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美術に関するレビュー/プレビュー

第八次椿会 このあたらしい世界 杉戸洋、中村竜治、Nerhol、ミヤギフトシ、宮永愛子、目[mé]

会期:2023/10/31~2023/12/24

資生堂ギャラリー[東京都]

グループ展に出すとき、作家には、目立とうとするやつ、普段と変わらないやつ、あえて目立たないようにするやつの3種類がいる。目立とうとするやつは実力より見栄が先走るので、たいていおもしろくない。普段と変わらないやつは逆に作品に自信があり、グループ展などどうでもいいと思っているのでつまらない。やっぱりおもしろいのはあえて目立たないようにするやつだ。目立たない場所に目立たない作品を目立たないように置いて、気づいた人に「なるほど」と納得させる。でも気づかないで帰る人もいるから、イチカバチかの賭けでもあり、そこがまたおもしろい。

「椿会」は戦後、資生堂ギャラリーで始まったグループ展。2021年にスタートした「第八次椿会」のメンバーは、杉戸洋、中村竜治、Nerhol、ミヤギフトシ、宮永愛子、目[mé]の6組で、毎年テーマを決めて行なってきた。今年のテーマは「放置」と「無関心」。なんじゃそりゃ? グループ展に求められるべき統一性を踏みにじるようなテーマではないか。これはおもしろそうだ。

1階から階段を降りていくと、踊り場にミヤギフトシによる刺繍の作品があり、ふーんと思いながら通り過ぎて振り返ると、その裏にNerholの作品を発見。階段を降りた先には宮永愛子のナフタリンを使った作品があり、その隅っこの壁にもNerholの作品がひっそりと掛かっているではないか。Nerholはほかの出品作家にインタビューするため、それぞれの仕事場を訪れ、そこに生えている帰化植物を撮影し、画像を束ねて切れ込みを入れた作品を、あえて目立たない場所に展示しているのだ。

受付の前の大きな柱を避けてギャラリーに行こうとしたとき、ふと気づく。あれ? こんなとこに柱あったっけ。これは中村竜治の作品。こんなに太いのに、なに食わぬ顔して立っているからすぐには気づかなかった。柱は奥のギャラリーにもう1点、絶妙な位置に立っていて、初めて訪れる人は作品だとは思わないだろう。目立たないけど目立つというか、目立つけど目立たないというか。その柱の陰にもNerholの作品が。

目[mé]は波を立体的に切り取ったような作品を出しているが、もう1点あるはずの作品が見つからない。あっちこっち探した挙句ようやく発見したのは、床に貼られた切手大のポートレート。こりゃ踏んじゃいそうだ。ほかにももちろんフツーの作品もフツーにあったが、記憶に残るのは目立たない(がゆえに目立つ)作品だ。逆にひとりだけ目立とうとするやつがいなかったのは、作家の皆さんのお行儀がいいからなのか、それともギャラリー側の統制が効いているせいなのか。


第八次椿会 このあたらしい世界 杉戸洋、中村竜治、Nerhol、ミヤギフトシ、宮永愛子、目[mé]:https://gallery.shiseido.com/jp/tsubaki-kai/

2023/11/24(金)(村田真)

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麻布台ヒルズギャラリー、パブリックアート

麻布台ヒルズ[東京都]

11月24日にオープンする麻布台ヒルズの内覧会に行ってきた。しばらくのあいだ日本一の高さを誇る森JPタワーをはじめ、建築全体が波打つようなヘザウィック・スタジオのデザインしたガーデンプラザ、ザ・コンランショップなどの店舗が入ったタワープラザなど見どころは多いが、今回はパブリックアートとギャラリーを中心に見てきた。パブリックアートはオラファー・エリアソン、奈良美智、ジャン・ワン、曽根裕の4作家のみ。開発規模の大きさに比べれば寂しいが、1点1点はかなりお金がかかっていそうだ。

まず、JPタワーから中央広場に出る手前の吹き抜けに天井から吊るされているのが、オラファー・エリアソンの《相互に繋がりあう瞬間が協和する周期》というややこしい題名の作品。ぐるぐると曲線を描くように多面体をつなげたものが4点並んでいる。1点の直径は3メートルくらいあるだろうか、これは高そうだ。



オラファー・エリアソン《相互に繋がりあう瞬間が協和する周期》(2023)[筆者撮影]


広場に出ると、高さ7メートルくらいありそうな奈良美智の《東京の森の子》が立っている。いちばん下に顔があり、頭上に溶けたソフトクリームのような流動体がコーン状に載っている彫刻だが、ここのオリジナルではなく、どっかで見たことがある作品。

表面が鏡面仕立てなのであまり目立たないのが、ジャン・ワンの《Artificial Rock. No.109》。ゴツゴツした岩を模した彫刻で表面をステンレスで覆ったものだが、これも2006年の作品で、2016年の茨城県北芸術祭に出品されたものらしい。もっと目立たないのが、曽根裕の《石器時代最後の夜》と題された大理石の彫刻。広場に数点置かれているが、地にへばりつき、ベンチとしても使えるので見逃してしまいそう。これも2017/2023年となっているので再制作か。よく丸太を組んだ柵をコンクリートで模したフェイクの柵があるが、これは高価な大理石でフェイクをつくったもので、この場所にいちばん合っているような気がする。あとはどこに置いても同じだろ。



曽根裕《石器時代最後の夜》(2017/2023)[筆者撮影]


麻布台ヒルズギャラリーに行く途中のガーデンプラザのGallery&Restaurant 舞台裏に、加藤泉の彫刻が置かれていた。石の塊を4つ重ねて彩色したものだと思ったら、鋳造して色を塗ったものだという。石だったら床が抜けるところだが、中空の金属でも相当の重さだろう。どうせならこの作品をパブリックアートとして広場に置いたほうが目立つのに。でも麻布台ヒルズはお上品だから、こんなワイルドな作品は置かないだろうね。



加藤泉の作品(2023)[筆者撮影]


いちばん奥まった(神谷町駅からは近い)ところにある麻布台ヒルズギャラリーでは、「オラファー・エリアソン展:相互に繋がりあう瞬間が協和する周期」を開催中。JPタワーにあったややこしいタイトルの作品のヴァリエーションである《呼吸のための空気》(2023)や、有機的なパターンを描くドローイングマシン《終わりなき研究》(2005)などを見て暗い部屋に入ると、幾条もの水流がストロボの点滅により連続した光の粒として感知されるという大作《瞬間の家》(2010)があって、しばし見入る。さて次の部屋は? と思ったらここでおしまい。美術館じゃなくてギャラリーだからこんなもんか。オラファーは作品も言動も優等生的でいけすかないが、こういうコジャレた街にはぴったりなのだろう。


オラファー・エリアソン展:相互に繋がりあう瞬間が協和する周期

会期:2023年11月24日(金)~2024年3月31日(日)
会場:麻布台ヒルズギャラリー
(東京都港区虎ノ門 5-8-1 麻布台ヒルズ ガーデンプラザ A MB階)


麻布台ヒルズ パブリックアート:https://www.azabudai-hills.com/art/publicart

2023/11/22(水)(内覧会)(村田真)

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今村源 遅れるものの行方展

会期:2023/11/03~2024/01/28

水戸芸術館現代美術ギャラリー[茨城県]

今村源の作品には以前から注目している。筆者はきのこ(菌類)に強い関心を抱いているので、現代美術のフィールドで同様の志向をもつ彼の仕事がいつも気になるからだ。静岡市美術館での「わた死としてのキノコ」(2013年8月~10月)以来、美術館での個展としては10年ぶりという今回の水戸芸術館現代美術ギャラリーの展示でも、まさに「きのこ的」としか言いようのない作品が並んでいた。

だが、立体作品のインスタレーションだけではなくドローイングも含む55点の作品を見ると、きのこの形象がはっきりとあらわれているものも多いが、むしろ彼の作品のライトモチーフとなっているのが菌糸であることがわかる。実は菌類の本体は細長い細胞が連なった菌糸であり、きのこ(子実体)は植物でいえば花や果実にあたる生殖器官である。菌糸は普段は人の目に触れることなく、地下に生と死の両方の領域にまたがる巨大なネットワークを形成し、生きものたちの活動にさまざまな作用を及ぼしている。今村の作品は、そのような不可視の世界のあり方を、日常的な事物を紐や針金のような構造体で結びつけ、つなぎ合わせることで浮かび上がらせようとする試みなのではないかと思う。

共感とほのかなユーモアとが絶妙にブレンドされた彼の作品世界はとても魅力的だ。今回の展示では、まさに菌糸の先端の感触を繊細に定着したようなドローイング作品が特に印象深かった。今村は言葉を綴る能力も高いので、「絵本」のような形で彼のドローイングと文章を合体させるのもいいのではないだろうか。


今村源 遅れるものの行方展:https://www.arttowermito.or.jp/gallery/lineup/article_5251.html

2023/11/21(火)(飯沢耕太郎)

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食とアートと人と街 2023 秋 @ヨコハマポートサイド地区

会期:2023/11/02~2023/12/02

ヨコハマポートサイド地区[神奈川県]

BankART Stationで開催中の「食と現代美術」展と同時期に、ポートサイド地区の街全体を使って行なわれる展覧会。飲食店やオフィス、屋外などさまざまな場所に作品が展示されるので、地下の一室で開催される「食と現代美術」よりワクワクするし、見応えもある。ただし各店舗のオープンしている日時がバラバラなので、なかなか1日で見て回ることができないのが難点だが。

ポートサイド地区は横浜駅の北東に位置し、バブルの時期にみなとみらい地区に道を通すために再開発された地域。駅に近いほうは「アート&デザインの街」をコンセプトにしたおしゃれなビルが建ち並ぶが、中央卸売市場のある奥のほうに行くと商店や問屋が並ぶ昔ながらのディープな風情が残り、新旧の落差が激しい。そして作品も奥のほうがおもしろい。ていうか、場所と作品とのマッチングが絶妙なのだ。

その最たるものが蔵真墨の写真展「Photogram Works in Tsutakin Store」だ。会場となった蔦金商店は明治27(1894)年から続く老舗の海苔問屋。蔵はここで扱う海苔や昆布などを用いてフォトグラムを制作した。フォトグラムとは被写体を印画紙の上に載せて直接光を当てて像を定着させる技法で、白黒の反転した1点ものの写真。海苔は黒いので反転して白くなるが、蔵はもういちど反転させて白い海苔と黒い海苔を背中合わせに展示している。蔵によれば、日本の海苔は密度が濃いので光をあまり透過せず、韓国海苔より白く写るそうだ。板海苔や刻み海苔などどれも抽象的なモノクロ画像だが、これを海苔の広告に使ったらウケるんじゃないか。ちなみにこのお店はタレントの出川哲朗の実家が経営しているそうで、道理であちこちに出川の顔があると思った。



蔵真墨「Photogram Works in Tsutakin Store」展示風景[筆者撮影]


その奥のつま正という野菜問屋のオフィスビルの壁面には、黒いテープでヘタクソな文字が書かれている。これは光岡幸一の作品で、「あっちかも」と読める。なにが「あっち」なのかわからないが、四角いビルに奔放な文字が踊っていておもしろいじゃん。さらに奥のオリマツ中央市場店では、片岡純也+岩竹理恵が店内のあちこちに作品を展示している。オリマツは弁当容器や食器類を扱う店舗で、片岡と岩竹はそこの商品を使って動くオブジェをつくったり、商品カタログの画像でコラージュしたり、店内にあるものを有効利用して作品化したのだ。これは見事。



光岡幸一の作品[筆者撮影]



片岡純也+岩竹理恵の作品[筆者撮影]


歯抜け状態の更地にも作品が点在している。BankART Stationで大作を発表した大田黒衣美は、更地にチューインガムをモチーフにした写真を展示。屋外のほうがいわくありげな怪しさがあっていい感じだ。その並びのフェンスで仕切られた更地には、ヤング荘が《スナック・フェンス》を開設している。フェンスを抜けると1坪ほどの立方体の小屋が建っているのだが、壁も床もすべて金網の工事用フェンスでできているので内部が丸見え、椅子はカラーコーン製だ。人と人とをつなぐスナックが、人と人とを隔てるフェンスでつくられているのがミソ。夜には「スナックフェンス」の看板が灯るが、ここは営業禁止のはず。やっぱり寂れた場所には怪しげな作品がいちばん似合う。


食と現代美術 Part9 ─食とアートと人と街─:http://www.portside.ne.jp/pg153.html

2023/11/21(火)(村田真)

さいたま国際芸術祭2023 メイン会場

会期:2023/10/07~2023/12/10

旧市民会館おおみや[埼玉県]

「さいたま国際芸術祭2023」の見どころはミハイル・カリキスの作品だろう。埼玉の大宮光陵高等学校合唱団が芸術祭のメイン会場である「旧市民会館おおみや」(2022年に閉館)で『風の解釈』を歌う様子が収められた映像作品であり、その収録が行なわれたホールのスクリーンに投影されるものだった。通常「ひとつの歌」として体感される合唱が、ショットごとでそれぞれの歌い手の顔、息遣い、音の体現を微細に体感しながら、時に集として押し寄せる様子は、「旧市民会館おおみや」がいままでに豊かな文化の創造を担ってきた場所であること、個と集それぞれが把持する可能性のきらめきを何度も魅せつける。近所に住んでいたらフリーパスで何度か見に行きたくなるような作品だった。


ミハイル・カリキス《ラスト・コンサート》(2023)さいたま国際芸術祭2023[撮影:表恒匡]


「見どころ」と言ったのは、もっともメイン会場のなかで作品へのアクセスがわかりやすい構成になっていたからだ。メイン会場の入口にはカリキスの作品の所在を示す看板が点々としており、もっとも「見つけやすい」作品だった。それに対して、メイン会場のほとんどの作品の所在や部屋そのものへのアクセスは、非常にわかりづらい。会場の入口で受け取ったマップを見ても、どこがどこにつながっているのか皆目見当がつかないというわけである。ただしそれは、マップそのものが読み取りづらい(作品の場所は大まかなエリアで示されるのみ)以上に、「旧市民会館おおみや」のファサードを大きく貫通するガラスと梁の大階段と、建物全体を縦横無尽に幾重にも分断するガラス壁の存在によるものだ。


メイン会場の様子。鑑賞者が右往左往するほどにこの黒枠のガラス壁が至るところを隔てている


この状態がすでにディレクターである目 [mé]のステイトメントにあった「見逃し」の祝福であり、「誰にも奪われない固有の体験」を生み出すものなのだろう。会場の壁にキャプションは存在しないのだが、これは「作品に没入してくれ」というメッセージというよりも、「どれが誰のものか撹拌する」という意思だ。会場地図を持ってうろうろしていると、親切に看視員が道を案内してくれる(2、3回ほどお世話になった)。

とはいえ、芸術祭や大規模企画展で「見逃し」はつねに生じてしまうものだ。批評家の藤田直哉がかつて「地域アート」に対して指摘した、見終わることの判断の困難さへ、逆説的な地方芸術祭が抱える「ハイライトありきの順路」の問題への応答だとしても、「見逃し」を積極的に演出することは、出展作家とプロデュース・ディレクション側がどの程度の共犯関係を取り持てているかによって、「見なくてもいい作品」「見落としてほしい作品」を演出として作品に押し着せている状態にあるのではということが頭をちらつく。

この問答を一緒に展覧会を見に行った吉田キョウと何度も反芻した。ポイントは作品をケアする立場にあるディレクターが言うことではないのではないか、ということになる。作品や作家を大事にするための「インタビューの文法」をいくつも模索してきた吉田らしい言葉だと思ったし、その吉田の言葉にわたしは強く肯首する。しかしこれは、例えばディレクション側だとしてもアーティストコレクティブである目 [mé]にしてみたら、つねに自分たちが晒されてきた局面をどう芸術祭自体で打ち返すかという立場でしかないのだろう。

新聞のテレビ欄のような芸術祭の催事日程表にびっしり書かれた名称は、半日の滞在ではこの芸術祭のほとんどを見逃していることを突きつけられる。そのほかにも、会場の片隅に散乱する雑巾、箒、マスキングテープにスタイロフォーム、解体資材……どこまでが何の作品の構成物なのかどうか判別を困難にし、あからさまな作為の氾濫は作品の見逃しを誘発する。

こういった施工資材や清掃用具を「作品と日常の境界を撹拌する」以上に何を生み出すだろうと吉田と話していたのだが、これを考えるためにわたしたちは「会場を巡回する演者としての清掃員」に焦点を絞ることにした。

煎じ詰めると、メインホールは散らかりすぎているのだ。清掃員のユニフォームを纏い掃除用具を携える者は徘徊するばかりで何もしていないことが明白であり、それは「曖昧さ」を生み出すどころか、フィクションとしての作為を強調するだけでしかないと吉田は指摘した。この「清掃員」にわたしは芸術祭を貫くナラティブがあってほしいと思って(なくても良い)、清掃できない清掃員は幽霊であるに違いないという憶測を始めた。もちろん、清掃員がいることに理由なんかなくても良い(念押し)★1。ただし、これらの役者たち、芸術祭の風景をつくる彼らは「スケーパー(SCAPER)」と呼ばれる。研修を受けたボランティアである「スケーパー」たちが、もしかしたら街の中にもいるとしたらどうか★2


スケーパーイメージ[撮影:目 [mé] ]


会場内のあからさまな嘘(散らかり、作為)は、会場の外に出た瞬間、判別不能になる。プレス用の資料にある「スケーパーイメージ」を参考とするに、誘導灯を持つ駐車場付近にいる人間が「スケーパー」である可能性があるというのだ。こうして「スケーパー」は虚実をないまぜにする。

世界のなかに「スケーパー」を眼差してしまう、そんなひとの在り方にうつくしさを感じることは理解できるが、情報汚染で混迷する世界のなかでそういった「フェイク」を演じる対象については、より一層の範疇の設定による造形の洗練が必要ではないか。それは例えば、「SCAPERを募集します!!」★3に書かれた「あるものからあるものへ視線を移し続ける」ことや 「道端で綺麗なグラデーションの順番に並ぶ落ち葉」と、「清掃員」や「誘導員」は並置すべきなのかということだ。

何らかの職務に従事している人を「(彼らもわたしと同じ)スケーパーかもしれない」と眼差すことは、日常のスペクタクル化ということ以上に、観賞対象として他者を楽しむ機会となる。もちろん、それぞれの日常的な職務を「わたしはスケーパーなのだ」と再帰的に演じることで人生を楽しみ直すことは可能かもしれない。また、そうやって街は生まれ変わるかもしれない。だがしかし、スケーパーに選定されていると思しき職業が、なぜ巡回する警察官ではあれないのか、訓練中の消防隊員ではないのか、ということから、スケーパーとは何者を他者としているのかとを考えつつ、わたしは清掃員はスケーパーではなく幽霊なのだという説の延命を模索してしまうのだった。


本芸術祭は「1DAYチケット」の2000円で観覧可能でした(フリーパスは5000円)。



★1──例えば、「スケーパー」と大岩雄典の個展「渦中のP」(十和田市現代美術館「space」にて2022年7月1日〜9月4日開催)におけるナラティブなしの徹底とその範疇の造形と影響状態を比較することは有用だろう(ただし、わたしは大岩個展の場合、無理矢理ナラティブを発生させることも可能になっていると考えている)。
★2──「SCAPERを募集します!!」(『さいたま国際芸術祭2023』)
https://artsaitama.jp/scaper/
以下引用。「SCAPERの共通ルール/(1)『虚』の存在であってはならない。つまり、誰にも全く気づかれない存在であってはならない。/(2)『実』の存在であってはならない。つまり、何らかのパフォーマンスや人為的な行為であることが判明してはならない」。まったく検討できなかったが、スケーパーをサンティアゴ・シエラが展覧会のエリアに低賃金で「靴磨き」や「露天商」を招致したことと比較することも重要だろう。サンティアゴ・シエラについては菅原伸也の『同一化と非同一化の交錯 サンティアゴ・シエラの作品をめぐって』(パンのパン、2023)を参照のこと。
★3──同上。



さいたま国際芸術祭2023:https://artsaitama.jp/


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2023/11/18(日)(きりとりめでる)