2018年01月15日号
次回2月1日更新予定

artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

細倉真弓「Jubilee」

会期:2017/12/02~2018/01/28

G/P GALLERY[東京都]

細倉真弓の「Jubilee」展には、さまざまな出自、広がりと方向性を持つ作品が共存していた。その中心になるのは、アートビートパブリッシャーズから刊行された同名の写真集に収められた写真群である。日本、台湾、香港など東アジア各地で撮影された写真を集めたこのシリーズでは、ヌード、植物、都市風景の断片などが混じり合い、カラーフィルターによる色味の改変などの操作を加えることで、活気あふれる迷宮的なイメージ空間が織り上げられている。とりわけ、男とも女ともつかない中性的な若者たちの裸体のイメージには、細倉のジェンダーや人/動物、生物/無生物などの「境界を曖昧にする新しい肌」を、写真を通じて探ろうとする彼女の志向性がくっきりとあらわれていた。
だが、今回の展示にはそれだけでなく、中国・厦門のクラブで撮影した若者たちの映像作品、ネオンサインなどが散りばめられ、より錯綜した造りになっている。細倉は2015年からライターの磯部涼と組んで雑誌『サイゾー』で連載し始めた「ルポ川崎」の取材で、在日外国人コミュニティなど多次元的な環境で生きる若者たちの群像も撮影しており、そちらも同時期に写真集『写真集 川崎』(サイゾー)にまとめられた。つまり、ここ数年、関心の幅と行動範囲が大きく広がりつつあるわけで、それらがいままさに意欲的な作品群として形を取りつつあるということなのだろう。たしかに混乱の極みとしかいいようのない、落ち着きの悪い会場構成だったが、これはこれでいいのではないかと思う。この「もがき」の時期を乗り越えることで、ひと回り大きな作品世界が見えてくるはずだ。

2017/12/13(飯沢耕太郎)

長島有里枝/ミヨ・スティーヴンス-ガンダーラ「Forever is Composed of Nows」

会期:2017/11/21~2017/12/22

MAHO KUBOTA GALLERY[東京都]

東京・神宮前のMAHO KUBOTA GALLERYで、長島有里枝が友人でもあるアメリカ人のアーティスト、ミヨ・スティーヴンス-ガンダーラと2人展を開催した。9月~11月に東京都写真美術館で開催された「そしてひとつまみの皮肉と、愛を少々。」は、これまでの仕事をまとめて振り返る大規模展だったが、こちらの小品展もなかなか見ごたえがあった。
スティーヴンス-ガンダーラは、高解像度スキャナーを使って植物、羽根、蜂の死骸を写しとったシリーズ、喪章をモチーフに「地球上から失われたもの、失われつつあるもの」を刺繍した作品を出品し、長島は東日本大震災後にアメリカの乾燥地帯で撮影した棘のある植物群のシリーズと、スケートボードに感光乳剤で写真をプリントした作品を出品している。2人ともある種の喪失感、環境の変化に対する鋭敏で繊細な感受性をくっきりと表現していて、高度に完成されたインスタレーションとして成立していた。
特に旧作ではあるが、長島のスケートボード作品が興味深い。1997年に神戸ファッション美術館ほかで開催された「SHASHIN」展に出品された作品(ほかに篠山紀信、荒木経惟、森村泰昌、田原桂一、植田正治が参加)だが、当時の彼女が、すでに写真表現の枠組みを現代美術の領域にまで拡大しようとしていたことがよくわかる。それはそのまま、彼女の現在の作品のスタイルに繋がるものといえる。

2017/12/13(飯沢耕太郎)

奥山由之「As the Call, So the Echo」

会期:2017/11/18~2017/12/24

Gallery 916[東京都]

奥山由之の新しい写真集『As the Call, So the Echo』(赤々舎)は、これまで彼の写真を見てきた読者にとって、やや意外な印象を与えるものになった。奥山といえば、目に飛び込んでくる現実世界の断片を、軽やかに掬い取り、撒き散らしていくような作風が特徴的なのだが、今回の写真集には東京から長野県に移住した友人、「哲朗さん」とその家族の日常を撮影した写真が大きくフィーチャーされている。被写体としっかりと向き合ってシャッターを切った写真も多く、「私写真」的な雰囲気が色濃い。
ちょうどデビュー写真集となった『BACON ICE CREAM』(PARCO出版、2015)を完成させた頃から、奥山は「急に音が聞こえなく」なり、「目にするもの全てがグレーに見えた」時期があったのだという。自己と現実世界とのズレが極限状態に達したということなのだろうが、そんな引きこもり状態の時期に「哲朗さん」と出会い、彼とその家族(奥さんと幼い息子)を撮影するうちに、再び「前向きな喜び」を感じられるようになった。つまりそれらの写真は、奥山にとって、写真家としての原点回帰としての意味を持っていたということだろう。
とはいえ、写真集として刊行された『As the Call, So the Echo』も、916で開催された同名の個展も、一筋縄ではくくれないつくりになっている。写真はⅰ~ⅳの4部に分かれており、そのうちⅱとⅳは気持ちのよい波動が伝わる家族写真だが、ⅰとⅲにはなんとも不穏な気配の漂う、奇妙な雰囲気の写真が集められているのだ。「彼が作り上げたプールでの出来事」(ⅰ)と「吉祥寺キチムでの小さな舞台」(ⅲ)を撮影した写真群は、ほとんどがブレていて、光と色に暴力的に浸透されており、どうも居心地がよくない。なぜこのような構成にしたのか不思議に思っていたのだが、12月10日に916で開催された奥村とのトーク・イベントに参加して、ようやく納得することができた。つまり、これらの写真群は、奥山が長野の「哲朗さん」の家とその周辺で経験した出来事を、いったんフィルターにかけて濾過して出現させた、いわば彼自身の脳内環境の写しとでもいうべきイメージだったのだ。
あらゆる出来事が、外在的な現実(意識)と内在する幻影(無意識)とに分化して、しかも表裏一体となってあらわれてくるという考え方はとても興味深い。その2つの世界をつなぐ役目を果たしているのが、「水」のイメージなのだという。916での写真のインスタレーションも、そのⅰ~ⅳの構成プランに対応して、細部まできっちりと組み上げられていた。写真家としての奥山の本領がようやく発揮できるようになってきたのではないかと思う。加速度的に成長しつつある彼の次の展開が楽しみだ。

2017/12/10(飯沢耕太郎)

石内都「肌理(きめ)と写真」

会期:2017/12/09~2018/03/04

横浜美術館[神奈川県]

2017年はよく練り上げられたいい写真展が数多く開催されたが、1977年のデビュー展「絶唱、横須賀ストーリー」から40周年という区切りで企画された石内都の「肌理と写真」は、まさにその締めくくりにふさわしい内容の展覧会だった。
展示は、石内が暗室を構えていた横浜を舞台とした作品を集成した「横浜」、出生地の群馬県桐生市の特産物であり横浜とも輸出品としてかかわりの深い絹織物をテーマとした「絹」、女性の身体に残る傷を撮影した「Innocence」と『苦海浄土』の作者である作家の石牟礼道子の手、足を接写した「不知火の指」からなる「無垢」、いまやライフワークとなった「ひろしま」と「Mother’ s」、「フリーダ」の3作品をまとめた「遺されたもの」の4つのパートで構成されている。全240点近いそれらの作品のほかに、写真展示室では横浜美術館が所蔵している「絶唱、横須賀ストーリー」の55点のヴィンテージ・プリントも見ることができた。部屋の壁を塗り分け、壁一面に大小の写真を展示するインスタレーションも見事な出来栄えで、このところの石内の写真作家としての充実ぶりがよくあらわれていた。
実際に写真を見ていくと、石内自身が選んだというタイトルの「肌理」という言葉が、彼女の作品世界を貫くキーワードであることがよくわかる。石内は多摩美術大学在学中に染織を学び、写真家として活動し始めてからも銀塩写真の印画紙の粒子の表現にこだわり続けてきた。対象物を視覚的ではなく触覚的に捉えるやり方は、彼女のなかにしっかりとプログラミングされていて、「肌理」を指で触り、目で追う愉しさこそ、写真家としての活動の原動力となっているということだ。この展覧会を置き土産として、石内は来年、住み慣れた横浜を離れて桐生市に移住するという。そのことで、彼女の写真がどんなふうに変わっていくのか、大きく期待が膨らむ展示だった。

2017/12/08(飯沢耕太郎)

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村越としや「沈黙の中身はすべて言葉だった」/「月に口笛」

会期:2017/11/25~2017/12/22

CASE TOKYO/tokyoarts gallery[東京都]

村越としやがCase Publishingから写真集を2冊刊行し、それに合わせて展覧会を開催した。『沈黙の中身はすべて言葉だった』は、2011~15年にかけて福島県各地を撮影したパノラマサイズの写真群を集成している。故郷の須賀川市の周辺も大きな被害を受けた2011年の東日本大震災以降、村越の写真の質が変わったことは間違いない。画面全体を把握していく構築力が強まり、緊張感を孕んだ風景を定着することができるようになった。それにつれて、写真のフォーマットも流動的に選択するようになり、6×6判、6×7判、パノラマサイズなどを自在に使いこなしている。展覧会の会場のCASE TOKYOには、プリントのほか印刷に使用した刷版なども同時に展示され、写真集ができ上がっていくプロセスを追体験できるように構成されていた。
一方『月に口笛』は、まだ写真を始めたばかりの頃の2000年代初頭のネガをもう一度見直し、新たにセレクトして再プリントした作品集である。風景の細部に眼を凝らし、湿り気のある空気感を丁寧に写しとっていく作風が、すでにでき上がりかけていたことがわかる。こちらはtokyoarts galleryの空間に、オーソドックスにフレームに入れた写真が並んでいた。どちらも、きちんと組み上げられたいい展示だし、田中義久がデザインした写真集の出来映えも悪くない。ただ、どことなくピクトリアリズム風の、閉じられた世界に引き込まれつつあるのではないかという危惧感も覚える。両写真集のタイトルが示すように、村越は言葉をしっかりと使いこなす才能にも恵まれている。小さくまとまらず、多方向に大きく開いていくような作品に向かうべきではないだろうか。

2017/12/05(飯沢耕太郎)

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