で陶器を割り、再びつなぎあわせる行程を何度も繰り返しているように、箕輪の関心は「かたち」を疑い、「かたち」を弄り出すことにあった。人の顔に見えなくもない写真作品は、その「かたち」と「かたち」のはざまを写し出しているのである。
もはや既存のジャンルを無批判に信奉することはできないにしても、その圏外に容易には抜け出し難いこともまた否定できない事実である。それゆえ、美術を学んでしまった者たちの多くは、内側に立ちながら、外側へ突き抜ける造形をつくり出すことを余儀なくされる。その際、考えられるひとつの選択肢として、言語化しえない領域に降りる方法があるが、しかし彼らはそうはしない。意味や言葉が生まれる前の状態に立ち返るのではなく、ジャンルを内破する構えをあくまでも自己言及的に保持するのだ。だから彼らがそれぞれのジャンルで何をしようとしているのか、それらをどのように塗り替えようとしているのか、鑑賞者にはよくわかるのだ。ジャンルは作品のつくり手だけで成り立っているわけではないのだから、深みに降りていくのではなく、受け手とともに外側へ向かおうとする彼らの姿勢は誠実であるし、期待が持てる。

2014/05/23(金)(福住廉)

映画をめぐる美術──マルセル・ブロータースから始める

会期:2014/04/22~2014/06/01

東京国立近代美術館[東京都]

ベルギー出身のアーティスト、マルセル・ブロータースを中心に国内外のアーティストによる映像作品を展示した展覧会。興味深かったのは、展覧会のコンセプトと展示構成が照応していたこと。会場中央のブロータースの部屋から四方に向かって暗幕の小道がいくつも伸び、その先にそれぞれの参加作家の作品が展示された。暗闇の道を歩いて映像を訪ね歩く鑑賞方法が面白い。
とりわけ注目したのが、エリック・ボードレールとピエール・ユイグ。前者はパレスティナの風景やさまざまなイメージを映しながら、パレスティナ解放戦線に身を投じた重信房子の娘メイと、重信に合流した映画監督の足立正生による語りを聞かせる作品だ。映像化されていない27年間という時間について足立とメイが口にする言葉と、それらにあわせて映し出される映像は直接には対応していない。けれどもその音声と映像が脳内でまろやかに溶け合うとき、眼前の映像とはまったく別の映像を見ているような気がしてならない。映像を見ていながら、実はもうひとつ別の映像を見ているのだ。もちろん、それは単なる眼の錯覚なのかもしれないが、しかしそれこそが紛れもない映像詩と言うべきだろう。言葉の奥にイメージを見通すのが詩であるとすれば、エリック・ボードレールの映像作品は確かに映像の向こうを垣間見させたからだ。1時間ほどの尺がまったく苦にならないほど濃密で洗練された詩情性が実にすばらしい。
一方、ピエール・ユイグの作品の主題は、銀行強盗。1970年代にニューヨークで起きた銀行強盗事件の犯人に、当時の現場を再現したセットで証言させた。行員や警備員、警察官役のエキストラに指示を出しながら事件の経緯と内情をカメラに向かって話す犯人の男の口調はなめらかで意気揚々としている。だが、時折差し込まれる同事件に着想を得た映画『狼たちの午後』からの引用映像や、当時の現場を報じるテレビのニュース映像は、基本的には犯人の証言に沿いながらも、正確にはわずかにずれており、犯人が詳らかに語れば語るほど、その微妙な差異が逆説的に増幅していくのだ。おそらくピエール・ユイグのねらいは事件の真相を解明することにあるのではない。さまざまな視点による複数の映像を縫合することなく、あえて鑑賞者の眼前にそのまま投げ出すことによって、私たちの視線を映像と映像の狭間に導くことにあったのではなかったか。映像を見る快楽とは、視線がその裂け目にゆっくりと沈んでいくことに由来しているのかもしれない。
両者は、方法論こそ異なるとはいえ、ひとつの共通項を分有していた。それは、視線の焦点が映像そのものにあるのではなく、その先に合わせられているということだ。そこに、映像表現を楽しむための手がかりがある。

2014/05/17(土)(福住廉)

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中房総国際芸術祭 いちはらアート×ミックス

会期:2014/03/21~2014/05/11

市原市南部エリア[千葉県]

房総半島の中央にある市原市を舞台にした芸術祭。小湊鉄道の沿線に60組あまりのアーティストによる作品が展示された。大地の芸術祭や瀬戸内国際芸術祭と同じく、過疎高齢化という問題を基礎にした地域型の芸術祭である。先行する2つの芸術祭になくて、この芸術祭にあるのは、鉄道を主軸にした会場構成。運行数が少ないせいか、実質的にはバスでの移動がメインだったにせよ、山間を走る鉄道に乗って作品を訪ね歩くというコンセプト自体は新しい。
けれども、展示された作品は、すべてを鑑賞したわけではないので断定することはできないが、全体的に昨今の地域型芸術祭の傾向に沿うもので、とくに目新しいとは思えない。学校校舎などを再利用したうえで土地の風土や記憶を主題にした作品を展示し、あわせて祝祭的な行事や演劇的なパフォーマンスを演出する。こうした方法論が過疎高齢化という問題へのアートの文脈からの回答であることは理解できるにしても、それが鑑賞者の欲望を十分に満たすとは限らない。
ただ、いずれの地域型芸術祭にも通底しているのは、「食」を芸術祭に不可欠な要素として重視していることだ。とりわけ都市からの来場者にとって、その土地で育まれた野菜の味わいは、美術作品を鑑賞する以上に深く印象づけられることが多い。いかにコアなアートファンといえども、胃袋が幸せになれば、おおむね満足して帰っていく。この点は、都市型の芸術祭には到底望めない、地域型芸術祭ならではの特質であり、それを巧みに取り込んだ戦略が功を奏していることは間違いないだろう。
「食」と「作品」を並列のプログラムとして扱うことは、しかし、観客動員数を稼ぎだすための手段にすぎないわけではない。双方は、現われ方が異なっているにせよ、本来的に人間の営みとして同じ水準にあるからだ。人は食べると同時にものをつくり、絵を描くように食材を調理している。山河や海から自然の恵みを得ることと、日本画の画材を植物や鉱物から調達することは、基本的には同じ身ぶりである。明治以後の「美術」は都市を主要な舞台としてきたせいか、「作品」を特権化する反面、自然との関係性を蔑ろにしてきた。この不自然な偏りを是正することに地域型芸術祭の究極的な目的があるとすれば、「作品」を近代という偏狭な枠から解放する糸口は「食」だけにとどまらない。「住」や「衣」、あるいは「読む」、「書く」、「見る」といった身ぶりからも「作品」を解きほぐすことができるはずだ。
地域型芸術祭の課題は、それゆえ過疎高齢化という問題への即効的な効果の有無というより、むしろ従来の近代的な「作品」概念をどこまで私たちの手に取り戻すことができるのかという点にある。「作品」の主題が似通っていること以上に、「作品」そのものをいかにして人間の営みに引き戻し、溶けこませることができるのかが問題だ。こうした取り組みは抽象論に聞こえがちだが、過疎高齢化という具体論と決して矛盾しない。過疎高齢化をもたらした都市への人口集中は、人間の営みから「作品」を切り離し、特権化する過程と完全にパラレルだからだ。美術の問題を考えることと、都市社会のそれを考えることは、意外なほど通じあっているのである。
もちろん、この「考える」ことは、アーティストだけの仕事ではない。みんなで「考える」のだ。

2014/05/11(日)(福住廉)

勝正光「Pencil drawing exhibition #1」

会期:2014/04/12~2014/04/27

island MEDIUM[東京都]

大分県別府市の「清島アパート」で暮らしながら制作を続けている勝正光の個展。巨大な紙の上に鉛筆を走らせ一面の全体を黒く塗りつぶす作品を発表した。
その表面は漆黒の「黒」というより、むしろ光沢を放った「銀」。作品の前に立った人影を反映するほど黒鉛を支持体に強く塗り込めている。平面でありながら鋼のような硬質のマチエールが眼に沁みる。しかも同じ要領で支持体を塗りつぶしながら、その黒い画面の奥にエルメスのカレの文様が畳み込まれた作品もある。一見しただけではわかりにくいが、視点を変えて見ると有機的な模様が浮かび上がるという仕掛けがおもしろい。こうした工夫はややもすると全体の印象が図像のほうに引き寄せられがちだが、鉱物的な物資感が絵画的な図像の突出を絶妙に封じ込めている。
おそらく黒鉛を塗り込めるというシンプルな身ぶりだからこそ、あえて図像を混入させることで、その基本的な強度を試してみたくなるのではないか。自分で自分を追い込み、限界を突破していく。勝正光の黒い画面の奥には、昨今の若いアーティストには見受けられなくなった特徴も見通すことができるのである。

2014/04/24(木)(福住廉)

野口哲哉 展─野口哲哉の武者分類図鑑─

会期:2014/02/16~2014/04/06

練馬区立美術館[東京都]

鎧武者を造形する野口哲哉の個展。古美術や参考資料もあわせて100点あまりの作品が展示された。博物館が所蔵する古来の甲冑と野口の作品を並置することで、虚実がない混ぜになった世界観を巧みに演出していた。
見どころが鎧武者を精巧に造形する超絶技巧にあることは言うまでもない。だが、それ以上に印象づけられたのは、野口の鎧武者がある種のドワーフに見えたことだ。いずれも実寸より小さく、場合によっては手に乗るほど小さなサイズだからだろう。漏れなくおじさんであることも7人の小人と重なりあうし、あるいは鎧武者でありながら、いずれも戦闘の雰囲気を微塵も感じさせず、むしろ日常のけだるい空気感を漂わせているという落差が、そうした幻想性をひときわ高めているのかもしれない。とりわけ箱の中でひとりずつ横たわる《Package of Past man》のシリーズは、まるで妖精のような儚さすら感じられる。
それゆえ野口の鎧武者は、徹頭徹尾、ファンタジーであることがさらけ出されている。どれほど甲冑が精巧につくり込まれているとしても、それらが意味する戦闘や武士、あるいはホモソサエティといった参照項と決して結びつかないのだ。武家出身の高橋由一は《甲冑図(武具配列図)》によって武家社会への断ち切れぬ郷愁と揺るぎない誇りを描いたが、野口の造形にはそうしたマッチョなノスタルジーはほとんど見受けられない。あるのは、ただ、ひそやかな幻想世界の強度である。
実在の街を塗りかえるような浸透力をもつオタク文化でもなく、きらびやかな世界を定期的に供給することで独特のコミュニティを形成するタカラヅカでもなく、あくまでもひそやかに、しかし忘れ得ない幻想性を、一時的にではあれ、垣間見せること。野口の世界観は、こうした類稀な幻想性に基づいているのであり、おそらくアートの王道もまた、この幻想性に向かっているに違いない。

2014/04/06(日)(福住廉)